闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。



 その日の夜更け。崔瑾(さいきん)の私室に足を踏み入れた、阿扇(あせん)馬斗琉(ばとる)崔瑾(さいきん)は、読んでいた書簡から顔をあげたが、その瞳に感情はない。だが、阿扇(あせん)は、まるで首筋を冷たい刃で撫でられたかのような、肌が粟立つほどの奇妙な気配を感じていた。

崔瑾(さいきん)様」

 馬斗琉(ばとる)が、意を決したように口を開き、その声が重厚な沈黙の中で、ひときわ響いた。

赫燕(かくえん)軍の猛攻は、あまりに常軌を逸しております。そして、崔瑾(さいきん)様のあの姫君へのご執心もまた、同様です。玄済(げんさい)の危機に影響を与えかねませぬ」

 馬斗琉の声はいつものように丁寧だったが、その響きは、まるで重い鎧を纏っているかのように、ぎこちなく、そして微かに震えている。崔瑾(さいきん)は、その言葉を静かに聞いていた。しかし、その視線は馬斗琉を通り越し、阿扇(あせん)に移る。

阿扇(あせん)。あなたもそう思いますか?」

 喉がひとりでにゴクリと小さく音を立てる。阿扇(あせん)は、そこがじわりと締められていくような気がして、慎重に息を吸い込んだ。

「……はい、崔瑾(さいきん)様。あの姫をお傍に置かれることは、崔瑾(さいきん)様の御為にはなりませぬ」

 阿扇(あせん)の脳裏に、数年前の、あの戦場が蘇る。血と泥にまみれ、死を覚悟した自分を泥の中から、力強く引き上げてくれた、若き(あるじ)の、あの太陽のような手。あの光こそが、この腐った国を照らす、唯一の希望なのだ。

崔瑾(さいきん)様とてご存知でしょう。あの姫が、どのように詠われているのか。『その美しさは月のように輝くも、あまりにも冷たく、英雄たちの魂さえも焼き尽くす。それでも彼らは、まるで火に飛び込む虫のように、競ってその身を滅ぼしにいく』」

 崔瑾(さいきん)の道を狂わせるものは、たとえ何者であろうと許すべきものではない。その道を阻む者は、存在してはならない。

「あれは、国を傾けるもの。ひいては、崔瑾(さいきん)様の御身を滅ぼすものにございます。あなた様は、この国の、唯一の光なのです」

 玉蓮の朗らかな笑みが一瞬だけ脳裏をよぎるが、それに首を振る。

「その光を、どうかご自身でお消しにならぬよう……!」

 阿扇(あせん)は、迷いなく頭を下げた。

 あの姫は、災い。このままでは、主は、あの白菊に魅入られた哀れな英雄の一人として、その魂を焼き尽くされてしまう。それだけは、あってはならない。しかし——

「私の行く末は、私が決める」

 その声は、低く、静かで。

「そして、玉蓮殿は私の妻だと言ったはずだ。(おとし)めることは許さぬ。二度と、玉蓮殿を(おとし)めることで、私の道を塞ぐな」

 一言一言が、刃となって、二人の腹心の喉元に突きつけられる。それは、もはや(あるじ)から忠臣への言葉ではない。阿扇(あせん)は、それ以上言葉を続けることができなかった。崔瑾(さいきん)は、二人にもう一瞥(いちべつ)もくれることなく、ただ窓の外の深い夜の闇を見つめていた。