◇◇◇ 劉永 ◇◇◇

崖の上。 赫燕(かくえん)の本陣が上げる(とき)の声と、勝利に沸く獣の咆哮(ほうこう)が、風に乗ってここまで届いてくる。

だが、劉永の耳には、それら全てが、遠い世界の音のようにしか聞こえていなかった。彼の脳裏にこびりついて離れないのは、ほんの半刻ほど前に見た光景。

——あれは、玉蓮なのか。

劉永の知る彼女は、書庫で目を輝かせ、劉義の難解な問いに誰よりも早く答えを見いだし、そして、艶っぽい絵には「軍略ですか?」と小首を傾げる、あの純粋な少女だったはずだ。

その笑顔を守りたいと、心から願った少女。だが、この崖の上から見た「あれ」は、違った。伏兵の中から飛び出し、敵将と刃を交える姿。

その剣の冴えは、もはや劉義塾で見た鍛錬のそれではない。水が流れるように敵の懐に入り込み、心臓を貫いた、あの寸分の迷いもない一閃(いっせん)。返り血を浴びて、敵将を見下ろしていた、あの冷たい横顔。

思い返せば思い返すほどに、拳がギシギシと音を立てる。

「劉永様……」

背後で、父がよこした監視役の兵が息を呑む。劉永は、声を返すことができなかった。


直後に始まった、赫燕軍による一方的な蹂躙(じゅうりん)。それは、父の道とは正反対にある、仁の欠片もない、ただの殺戮(さつりく)だった。一方的な戦だ。

敵の心理をうまく利用して策を施した結果、その策が功を奏して、敵軍が瓦解(がかい)していく。殺戮(さつりく)に見えても、その結果は、大勝利にしかすぎない。

劉永は、この結果に何も声を上げられなかった。