闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 振り返るな、と理性が諭す。しかし、振り返りたい、と本能が叫ぶ。多くの声が頭を駆け巡り、体が一瞬にして動かなくなる。まるで、全身の血液が沸騰したかのように、心臓の音が、どくん、どくん、と鼓膜を強く叩く。

「……違ったな」

 もう一度、声が聞こえた。今度は、少しだけ安堵を含んだような、あるいは諦念(ていねん)が混じったような声で。

 砂利を踏む軽い音が耳に届く。一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる気配。ふ、と漂う、伽羅(きゃら)の甘くも深い香り。

 その人は、ついに玉蓮の隣に立った。肌を粟立たせるような、有無を言わせぬ威圧感が、音もなく玉蓮の全身を包み込む。視界に入らずとも、全身でそれと知れる気配。まるで、夜の闇が意志を持ち、人の姿を借りたかのようだ。

 自らの呼吸さえもが、その存在に吸い込まれていく。

「《《崔夫人》》」

 低く、しかし凛とした声が、闇を裂いて響いた。声に導かれるように、玉蓮はゆっくりと顔を上げる。その姿を捉えて、また一際大きく心の臓が脈打った。

 視界に飛び込んできたのは、月明かりを背にした、漆黒の影絵のような男の姿。夜風が(つや)やかな黒髪を(なび)かせる。漆黒の瞳が、玉蓮を捉える。月明かりが男に遮られ、玉蓮の足元に、濃い影が落ちる。

赫燕(かくえん)、将軍……」

 玉蓮の唇から漏れたその名は、夜の闇に溶け込み、そして静かに消えていく。