闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 玉蓮の脳裏に、姉の優しい笑顔が蘇る。冷たい後宮で、自分の手を握りしめてくれた、たった一人の姉。その姉が、四肢を。皮を。

(——ああ、そうか。お前だったのか)

 衣の陰で、玉蓮の指が音もなく匕首の柄を確かめた。指先に、月の冷たさが走る。

白楊(はくよう)軍が都に迫っているらしいが、案ずることはない。私には、大孤(だいこ)に逃れる道がある。崔瑾(さいきん)を始末した褒美に、貴女様を太后様より貰い受け、この玄済(げんさい)国が滅んだ後は大孤(だいこ)の功臣となるのだ」

「旦那、様を……?」

「そうですぞ。崔瑾はすでに毒杯で死んでいる。あの崔瑾を始末してやったのだ。誰もが返せぬほどの恩を売ってやったわ! 崔瑾の喪が明けるまでもなく、貴女様を手に入れて差し上げましょう!」

 周礼が高笑いと共に、再び手を伸ばしてきた。

 瞬き、一つ。鼓膜の奥で、低い声が響く。



『——そいつの喉笛に、剣を突き立てろ』



 次に目蓋(まぶた)を上げた時、世界から音が消えていた。銀色の閃光が、迸《ほとばし》る。懐から抜いた赫燕(かくえん)の匕首が、月を吸って冷たく光る。玉蓮の腕は、思考よりも速く、迷いなく伸びた。喉笛へ一直線に。


——ズグググッ


 肉を裂き、気管を断つ、湿った感触。

 周礼が悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、玉蓮は素早く衣の袖で男の口を覆い、その音を飲み込ませた。

「……っ、ぐ……ッ!?」

 くぐもった(うめ)き声。ごぼり、ごぼり、と血の泡が弾ける湿った音。そして、鼻腔を突く、むせ返るような鉄錆の匂い。

 玉蓮の手元で生暖かい液体が溢れ出し、噴き出した血飛沫(ちしぶき)が純白の衣を赤黒く染め上げていく。周礼の目が、限界まで見開かれている。何が起きたのか理解できぬまま、目の前の女を見上げている。

 そして、その瞳に映る、自分の顔。


(——ああ、そうだ。この顔だ)


 あの男が、いつも浮かべていた、あの美しくも不遜な笑み。恐怖も、躊躇(ためら)いもない。獲物の息の根が止まるのを冷たく見届ける、捕食者の瞳。

 周礼の体から力が抜け、ずるりと床に崩れ落ちる。卓の杯が倒れ、琥珀色の酒が床に広がる血と混じり合った。玉蓮は表情一つ変えず、その手に握られた匕首をゆっくりと引き抜く。切っ先から滴り落ちる鮮血が、月明かりに濡れた。

 かつて、崔瑾とともに穏やかな時を過ごした玉蓮の寝室に、濃厚な死の匂いが充満する。だが不思議と、不快ではなかった。その匂いが、五感を、そして意識を、極限まで研ぎ澄ませていく。

 ふと、脳裏をよぎったのは、遥か昔の、後宮の冷たい石の床の感触。

「……返す番だ。蜘蛛の巣の主へ」

 玉蓮は血濡れた刃を、月にかざした。