闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 ただの所有物ではない。ただの戦利品でもない。あの男は、言葉ではなく、刻んだのだ。誰にも見せることのない場所に、彼女の名を。誰にも渡さぬよう、己の心の臓の最も近くに。目の前にあるもの全てを(あざ)笑い、見下しているようなあの男が。

(赫燕、お前は彼女を……)

 道具として、飾りとして扱っていたのではなかったのか。こんな場所に名を刻み、命尽きる最期の瞬間まで守り抜くほどに、愛していたというのか。目の前が滲んでいく。戦場で涙することなど、今まで一度もなかったはずなのに。勝者であるはずの自分が、なぜ。

 崔瑾は、石を自らの絹の布で包み、懐へ深く収めた。

「崔瑾様、王が『赫燕を贈れ。亡骸(なきがら)でも構わぬ』とおっしゃっていたかと……」

 一人の兵士がおずおずと口にしたその言葉に、崔瑾は現実へと引き戻された。視界には、いまだ倒れることのない赫燕の、その堂々たる姿が映し出されている。

(——この男の亡骸を王に送る? そんなことが……そんな、ことが!)

 どす黒い怒りが、崔瑾の()の底からせり上がった。

「否。(しるし)は小石ひとつだけ……あの崖の上の、見晴らしの良い場所へ」

「で、ですが、崔瑾様。王命にございます」

「黙りなさい!」

 鋭い一喝に、兵士たちが(ひる)んで後ずさる。

「敬意を払いなさい。戦場で散った全ての命に。そして……敵国といえど、自らの命を賭けて戦った気高き英雄に」

 辺りが静まり返る中、一人の巨躯(きょく)が、重い足取りで進み出た。

「……崔瑾様。私めが、赫燕の遺体を処理いたしましょう」

 その、あまりにも変わらぬ、実直な声。その響きだけが、今にも崩壊しそうなこの世界の中で、唯一、確かなもののように思えた。崔瑾は、深く息を吐き出すと、その声の主へと向き直った。

「……頼みます、馬斗琉(ばとる)。敵将といえど、最大の敬意を。決して王たちが辱めることのないよう、丁重に葬りなさい」

「御意」

「衣と剣はそのままに。誰にも触れさせてはなりません」

「は……この男は、見事な武人でした」

 馬斗琉の言葉に、崔瑾は無言で頷いた。

「それと、敵本陣……赫燕の天幕の確認もあなたに頼みます。何かあれば、すぐに私の元へ」

「承知いたしました」

 崔瑾は馬斗琉に全てを託すと、そのまま愛馬に跨った。風に(たてがみ)がたなびき、西に傾きかけた陽光が己を照らす。手綱を握る手が、微かに震えている。

「私は、王の元へ戻ります。早馬は送らず、私自身が報告に参上しましょう。この戦の結末を、この口から直接お伝えせねばなりません」

 懐の中にある石が、熱い。赫燕の心の臓が、まだそこで脈打っているかのように。

 視線は、河伯(かはく)(ほこら)を見据えている。

「行くぞ!」

 崔瑾が馬の腹を蹴ると、馬は高く(いなな)き、矢のように駆け出した。乾いた大地を蹴る(ひづめ)の音が、どこか虚しく、そして哀しく響き渡っていく。