──────
「まさか、医学生さんだとは知らず……すみません」
「もう謝んなって」
ふは、と柔らかく笑われた。
医務室に入るやいなや、「新木くん!」と声がかかって驚いた。医務室なんてめったに入らないのでよくわからないが、治療に当たってくれた人物となにやら面識があるらしい彼の様子をうかがう。
「それにしても、新木くんに遭遇するなんてキミは運がいいねえ」
「ちょ、先生」
「だって医者のたまごだぞ? ちゃんと治療するように言ってくれてよかったよ、さすが医者のたまごだ。はっはっは!」
「まじで、やめてください」
苦笑いをしながら項垂れる彼。……というか、医者のたまご、って。え、と彼を見ると、なぜか彼ではなく、医務室担当の男性が「彼は医学部の新木琥尋くんだよ。キミ、知っているかね?」と自慢げに紹介する。その横で彼──新木さんは、「先生……」と眉根を寄せていた。
医学部、新木琥尋。他人事のように思っていたワードが飛び出してきて、言葉を失う。
え、彼が、あの、有名な。まさか、だってそんなこと。
思えば、異様なほどに整った顔は、話題のひとつやふたつにはなりそうだ。だって私も、綺麗だ、と見た瞬間に思ったのだから。
さきほどの一連を思い返していると、「水嶋さん」と名前を呼ばれた。
「は、はいっ」
「少し、話がしたいです」
「え、」
「つらそうに、見えたから。話くらいなら、聞けると思うんで」
青紫色の澄んだ瞳にとらわれる。
信じるとか、信じないとか、敵とか、味方とか。いつもそんなふうに他人を分けていた。だからよく見極めるのに失敗して、味方だと思っていた人や信じていた人が予想外の反応をすると、裏切られた、と激しい後悔に包まれる。期待しなきゃよかった。信じなければよかった。あなたは敵?それとも味方?
「……強くなるには、どうしたらいいんでしょうか」
言ってから、後悔した。こんな漠然とした質問をしたところで、彼を困らせてしまうだけだ。
案の定、「ん?」と首を傾げた彼が私を見た。まずい引かれたかも、と不安になって「いや、なんでもないです」と首を振ると、しばらく沈黙が降りる。
いきなりおとずれた無音状態に耐えきれず、おそるおそる顔を上げると、青色の瞳が静かにこちらを見つめていた。
「水嶋さんの考えてること、ちゃんと理解したいって思うから、教えて」
────理解したい。
私の思いなんてちっとも分かろうとしない人がいるなかで、たしかに彼は言った。理解したい、と。
この人になら、話せるかもしれない。分かってほしい、と警戒心の紐がほどけていく。
今まで生きてきたなかで受けた、意図的な攻撃も、無意識的な刃も、彼ならすべて丸めてくれたかもしれないな、と思った。守るとかではなく、最初から傷つけないことを選んでくれるんだろうな、と。
「……悪気はないと思うんですけど、そういう、悪気がない言葉にいちいち傷つく自分がいて。もう少し楽観的に生きたほうが人生楽なんだろうな、って思うんですけど。楽観的すぎて他人を傷つけても平気で笑えるような人間にはなりたくないなっていうか」
「うん」
「でも、結局なれないから。傷つく側の人間でしかいられないのかな、とか。もっと、軽く受け流せる人間になりたかったです」
なるほどな、と相槌を打った彼は、少し遠くを見つめながら「でもさ」と言葉を続けた。
「悪意がない、悪気はない、って言うけど、それは水嶋さんが傷ついていい理由にはならないだろ。そうやってあんまり自分のこと痛めつけるなよ。悪意がないなんて誰がわかんの。そう見せてるタチ悪いパターンもあるからね、世の中には。不器用なフリ、空気読めないフリ、人の心分からないフリ、いろいろあるから。そういうのを『そんなつもりじゃないかもしれない』って思って信じようとするの、わりとしんどいことだと思う」
ふ、と息を吐いた新木さんは、ゆっくりと天井をあおぐ。
「傷ついたっていう事実を無かったことにしなくていいと思う。相手が意図的であれ、そうじゃないのであれ、傷ついた、っていう事実には相手は何も関係がないから」
「……だけど、傷ついた分だけ強くなるっていうじゃないですか。だからもっと傷つかなきゃいけないのかなとか、そもそも傷つかなくなるまで平気になるまで傷つくことに慣れなきゃいけないのかなとか、フツウに生活する中での痛みに耐えられるメンタルがないとダメなのかなとか、そういうつまんないこと、ずっとずっと気にして、私」
雨の音が聞こえる。新木さんの顔がゆっくりとこちらを向く。まっすぐに、目が合う。こんなふうに自分の目を見てもらうの、久しぶりだ。
聴覚に向いていた意識が、彼だけに集中する。
「受けなくてもいい傷が、世の中にはある。自分がボロボロになる傷は、できるだけ浅いほうがいい。わざわざそれを受けにいく必要なんてない。俺は、そう思う」
ああ私、この人のこと好きになるんだろうな、とやけに鮮明に思った。ただそれは手に入れたいとか、恋人関係になりたいとか、そういうものではなくて、もっと別の人間的な好意。ひとりの人間として向き合って、私に渡してくれた言葉の一音一音を、忘れないように記憶に閉じ込めておこう、と。
だから彼に「水嶋さんのこと、もっと知りたいと思っている」と伝えられたとき、私はその毒々しい美しさに、迷うことなく近づきたい、と思ってしまったのだ。
ひとを好きになることは、とても苦しい地獄をはじめることだ、と知っていながら。
「まさか、医学生さんだとは知らず……すみません」
「もう謝んなって」
ふは、と柔らかく笑われた。
医務室に入るやいなや、「新木くん!」と声がかかって驚いた。医務室なんてめったに入らないのでよくわからないが、治療に当たってくれた人物となにやら面識があるらしい彼の様子をうかがう。
「それにしても、新木くんに遭遇するなんてキミは運がいいねえ」
「ちょ、先生」
「だって医者のたまごだぞ? ちゃんと治療するように言ってくれてよかったよ、さすが医者のたまごだ。はっはっは!」
「まじで、やめてください」
苦笑いをしながら項垂れる彼。……というか、医者のたまご、って。え、と彼を見ると、なぜか彼ではなく、医務室担当の男性が「彼は医学部の新木琥尋くんだよ。キミ、知っているかね?」と自慢げに紹介する。その横で彼──新木さんは、「先生……」と眉根を寄せていた。
医学部、新木琥尋。他人事のように思っていたワードが飛び出してきて、言葉を失う。
え、彼が、あの、有名な。まさか、だってそんなこと。
思えば、異様なほどに整った顔は、話題のひとつやふたつにはなりそうだ。だって私も、綺麗だ、と見た瞬間に思ったのだから。
さきほどの一連を思い返していると、「水嶋さん」と名前を呼ばれた。
「は、はいっ」
「少し、話がしたいです」
「え、」
「つらそうに、見えたから。話くらいなら、聞けると思うんで」
青紫色の澄んだ瞳にとらわれる。
信じるとか、信じないとか、敵とか、味方とか。いつもそんなふうに他人を分けていた。だからよく見極めるのに失敗して、味方だと思っていた人や信じていた人が予想外の反応をすると、裏切られた、と激しい後悔に包まれる。期待しなきゃよかった。信じなければよかった。あなたは敵?それとも味方?
「……強くなるには、どうしたらいいんでしょうか」
言ってから、後悔した。こんな漠然とした質問をしたところで、彼を困らせてしまうだけだ。
案の定、「ん?」と首を傾げた彼が私を見た。まずい引かれたかも、と不安になって「いや、なんでもないです」と首を振ると、しばらく沈黙が降りる。
いきなりおとずれた無音状態に耐えきれず、おそるおそる顔を上げると、青色の瞳が静かにこちらを見つめていた。
「水嶋さんの考えてること、ちゃんと理解したいって思うから、教えて」
────理解したい。
私の思いなんてちっとも分かろうとしない人がいるなかで、たしかに彼は言った。理解したい、と。
この人になら、話せるかもしれない。分かってほしい、と警戒心の紐がほどけていく。
今まで生きてきたなかで受けた、意図的な攻撃も、無意識的な刃も、彼ならすべて丸めてくれたかもしれないな、と思った。守るとかではなく、最初から傷つけないことを選んでくれるんだろうな、と。
「……悪気はないと思うんですけど、そういう、悪気がない言葉にいちいち傷つく自分がいて。もう少し楽観的に生きたほうが人生楽なんだろうな、って思うんですけど。楽観的すぎて他人を傷つけても平気で笑えるような人間にはなりたくないなっていうか」
「うん」
「でも、結局なれないから。傷つく側の人間でしかいられないのかな、とか。もっと、軽く受け流せる人間になりたかったです」
なるほどな、と相槌を打った彼は、少し遠くを見つめながら「でもさ」と言葉を続けた。
「悪意がない、悪気はない、って言うけど、それは水嶋さんが傷ついていい理由にはならないだろ。そうやってあんまり自分のこと痛めつけるなよ。悪意がないなんて誰がわかんの。そう見せてるタチ悪いパターンもあるからね、世の中には。不器用なフリ、空気読めないフリ、人の心分からないフリ、いろいろあるから。そういうのを『そんなつもりじゃないかもしれない』って思って信じようとするの、わりとしんどいことだと思う」
ふ、と息を吐いた新木さんは、ゆっくりと天井をあおぐ。
「傷ついたっていう事実を無かったことにしなくていいと思う。相手が意図的であれ、そうじゃないのであれ、傷ついた、っていう事実には相手は何も関係がないから」
「……だけど、傷ついた分だけ強くなるっていうじゃないですか。だからもっと傷つかなきゃいけないのかなとか、そもそも傷つかなくなるまで平気になるまで傷つくことに慣れなきゃいけないのかなとか、フツウに生活する中での痛みに耐えられるメンタルがないとダメなのかなとか、そういうつまんないこと、ずっとずっと気にして、私」
雨の音が聞こえる。新木さんの顔がゆっくりとこちらを向く。まっすぐに、目が合う。こんなふうに自分の目を見てもらうの、久しぶりだ。
聴覚に向いていた意識が、彼だけに集中する。
「受けなくてもいい傷が、世の中にはある。自分がボロボロになる傷は、できるだけ浅いほうがいい。わざわざそれを受けにいく必要なんてない。俺は、そう思う」
ああ私、この人のこと好きになるんだろうな、とやけに鮮明に思った。ただそれは手に入れたいとか、恋人関係になりたいとか、そういうものではなくて、もっと別の人間的な好意。ひとりの人間として向き合って、私に渡してくれた言葉の一音一音を、忘れないように記憶に閉じ込めておこう、と。
だから彼に「水嶋さんのこと、もっと知りたいと思っている」と伝えられたとき、私はその毒々しい美しさに、迷うことなく近づきたい、と思ってしまったのだ。
ひとを好きになることは、とても苦しい地獄をはじめることだ、と知っていながら。



