闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

◇◇◇ 崔瑾(さいきん) ◇◇◇

「旦那様、よろしいですか」

 静寂の中、扉の向こう側から玉蓮の声が部屋に届いた。崔瑾(さいきん)の前に控えていた馬斗琉(ばとる)は、小さく息を吐くと扉に向かう。玉蓮を招き入れ、深く頭を下げると、主の心中を察したように音もなく部屋を後にした。

 扉が閉まる鈍い音が、世界を隔絶する。残されたのは、崔瑾と玉蓮。そして二人の間に流れる、玻璃(はり)のように張り詰めた空気だけ。

「……玉蓮、殿」

 崔瑾は、喉に張り付いた渇きを覚えながら、なんとかその名を紡いだ。

「わたくしに、何かお話がありますか?」

 部屋を訪れたはずの玉蓮が、逆に問いを投げかける。崔瑾は、即答できなかった。目の前に立つ彼女の、吸い込まれるように深く、揺らめく漆黒の瞳を見つめることしかできない。

「旦那様の、打つ黒石が……そのように訴えている気がして」

 玉蓮は、崔瑾の心の内を覗き込むように、ふわりと呟いた。桃の花の唇、雪のような肌、そして星を閉じ込めたような瞳。そこにあるのは、息をのむほどに美しい妻の姿。

「私は、あなたを……」

 言葉が途切れる。自らの心という迷路の中で、出口を見失った子供のように、思考が空回りする。

 仕事に没頭しようとしても、地図を広げても、書簡を読んでも、文字が上滑りしていく。代わりに脳裏を支配するのは、いつだって玉蓮の顔だ。

 書斎に漂う、いつもの落ち着くはずの墨と古い紙の匂い。それが、いつしか彼女の衣から微かに漂う沈香(じんこう)の甘い香りに上書きされ、侵食されていく。それを吸い込むたびに、理性が苛烈な熱で溶かされ、ドロドロに崩れていくのがわかる。

 目を閉じれば——いや、開いていても見える。確かにこの手で(ほうむ)ったはずの、そこにいるはずのない、あの男の幻影が。赫燕(かくえん)が、嘲笑うかのように玉蓮の背後に立ち、その肩を抱いている。浅黒く太い指が、彼女の白くなめらかな首筋を這い、愛撫するように滑り落ちていく——。

「っ——!」

 耐えきれず、崔瑾は顔を覆った。喉の奥から、形にならない叫びがせり上がってくる。それを必死に飲み込みかけた、その時。ひやりとした冷たさが、手に触れた。

「……旦那様」

 その感触と、鈴のような声に、崔瑾は弾かれたように顔を上げる。幻影は消えていた。目の前には、心配そうに眉を寄せた玉蓮がいる。彼女の白く細い指先が、崔瑾の震える指を優しく包み込んでいた。

 その瞳に宿る、慈しむような光。

(——ああ、私は……)

 理性の糸が、ぷつりと断ち切られた。崔瑾は吸い寄せられるように腕を伸ばし、幻影を掻き消すように、目の前の華奢な身体を力任せにその腕の中へと抱き寄せた。

「ここに……居て、ください」

 懇願するような声が漏れる。彼女が、抵抗することなくその身を預けてくる。その柔らかな重みと、鼻腔を満たす甘い香り。崔瑾は詰めていた息を、安堵とも痛みともつかぬ、重い吐息として吐き出した。

 張り詰めていた胸の氷が、きしりと音を立てて砕け、溶け出していく。