闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

◇◇◇ 崔瑾(さいきん) ◇◇◇

 その報せは、すぐに、王宮の門前で待機していた崔瑾の元へも届けられた。

「——旦那様ッ!」

 翠花(スイファ)が、伝令兵に支えられながら、転がるようにして崔瑾の前に崩れ落ちた。普段の朗らかさなど微塵もなく、まるで魂が抜けたかのように顔面は蒼白だ。呼吸は引きつり、喉を鳴らして必死に喘いでいる。

「どうしたのです、翠花(スイファ)……お前がなぜここに」

 嫌な予感が、背筋を冷たく撫で上げる。翠花(スイファ)は激しく肩を上下させ、喉から血を絞り出すように叫んだ。

「——お、奥様が! 太后様の宦官が遣わされ、王命で後宮にお連れすると……!」

 その言葉が、鋭い刃となって空気を切り裂いた。視界が、瞬時に白く弾ける。

「今、まさに支度を進めております! 奥様は……後宮に行かれる覚悟です!」

「——馬鹿な」

「だ、旦那様……『決して手を出されぬように』とのご伝言です……ッ」

 翠花(スイファ)は叫びながら、地面に額を擦り付けた。しかし、その必死の声は、もう意識の遠くで響くだけだった。

 自分を王宮に釘付けにしておき、その隙に、玉蓮を後宮に引きずり込む。そこで何が起きるかなど、考えるまでもない。王の残虐で享楽的な気性と、側近である周礼(しゅうれい)の陰湿で(よこしま)な欲望。二人の悪意が結びついたとき、玉蓮がどのように引き裂かれるか。

 脳裏に、鮮明すぎる悪夢が走る。後宮の絢爛(けんらん)で陰惨な一室、逃げ場もなく、組み敷かれ、辱めを受ける最愛の妻の姿が。

(——私の妻だ)

 腹の底から、焦熱(しょうねつ)業火(ごうか)が込み上げた。だが次の瞬間には、その熱さえも凍らせるほどの絶対的な殺意が、全身を駆け巡る。

(玉蓮殿——!)

 ギリ、と奥歯が鳴った。拳に爪が食い込み、血が滲む。

「崔瑾様、お気を確かに! これは、罠にございます!」

 馬斗琉(ばとる)が声を張り上げる。

「今動けば、相手の思う壺です! 王命なく兵を動かし、王の使者に剣を向ければ……死罪、一族郎党皆殺しになりますぞ!」

(——罠だ、そんなことはわかっている)

 理性の声は、確かにそう告げている。だが——ここで動かねば、玉蓮はそのまま後宮の闇に飲み込まれる。二度と戻らない。あの気高き白菊が。

 正義とは、何か。忠義とは、何か。国の未来とは——。

 その全てが、あの瞳の前では色褪せる。

「……退がれ、馬斗琉」

「崔瑾様!」

「——我が軍に告ぐ! これより、屋敷へ戻る!」

 雷のような号令が響き渡った。

「崔瑾様! なりませぬ!」

「旦那様!」

 側近達の制止を振り切り、崔瑾は馬に飛び乗った。もはや、国の英雄でも、冷静沈着な大都督でもない。ただ、一人の女を守るためだけに修羅となる。

「行くぞッ!!」

 荒々しく馬の腹を蹴る。王宮を背に、一団が疾風のごとく駆け出した。(ひるがえ)る衣の鮮烈な緋色(ひいろ)が、王都の空を切り裂いていく。