復讐姫と二人の英雄 —殺戮将軍と天才軍師の執着。その天命の盤で美しく狂い咲く—

 それまで、天幕の中を微かに揺らめいていた油灯(ゆとう)の炎が、ぴたりと動きを止める。(くすぶ)っていた香炉(こうろ)の煙が、まるで時が凍りついたかのように、その場で(よど)む。

 音も、光も、空気の流れさえも、全てが、男のその深淵(しんえん)のような瞳に吸い込まれていく。玉蓮は、息ができなかった。まるで、深い水の底に引きずり込まれたかのように。

 獲物を前にした獣のように、愉悦と残酷さを同居させた瞳の奥に宿る闇が、思考を奪おうとする。玉蓮は、どうにか拳を握りしめて、自分の手のひらに爪を立てる。そして、一歩踏み出し、深い恭敬(きょうけい)を込めるためにその場に(ひざまず)いた。

赫燕(かくえん)将軍。玉蓮、参上いたしました」

 玉蓮は顔を伏せ、男に聞こえることのないように息を短く吐く。それを知ってか知らずか、男はふっと鼻で笑うと、豪奢(ごうしゃ)な椅子に深く身をもたせかけ、ゆっくりと顎を上げた。その視線は、まるで獲物を吟味するように、玉蓮を見下ろしている。

「将軍、か」

 低く、明確な(あざけ)りが、静寂に包まれた空間に響き渡り、玉蓮の心の臓が微かに跳ねた。

 赫燕は椅子から立ち上がると、悠然とした動作で玉蓮に歩み寄る。獣のようにしなやかに、足音一つ立てずに近づいてくるその気配に、玉蓮は無意識に息を詰めた。肺が潰れるような圧迫感がそこにある。

「ここではお頭だ、姫さん。国なんぞに忠誠を誓った覚えはねえからな」

 彼の足が玉蓮の目の前で止まり、その影が、彼女の顔に深く落ちた。玉蓮は顔を上げることもできず、黙って言葉を待つだけ。

劉義(りゅうぎ)のところの、出来のいいお人形さんか」

 その言葉に、玉蓮が鋭く睨み返そうとした、刹那。乱暴に強い力で顎を掴まれた。声を上げる間もない。無骨で、厚いたこに覆われた指が、素肌に食い込むようにして顔を強引に上向かせる。

 目の前に迫る、白磁(はくじ)のように白く(つや)めかしい美貌。だが、そこから発せられるのは、獲物の喉笛を狙う猛獣の殺気。

 獣じみた瞳が、玉蓮の顔から首筋、そして全身を舐めていく。鼻腔(びこう)の奥に、あの甘く凍てつく伽羅(きゃら)の香が再び立ち上がる。まるでこの男そのものが、香の発生源であるかのように。

「武芸も知略も悪くない、とな」

「……お頭の、お役に立てるよう、尽力いたします」

 揺るがぬ声で返した玉蓮の瞳を、赫燕は面白そうに覗き込み、喉の奥でくぐもった音を立てて笑った。

玄済(げんさい)国に売り飛ばされ、壊された姉のようにならねばいいがな」

 ——カッと、全身の血が逆流する。玉蓮は、顎を掴まれたまま、目の前の美しい悪魔を射殺すような眼差しで睨みつけた。息が荒くなり、奥歯がギリリと鳴る。

(……なぜ、姉上のことを)

 男の口の端が、三日月のように吊り上がる。

「玉蓮、か」

 赫燕の指先が、玉蓮の頬をなぞった瞬間、背筋が勝手に震えた。逃げ出したいのに、膝は地に縫い付けられたまま。

「いいだろう。朱飛(しゅひ)に預ける」

 赫燕はそう言うと、玉蓮の耳元へと唇を寄せた。触れるか触れないかの距離。甘く凍てつく伽羅(きゃら)の香りが、玉蓮の肺を強引に侵食する。

「……だが、覚えておけ」

 鼓膜を震わせる、低く、重い響き。

「お前の首輪は、俺が持つ」

 熱い吐息が、烙印のように耳に残った。

 彼はそれだけを告げると、満足したように玉蓮から離れ、天幕の外へと出て行った。闇に溶け込むように消えていくその背中は、この世の全てのしがらみを拒絶し、己の道をひたすらに突き進む、孤高の獣のようだった。