「……先生」
いつの間にか、そこに師である劉義が立っていたのだ。
玉蓮はまっすぐに彼を見返すことができず、唇を尖らせながら、樫の棒を背後に隠した。劉義が、重いため息を吐き出す。
「……安い挑発に乗り、感情で盤面を乱す。玉蓮、それは軍師として、最も恥ずべき愚策だ」
その言葉を合図に、周囲の弟子たちから卑屈な揶揄が漏れ出す。
「そうだ、女のくせに」
「浅知恵が!」
玉蓮は即座に彼らを睨みつけたが、劉義の冷徹な視線がそれを許さなかった。
「玉蓮」
追い打ちをかけるような師の声に、玉蓮の肩がこわばる。
だが、その時。後ろの方で「ふふ」と朗らかに笑う音がして、殺伐とした空気に亀裂が入った。
「——見事な一手だったね、玉蓮」
空気を塗り替えるように、柔らかく、透き通った声が降ってくる。鼓膜を撫でるその響きは、乾いた大地に染み込む水のようだった。玉蓮の指先から力が抜け、樫の棒が乾いた音を立てて足元に転がった。
ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる人影。ふわりと鼻先を掠めたのは、汗の臭いではなく、上質な香と、日向に干した布のような清潔な香り。劉永。師である劉義の息子であり、この塾で唯一、玉蓮が「敵わない」と認める兄弟子。この泥臭い男たちの巣窟で、彼だけが異質な光を纏っているようだった。
劉永が穏やかな視線でちらりと兄弟子を一瞥すると、蹲っていた彼は気圧されたように口を閉ざし、そのままズルズルと後ずさる。玉蓮の傍らに立った劉永は、その小さな頭を包み込むように撫でた。
「永兄様……」
「父……先生。玉蓮は努力を惜しまないからつい、強くなってしまったのです。知略も武勇も」
「それはそうだが……」
「玉蓮の才は、この塾の誰よりも苛烈で、美しい。それは他でもない、先生の教えの賜物です」
劉永は、父親の追及をさらりとかわし、玉蓮の手をそっと取った。
「行こう、玉蓮。面白い書があるんだ」
白く、骨ばった綺麗な手。玉蓮は、差し出されたそれに半ば無意識で手を伸ばす。彼は、玉蓮の手を引いて歩き出したかと思うと、「あ」と声を小さく上げて立ち止まり、にっこりと笑って振り返る。
「先生、私たちは勉学に励みます。それでは」
劉永は、劉義に頭を下げると、玉蓮を伴って駆け出した。
そして、廊下に出た途端、悪戯っぽく肩を揺らして笑う。
「あの顔、見たかい? 父上は、君の真っ直ぐなところが、本当は愛おしくて仕方ないんだよ」
悪戯っぽく笑う劉永の横顔は、あまりにも眩しい。その温もりに触れている間だけは、こびりついた血の臭いも、復讐の誓いも、すべて悪い夢だったかのように思えてくる。
「……永兄様」
玉蓮は小さく微笑んだ。けれど、繋いだその手には、先ほど人を打った痺れが、まだ微かに残っている。玉蓮は胸の奥の痛みを隠すように、劉永の手をぎゅっと強く握り返した。
いつの間にか、そこに師である劉義が立っていたのだ。
玉蓮はまっすぐに彼を見返すことができず、唇を尖らせながら、樫の棒を背後に隠した。劉義が、重いため息を吐き出す。
「……安い挑発に乗り、感情で盤面を乱す。玉蓮、それは軍師として、最も恥ずべき愚策だ」
その言葉を合図に、周囲の弟子たちから卑屈な揶揄が漏れ出す。
「そうだ、女のくせに」
「浅知恵が!」
玉蓮は即座に彼らを睨みつけたが、劉義の冷徹な視線がそれを許さなかった。
「玉蓮」
追い打ちをかけるような師の声に、玉蓮の肩がこわばる。
だが、その時。後ろの方で「ふふ」と朗らかに笑う音がして、殺伐とした空気に亀裂が入った。
「——見事な一手だったね、玉蓮」
空気を塗り替えるように、柔らかく、透き通った声が降ってくる。鼓膜を撫でるその響きは、乾いた大地に染み込む水のようだった。玉蓮の指先から力が抜け、樫の棒が乾いた音を立てて足元に転がった。
ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる人影。ふわりと鼻先を掠めたのは、汗の臭いではなく、上質な香と、日向に干した布のような清潔な香り。劉永。師である劉義の息子であり、この塾で唯一、玉蓮が「敵わない」と認める兄弟子。この泥臭い男たちの巣窟で、彼だけが異質な光を纏っているようだった。
劉永が穏やかな視線でちらりと兄弟子を一瞥すると、蹲っていた彼は気圧されたように口を閉ざし、そのままズルズルと後ずさる。玉蓮の傍らに立った劉永は、その小さな頭を包み込むように撫でた。
「永兄様……」
「父……先生。玉蓮は努力を惜しまないからつい、強くなってしまったのです。知略も武勇も」
「それはそうだが……」
「玉蓮の才は、この塾の誰よりも苛烈で、美しい。それは他でもない、先生の教えの賜物です」
劉永は、父親の追及をさらりとかわし、玉蓮の手をそっと取った。
「行こう、玉蓮。面白い書があるんだ」
白く、骨ばった綺麗な手。玉蓮は、差し出されたそれに半ば無意識で手を伸ばす。彼は、玉蓮の手を引いて歩き出したかと思うと、「あ」と声を小さく上げて立ち止まり、にっこりと笑って振り返る。
「先生、私たちは勉学に励みます。それでは」
劉永は、劉義に頭を下げると、玉蓮を伴って駆け出した。
そして、廊下に出た途端、悪戯っぽく肩を揺らして笑う。
「あの顔、見たかい? 父上は、君の真っ直ぐなところが、本当は愛おしくて仕方ないんだよ」
悪戯っぽく笑う劉永の横顔は、あまりにも眩しい。その温もりに触れている間だけは、こびりついた血の臭いも、復讐の誓いも、すべて悪い夢だったかのように思えてくる。
「……永兄様」
玉蓮は小さく微笑んだ。けれど、繋いだその手には、先ほど人を打った痺れが、まだ微かに残っている。玉蓮は胸の奥の痛みを隠すように、劉永の手をぎゅっと強く握り返した。


