復讐姫と二人の英雄 —殺戮将軍と天才軍師の執着。その天命の盤で美しく狂い咲く—

◇◇◇ 玉蓮(ぎょくれん) ◇◇◇

 まだ雨が降り続いていた。崔瑾(さいきん)の屋敷の自室で書を読んでいた玉蓮の耳に、雨音に混じって、複数の足音が廊下を駆けてくるのが聞こえた。

(——何事だろうか)

 微かに聞こえる、ひそひそと、しかし切羽詰まったような声。衣擦れの音。不穏な影が、玉蓮の心に墨を落としていく。崔瑾の屋敷で、これほどの動揺が起こることはまずない。玉蓮は書を持つ手が汗ばむのを感じた。

 その時だ。

「——奥様!」

 侍女の翠花(スイファ)が息を切らし、顔を蒼白にさせて部屋に駆け込んできた。その表情には、恐怖と焦りが刻まれている。玉蓮は弾かれたように立ち上がった。

翠花(スイファ)、どうしました」

「た、太后(たいこう)様の輿が……使いの者が、奥様を……!」

 翠花(スイファ)は、それ以上言葉を続けることができず、震える指で廊下を指し示した。

「何が……」

「——道を開けよ。不敬ぞ」

 問いかけようとしたところに、翠花(スイファ)の背後から、聞き慣れぬ声が滑り込んできた。それは、女のように高く、けれど氷のように冷たい声。

「おく、さ……ま」

 翠花(スイファ)が怯えて膝をつく。その視線の先。音もなく、まるで床の闇から滲み出てきたかのように、一人の男が立っていた。男の衣を見て、玉蓮の目が見開かれる。緑青(ろくしょう)色の地に銀糸(ぎんし)の文様。それはまさしく後宮の宦官に与えられる服。しかも、この禍々しい柄は——。

(——太后(たいこう)直属!)

 現れた宦官は、(うやうや)しく、しかし芝居がかった動作で(こうべ)を垂れた。

「お初にお目にかかります、崔夫人」

 その顔からは一切の感情が読み取れない。眼光だけが、獲物をねめ回す爬虫類のように濡れている。

「……太后様、そして大王様が貴女様をお召しです。急ぎお支度の上、後宮までお越しになるようとの王命にございます」

「後宮、ですか? なにゆえでしょう」

「大王様が、お望みです」

「それは——」

「さあ、お迎えの輿を用意しております」

 拒否を許さない、絶対的な圧力。心の臓が早鐘を打ち、唇から細い息が漏れる。全身の血が凍りつき、指先が痺れていく。

(……これは、一体何が)