闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

「こやつは、許可なく軍を動かし、王命を阻止するという暴挙に出た。その罪は万死に値する」

 指揮官が冷酷に告げた。その言葉には一片の躊躇もなく、まるで台本を読み上げるような響きだけがある。

「で、ですが、旦那様は、いつもこの国のために!」

「王命に背くのは、もはや何度目かわからぬ。度重なる不敬に加え、王位簒奪(さんだつ)を狙ったとして、大王より捕縛の命が出ている」

 指揮官はそう言い放ち、抵抗しない崔瑾の腕を荒々しく縛り上げた。

「王位、さん、だつ——?」

 誰よりも国を思っていた男を、簒奪者と呼ぶのか。玉蓮の声が震え、消えていく。胸の奥から込み上げる苦さが、喉を締め付ける。

 崔瑾は、されるがままだった。どこか遠くを見つめる静かな瞳があるだけ。まるで、この結末を最初から予期していたかのように。

「……申し訳、ありません」

 連行される寸前、一度だけ振り返った彼の唇が、音もなく動いた。

 玄済(げんさい)国が誇る最高の英雄が、一人の罪人として、泥にまみれ、引き立てられていく。兵士たちのざわめきが、水の中のように遠く聞こえる。玉蓮の瞳からは涙が溢れ出し、降りしきる雨と混じり合って頬を伝っていく。

「だん、なさま……」

 弱々しい声。聞こえるはずがない。届くはずがない。だが、崔瑾はぴたりとその歩みを止めた。

 次の瞬間。​彼を拘束していた屈強な兵たちが、木の葉のように弾き飛ばされた。

 どよめきが走る中、崔瑾は風のように玉蓮の元へ駆け戻る。一点の迷いもなく彼女を捉えたその眼差し。彼は玉蓮の前に膝をつくと、その濡れた頬を泥と傷だらけの手でそっと包み込んだ。指先から伝わる温かさが、凍えた肌に染み渡る。

「旦那様……」

 ぼやけていく視界の先。そこにはもう、荒れ狂うような狂気はない。どこまでも澄んだ穏やかな森の湖が、玉蓮を映している。それは、初めて会ったあの日の、彼が本来持っていた瞳。

「行ってはなりませんッ」

「玉蓮殿」

「行けばッ……必ず、殺されます。どうか……わたくしも剣を持って戦いますから!」

 玉蓮は、崔瑾の腕に(すが)り付いた。だが、崔瑾は首を横に振る。

「それは、できません。今ここで剣を抜けば、屋敷の者も、領の民も、全員が逆賊として殺されます。そしてあなたも……決して無事ではいられない」

 彼の声が、雨音を縫って穏やかに響く。

「ならば、なぜ! なぜ、戻られたのです! 旦那様であれば、このような……このような稚拙(ちせつ)な罠などお見通しでしょう!」

 玉蓮はその胸に顔を(うず)めて泣きじゃくった。崔瑾の大きな手が、濡れた髪を優しく撫でる。

「ええ、わかっていました……ですが、私がここに来なければ、あなたを失ってしまう」

 彼の瞳の奥に揺らめく光があまりにも優しくて、玉蓮は息ができなかった。そして、崔瑾は、少しだけ寂しそうに、そして愛おしげに微笑(ほほえ)んだ。

「……生きて、ください。貴女(あなた)は、強く、生きていくのです」

 その一言が鼓膜を打った瞬間、脳裏に、遠い日の別の男の声が重なって響いた。