闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

◇◇◇ 玉蓮(ぎょくれん) ◇◇◇

 外では、天が裂けたような豪雨が降り続いていた。雨が世界を叩く音を、玉蓮はぼんやりと聞いていた。そうでもしていなければ、正気を保てなかったからだ。

 不意に、雨音の隙間から、聞き慣れた静謐(せいひつ)な足音が廊下を渡ってくるのが聞こえた。それが崔瑾(さいきん)のものだとわかった瞬間、心の臓が早鐘を打ち、肋骨(あばら)を内側から激しく叩いた。足音が、扉の前でぴたりと止む。重苦しい沈黙。そして、

「——私です」

 低く、抑制された声。気づけば、膝の上に置いた手のひらに、爪が食い込んだ。雨の湿った匂いが、急速に遠のいていく。扉が、重い音を立ててゆっくりと開く。そこに現れたのは、深緋(こきひ)の清廉な衣を纏った崔瑾の姿。だが、その首には痛々しい包帯が巻かれ、衣の裾には泥と、洗い落とせなかったであろう(さび)色の染みが見えた。

「……旦那様」

 崔瑾は、一度もこちらを見ようとしない。その蒼白な横顔を見て、玉蓮の背筋に冷たい汗が伝う。

(なぜ、旦那様がこんなにも早く。戦に何が——)

 衣は雨に濡れ、泥だらけで、さらには(おびただ)しい返り血に染まっている。敗北したなら、もっと悲壮感が漂うはず。だが、勝利したならもっと堂々としているはず。

(これは——)

 何を考えているのか読み取れない能面のような表情で、彼はゆっくりと歩み寄り、玉蓮の向かいに腰を下ろした。

 視線を合わせようとしない夫を、玉蓮は見つめることしかできない。彼は、逃げるでもなく、挑むでもなく、卓の木目をじっと見つめている。

「——戦を、終えました」

「……終え……」

 崔瑾の静かな声が、雨音に混じって届く。

「玉蓮殿」

 崔瑾が、無数の傷に覆われた手を、卓の上へと差し出した。一度だけ強く拳を握りしめ、震えを殺すように、ゆっくりと指をほどいていく。


——コトリ。


 乾いた硬質な音が、雷鳴よりも大きく玉蓮の鼓膜を震わせた。紫水晶が卓の上で転がり、鈍い光を放って止まる。



「——あなたの、大切な人を討ちました」



 卓の上にあるのは、見間違いようもない、あの石。玉蓮が持っているものと対になる、世界に二つとない紫水晶。言葉が意味を持つ前に、その「物体」が全てを物語っていた。玉蓮の視界から色が消え、紫の光だけが、網膜に焼き付いて離れない。

 あまりにも長い永遠のような沈黙だったのか、それとも瞬きするほどの刹那だったのか。世界が崩落する音が響く中で、崔瑾が小さく息を吸い込む音がした。


「……玉蓮殿」


 瞬きを一度だけ。そして、体を動かした。ゆっくりと顔を上げ、唇の端を持ち上げ、崔瑾の妻としての完璧な(おもて)を貼り付ける。目の前が白い。急速に視界が(せば)まっていく。耳に蓋をされたように、音が遠くなる。

「……ご無事で、何よりです。旦那様」

 その声は、自分でも驚くほど平坦で、何の感情も乗っていなかった。中身の入っていない人形が、あらかじめ決められた言葉を吐き出しただけ。完璧な妻が、凱旋(がいせん)した夫を労う。それだけの音。

 玉蓮は、指先を床につけ、深々と頭を下げた。衣擦れの音が、酷く耳障りに響く。

「……」

 崔瑾は、玉蓮に何も返さなかった。肯定も、否定も、何も口にせず、立ち上がる。ゆっくりと部屋を去る彼の足音は、回廊の奥へと吸い込まれて、やがて扉がギイと音を立てて、完全に閉ざされた。