氷の花嫁~笑顔を失った能面の少女が幸せになるまで~

 乗ったバスは遠回りしながらも、ようやく見知った場所に到着した。

 「……今日はおかしなことばかりだったわ」

 けれど、もう大丈夫だと(あん)()して、織井家の玄関扉を開く。

 そんな紗良を待ち構えていたのは、仁王立ちした伯父だった。

 「紗良っ! お前はなんということをしてくれたんだっ!」

 パンッと激しい音がし、紗良はよろめいて壁に肩をぶつけた。

 頬が焼けるように痛み、伯父に頬を叩かれたのだ、と遅れて気づいた。

 「親を亡くしたお前を(あわ)れんで養子にしてやったのに、織井の名に泥を塗るとは!」

 口の端がじぃんと(しび)れていた。叩かれた拍子に切れたのかもしれない。

 しかし紗良は叩かれた意味がわからず、ただ呆然とするしかない。

 「来なさい!」

 伯父に腕を引っ張られ、ほとんど引きずるように奥の間に連れていかれる。伯父から突き飛ばされ、畳の上に倒れ込んだ。

 (な、なにが起こっているの……?)

 奥の間には、伯父と同じく怒りに顔を真っ赤にした伯母がいた。

 「紗良、守布を質屋に売ったんだって? あんた、ひどいことをするのねぇ。お金は全部男遊びに使っちゃったの? 男好きって、すごい噂になっているわよ」

 綾子はその後ろで口を押さえてニヤニヤと笑っている。なんのことかまったくわからず、紗良は目を瞬かせた。

 伯父は青筋を立て、呆然とする紗良に守布を叩きつけた。

 「転売される寸前に質屋から引き取ってきた。この守布はお前の織ったものだな。お前の部屋からも、質屋の受領書が見つかっている。売った金はどこにやった。これ以外にも売っていたんじゃないだろうな!」

 知らないと否定しようとしたが、言葉にならない。伯父の恐ろしい形相を見ていると、心臓がギュッと縮こまってしまう。

 「やだ、紗良ったら顔色ひとつ変えないで。悪いとも思ってないのかしら」

 違う、と反論しようにも、ただ口をはくはくと動かすしかできない。

 (こ、声が、出せない……?)

 紗良は喉を押さえ、無言で首を横に振った。

 すると綾子は紗良がしゃべれないと気づいたらしく、ニタッと笑みを浮かべる。その笑みに、綾子に()められたのだと紗良はようやく理解し、全身から冷たい汗が噴き出す。

 (違うんです。この守布は綾子さんに渡したものです。受領書なんて知りません)

 そう言いたいのに言葉は形にならず、紗良は唇をわななかせることしかできない。

 「お前、煙草臭いじゃないか。どこに行っていたんだ! ま、まさか男遊びの噂は本当だったのか? おいっ、なんとか言いなさい!」

 伯父に怒鳴られ、紗良はハッと気づく。

 カフェーの男性店員が、紗良と誰かを間違えていた。

 (もしかして、綾子さんが私のふりをしてあの店に通っていた……?)

 紗良と綾子はそっくりではないが、従姉妹だから多少は似ている部分がある。背格好も同じくらいだ。

 帰りにふたり組の男に絡まれたのも、綾子のせいだったのかもしれない。でなければ、初めて行った繁華街で紗良の名前や特徴が出回っているはずない。

 しかし、もし言葉が出せて、それを伝えられたとしても、伯父は紗良の話など信じないだろう。

 こんな時でも紗良の目には涙すら浮かばないのが苦しかった。

 「あの、旦那様。黒須様がいらっしゃいましたが」

 その時、麦野が襖を開け、伯父にそう告げた。

 伯父は眉をひそめ、頭痛をこらえるように額に手を当てた。

 「黒須様に知られてしまったのか。仕方ない、連れてきてくれ。……こんなことがあっては、もうお前を嫁がせるわけにはいかんだろう」

 その言葉に、綾子が唇の両端を吊り上げた。おそらく、このタイミングで夜刀を呼んだのも綾子の仕業だ。

 (まさか、私を夜刀様と結婚させないため……?)

 紗良は、まるで奈落の底に落ちていくような暗い絶望を感じた。

 「失礼する」

 軍服姿の夜刀は、同年代くらいの部下らしき体格のいい青年を従えて、キビキビした動作で奥の間に入ってくる。

 紗良は畳の上に這いつくばったまま、夜刀を見上げた。

 夜刀の、研いだばかりの刃物のような銀色の瞳が紗良に向けられる。

 この凛とした眼差しが軽蔑に変わってしまうのだろうか。見ないでほしいとギュッと目を閉じて震えていた紗良は、ふわりと温かいものに包み込まれた。

 驚いて目を開けると、夜刀の上着が肩からかけられ、その上からそっと抱きしめられていた。

 (え……?)

 「……頬が腫れているな。三枝(さえぐさ)、急いで立花(たちばな)先生を呼んできてくれ」

 「はい」

 夜刀と一緒に来た青年が大股で部屋から出ていく。

 (どういうこと……?)

 夜刀に糾弾されるとばかり思っていた紗良は目を瞬かせた。

 「もう大丈夫だ」

 耳に響く優しい声で、夜刀はそっと紗良の背中を撫でる。その箇所からじんわりと温かさが広がり、全身の(こわ)()りがゆるゆると溶けていく気がした。

 「ちょ、ちょっと夜刀様っ! そいつは守布を売って――」

 綾子の金切り声を夜刀は片手で制して遮る。

 「貴方(あなた)は黙っていてくれ。当主殿、説明を頼む」

 「それが……守布を勝手に売ろうとしたんです。黒須様も知っての通り、我が織井家の守布は政府にのみ卸す契約があるので、織り手が売るのは禁じているのに。それだけでも許されざる所業ですが、売った金でいかがわしい店に出入りしたようで、男遊びが激しいという噂まで立ってしまって……」

 「当主殿の言っている内容は本当か?」

 夜刀に助け起こされ、そう尋ねられた。手を握られ、その温度に紗良は少し落ち着く。

 「ち……違い、ます……」

 さっきまで強張って声が出なかった喉から、たどたどしいが言葉が出た。一度声が出せると、それからはスムーズだった。

 「……私は守布を売ってなんていません。……確かに今日、繁華街のカフェーには行きましたが、綾子さんの忘れ物を取りに行っただけなんです」

 「はあっ⁉︎ あたしのせいにする気?」

 そう言った綾子に、夜刀は黙って銀色の瞳を向けた。それだけで綾子は気圧(けお)されたように口をつぐむ。

 「わ、私は、ここしばらく機織り小屋に籠もっていました。繁華街に行ったのだって、今日が初めてで……本当になにも知らないんです」

 伯父夫婦は夜刀の手前、口は出さなかったが、顔を真っ赤にして紗良を睨んでいた。紗良を信じるつもりなど、これっぽっちもないのだと伝わってくる。

 「お、お願い。信じて……」

 紗良は(すが)るように夜刀を見上げた。

 「ああ。俺は君を信じるよ」

 夜刀は紗良をじっと見つめ、自身の手を紗良の頬に這わせる。

 親指で紗良のふたつ並んだ泣きぼくろを撫でられ、ドキンと紗良の鼓動が大きく跳ねる。

 (……どうしてかしら。触れられても全然嫌じゃない)

 繁華街で絡んできた男に触れられた時は、全身に鳥肌が立つほど嫌だったのに。

 「し、しかし、黒須様──」

 「当主殿、まずは彼女の手当を。話はそれからだ」

 「は、はあ……」

 ピシャリと遮った夜刀に、伯父はそれ以上なにも言えず口をつぐむ。

 それから紗良は、夜刀の部下が連れてきた医師に頬の手当を受けることになった。

 妖魔討伐隊所属の医師で、立花と名乗った。外見からすると三十歳前後だろうか。

 長い髪を後ろでくくり、中性的で整った顔立ちに穏やかな笑みを浮かべている。男性に触れられるのが怖い紗良でも安心できるような優しい雰囲気だ。

 「口の端を少し切っていますね。でも深くないから安心してください」

 「ありがとうございます」

 紗良が立花に治療を受けている間、夜刀は伯父から今回の詳しい経緯を聞いていた。

 「なるほど、守布の保管蔵に泥棒が入った様子はないと」

 「ええ。蔵の鍵も無事で、蔵の中も荒らされた様子はなく、帳簿の数とも相違はありませんでした。しかし、しばらく前から納品数がやけに少なくおかしいと思っていたんです。織った本人が納品せずに売っていたとしか考えられません」

 「守布は誰が織ったか、わかるものなのか?」

 「織った布に織女神の加護が付与され、『加護(かご)(もん)』という特殊な紋が浮かびます。加護紋は親子や姉妹でもまったく異なるんです。通常では見えませんが、この専用のルーペで簡単に見分けがつきますから」

 「そうか。部下の三枝に保管蔵を調べさせたいのだが」

 三枝と呼ばれた青年は伯父に向かいビシッと敬礼をした。髪が短く、鍛えられた体躯をしている。眉は太く凛々(りり)しいが、優しげな垂れ目のため、威圧感は感じない。

 「構いませんが、こちらで調べた内容と変わらないと思いますがね」

 そう言いながらも、伯父は三枝に蔵の鍵とルーペを渡した。

 「夜刀さん。こちらは治療が終わりました。大したことはありませんでしたよ」

 「そうか、よかった」

 立花の報告に、夜刀は伯父に向けている時は凛としていた表情をふわっと柔らかく崩して微笑んだ。

 紗良はおずおずと夜刀に近づく。

 「あの、夜刀様。ありがとうございます」

 「俺はなにもしていない」

 「……ど、どうして私を信じてくれるのですか?」

 「それは……」

 夜刀は言いにくそうに口ごもり、顎に手を当てた。

 「その前に、君の名前を教えてもらってもいいだろうか」

 尋ねられた内容は意外なもので、紗良は目を瞬かせながら答える。

 「え? 紗良、ですけど」

 「そうか、紗良。ようやく君の名前を呼べた」

 さっぱり意味がわからない。前回会った時、何度も紗良と呼んでくれたはずなのに忘れてしまったのだろうか、と首を傾げる。

 「すまない。急に呼ばれたから、日記で確認する暇がなかったんだ」

 「日記、ですか?」

 日記という言葉がピンとこない。顔には出ないまま困惑する紗良を、医師の立花は観察するようにじっと見つめる。

 「もしかして、紗良さんは黒須家の加護についてご存知ないのではありませんか?」

 立花の質問に、おずおずと頷いた。

 「す、すみません。戦神の加護があるとは聞いたことがありますが……」

 そう答えると、立花は納得したように頷いた。

 「なるほど。では私の方からご説明しましょう。夜刀さんは黒須様の当主として、戦神の刀を継承されています」

 紗良は夜刀の腰に下げた黒い刀に視線を向けた。いつも帯刀しているのは気づいていたが、よく見ると、刀の()(ぬき)に四柱の神々を示す四つ星の装飾が施されている。

 「それは神代から伝わる本物の戦神の刀です。恐るべき力を秘めており、妖魔と戦う際、持ち主に戦神の力を降ろし、戦闘力を何倍にも跳ね上げ、強大な妖魔に対抗する力を得るとされています」

 妖魔の話のせいで紗良はこめかみが疼くのを感じたが、こらえて聞き続ける。

 「戦神の刀は妖魔討伐には必要不可欠ですが、同時にデメリットもあります。継承者は魂に負担がかかるとされており……夜刀さんの記憶は一日しか持たないのです」

 「……え」

 紗良は口を小さく開いた。

 「毎日記憶がリセットされてしまう、という説明がわかりやすいでしょうか。前任者である夜刀さんのお父上が亡くなる直前に刀を受け継ぎ、現在夜刀さんが継承者となっています。継承前の記憶は残されているため生活に支障はありませんが、継承後の記憶は眠るたびに消えてしまうのです」

 立花の説明に、夜刀はこくりと頷く。

 「ああ。俺は目が覚めてから眠るまでの一日しか記憶が保たない体質なんだ」

 夜刀や立花の目はいたって真剣で、紗良をからかっているようには見えない。伯父夫婦や綾子の表情にも変わりはないどころか、今さらなにを言っているという顔だ。おそらく彼らにとっては常識の話なのだろう。

 「だから、以前会った俺は紗良の名前を聞いていたのかもしれないが、今の俺にその記憶はない」

 紗良の脳裏に、舞い落ちる雪の記憶がよぎった。

 あの雪の日――倒れそうになった紗良を助けてくれたことや、紗良の髪がボタンに引っかかり、糸を切って紗良の髪をほどいて助けてくれたこと。紗良がボタンを付け直した、そんなささやかな交流の記憶も、もうない。

 それどころか、顔合わせの日に温かな手で紗良の手を取り、綺麗なつげ櫛をくれた記憶も残っていないのだ。

 「そうだったんですね……」

 紗良はかすかな胸の痛みを感じながら、研ぎ澄まされた刃を連想するような夜刀の銀色の瞳を見つめた。

 凛とした強さを現すその瞳は、今はどこか寂しげだ。きっと、紗良には計り知れない苦しみがあるのだろう。

 「では、今の私は夜刀様からすれば初対面のはずです。なのに、どうして私を信じるなんておっしゃってくれたのでしょう」

 さっきの夜刀は確かに紗良を庇ったように感じた。

 紗良の問いに、夜刀は真剣な顔で胸に手を当てた。

 「記憶にはない。けれど、悲しそうな君を守りたいと思ったから、俺は君を信じると言ったんだ」

 「悲しそう……私が……?」

 紗良は呆然と呟き、頬に触れる。今も紗良の顔はピクリともせず、悲しそうには見えないはずなのに、どうしてそう思うのだろう。

 「ああ。俺には、畳に座り込む君が今にも泣きそうに見えた。だからなにがあっても、俺だけは紗良を信じてやりたい」

 ドキン、と胸が高鳴る。

 両親が亡くなったあの事件以降、自分の感情が表に出せたことは一度もなかった。泣きたくても涙は出ないし、つらくても寂しくても能面のまま。

 だから誰にも気持ちをわかってもらえなかったのに、記憶にはないはずの彼だけが気づいてくれた。

 熱い血潮が紗良の体の中を駆け巡っていく気がした。

 「……お、お待ちください。ですが、売られていたのは紗良の守布なのは事実。いくら黒須様が信じるとおっしゃっても……」

 冷や水をかけるように紗良の思考を戻したのは伯父だった。

 結局、夜刀が信じてくれても紗良が無実である証拠はない。そもそも伯父は、最初から紗良を信じていないのだ。

 それがわかったらしい綾子は安堵した様子で唇の両端を吊り上げている。

 (どうすれば伯父様にわかってもらえるの……?)

 その時、保管蔵を確認しに行っていた三枝が戻ってきた。

 「どうだった」

 「確認してきましたが、売られていた守布は、間違いなく保管蔵にある守布と同じ加護紋でした。同一人物の織ったもので間違いありません」

 ほら見ろという伯父の視線が紗良に突き刺さる。

 しかし、三枝の報告はそれだけで終わらない。

 「ただ、保管蔵にある守布の加護紋が一種類しかなかったのです。織井家の当主殿にお伺いしたいのですが、この家では紗良さんだけが守布を織っているのですか?」

 三枝の質問に、伯父の表情が(いぶか)しげなものに変わった。

 「そんなわけありません。娘の綾子も毎月守布を渡してくれています。帳簿を確認していただければわかる通り、蔵にはふたり分の守布が納めてあるんですよ。まさか加護紋が同じだなんて……なあ、綾子」

 伯父は綾子の方を見るが、綾子はフイッと目線を逸らした。

 「あたし、知らなーい」

 その不自然な態度に嫌な予感がしたのか、伯父の眉がわずかにひそめられる。

 「当主殿、守布を受け取った際に加護紋は確認していないのか?」

 「か、加護紋の確認は盗難などで照合が必要な際にしか行っておりません。確認しているのは、守布の品質と、長さや幅が規定に達しているかどうかで……」

 夜刀に説明しながらも、伯父の額にじわじわと汗が浮かんでいく。

 「なあ、綾子。ほ、本当はなにか知っているんじゃないのか」

 「だから知らないってば。素人には加護紋が同じに見えただけじゃないの?」

 いけしゃあしゃあと平気な顔をしている綾子に夜刀は口を挟んだ。

 「先ほど、織井当主殿は簡単に見分けがつくと言っていたはずだが」

 途端に顔を(ゆが)ませ焦りを見せる綾子を、夜刀は涼やかな目で観察するように凝視している。

 「その反応と一種類だけの加護紋からすると……紗良は彼女の分の守布まですべて織っていた、ということで間違いないな」

 夜刀の言葉に、綾子は図星を突かれビクッと肩を震わせた。

 「ま、まさか、そんなわけありませんよ。保管蔵には一年分の七十反が収められているのですよ? 守布は熟練者で月に四反、よっぽど上手な者が頑張って五反程度しか織れないものです。月平均すれば六反近い量を、紗良ひとりで織れるはずが……」

 伯父は引きつった笑みを浮かべる。声が震えているのは、自分でもそう思い込みたいからなのだろう。

 「確か……紗良さんは、織姫の称号を得ているそうですね。それくらいの実力者が寝食を削れば織れるかもしれません。それに本家のお嬢様である綾子さんの命令では、養子の紗良さんは守布を渡すしかなかったんじゃないでしょうか」

 三枝がそう口を挟んだが、伯父は大きく首を横に振る。

 「いやいや、綾子は紗良を引き取る前から守布を織っていたんです。わざわざ紗良から奪う必要なんて……」

 「では最近織っているのを見たのか? なにか変わったと感じなかったか?」

 夜刀の言葉に、伯父はハッとなにかを思い出したような顔をした。

 「一年くらい前、綾子が織った守布の質が急に上がったが、まさか……」

 伯父はワナワナと震え、紗良に視線を向ける。

 「……さ、紗良、綾子はお前の守布を奪っていたのか?」

 やっとだ、と紗良は思った。これまで確認したことなどなかった伯父が、ようやく目を向けてくれたのだ。

 紗良がこくんと頷くと、途端に伯父の顔が引きつった。

 「で、では、売られていた守布も……」

 「綾子さんに渡した私の守布です」

 「ど、どうして教えてくれなかったんだ!」

 どうして、という言葉は紗良の方が言いたかった。どうして信じてくれないの、どうして助けてくれないの、と。

 「……私はずっと伯父様に訴えていたつもりです」

 いつもろくに話を聞いてくれなかったのは伯父の方だ。

 今回も、紗良に話を聞く前に頬を叩いたし、声が出なくなって恐ろしい思いもした。夜刀が助けてくれて声が出るようになってからは自分ではないと説明もした。

 「だ、だがなぁ、もっと伝え方を工夫するとか、なにかできたんじゃないのか」

 「信じなかったのは当主殿の方だろう。自分を棚に上げず、これまで少しでも紗良の言い分にちゃんと耳を傾けたことがあったのか省みたらどうだ。さっきも、訳もわからず頬を叩かれて、声が出ないほど恐怖していたじゃないか」

 夜刀は伯父に詰め寄られそうになった紗良を庇って説き伏せる。伯父は気まずそうに口をつぐんだ。

 紗良は伯父に突然叩かれ、責め立てられて怖かったし、信じてもらえなくて悲しかった。しかし実際の表情は能面のようなのに、夜刀にはどうしてわかったのだろう。

 「守布は、綾子さんに取られた櫛を返してもらう代わりに渡しました。私は守布を売ったりなんてしていません……!」

 「だ、黙りなさいよっ! 全部あたしを陥れるために紗良が仕組んだの! あたしはなにも知らない!」

 綾子は大声で(わめ)き立てた。どうあっても認めないつもりだ。

 「あの……勝手ながら、蔵以外も調べさせていただきました。そうしたら綾子さんの部屋に、こんなものが隠されていて……」

 三枝が合図をすると、真っ青な顔の麦野が入ってくる。

 手にしていた風呂敷包みを開けると、煙草の匂いが染みついた水色の着物と、多額の現金が出てきた。

 「他にも、化粧品や、高額なアクセサリーなどもありました」

 「む、麦野! なにしてるのよっ!」

 綾子の怒号に麦野は首をすくめた。

 「だ、だって……不正したら罪に問うって言われてぇ」

 しかしこの決定的な証拠に、もう責任逃れはできない。伯父だけでなく、ずっとその場でオロオロしていた伯母も真っ青になった。

 「あ、綾子……お前がやったのか……」

 「綾子ちゃん、どういうことなのっ!」

 両親から詰め寄られ、綾子は頬を膨らませ、そっぽを向いた。

 「はいはい。あたしがやったって言えばいいんでしょう」

 子供のような、まるで反省していない態度だ。

 「……お前が紗良を陥れたのだな」

 夜刀の低い声に、まるで気温が下がったかのように錯覚する。

 夜刀に冷たい銀の瞳で見下ろされ、綾子はヒッと声をあげ、その場に座り込んだ。

 いち早く動いたのは伯父だった。

 「く、黒須様っ、申し訳ありません! この馬鹿娘がッ!」

 血の気が引き蒼白(そうはく)になった伯父は綾子の頬を叩いた。バシッと痛そうな音が響き、綾子は声もなく畳に倒れ込む。

 伯父はそのまま綾子の髪を掴み、夜刀に向かって乱暴に頭を下げさせた。自らも土下座をし、額を畳に擦りつけている。

 「綾子には反省させます! ですから、どうか命ばかりはっ……!」

 「うう……痛い、お父様ぁ……」

 平手打ちのせいだろうか。綾子の両鼻からボタボタッと鼻血が落ちて、畳の上に赤色が広がる。

 それを見た瞬間、紗良のこめかみにズキッと鋭い痛みが走り、キーンと甲高い耳鳴りとともに冷や汗が噴き出た。

 「……紗良?」

 夜刀の声にも反応できない。視界がチカチカし、徐々に暗くなっていく。

 「紗良!」

 声がひどく遠くなり、意識が闇に塗りつぶされる寸前、紗良は温かい腕に抱き留められた気がした。