「……ここにも、伏せてあったか」
「退路のために用意していたのです。赫燕軍が、此度の戦を始めた時から準備を」
「周到だな。本陣には何かあると思ったんだがな」
「……ここで討ち取ります」
崔瑾の手が振り下ろされる。ヒュン、と風を裂く音がした直後、空が黒く染まった。初弾が外套を裂く。距離を詰めた刹那、二の矢が背中を深々と縫い止める。さらに三、四——無数の衝撃が、己の身体を貫き続ける。
しかし、赫燕は膝をつかなかった。衝撃を推進力に変え、矢が突き刺さったままの体で、崔瑾へと疾走する。痛みはない。ただ、鉛を流し込まれたように、身体が重くなるだけだ。
——ガキンッ!
赫燕の剣が、崔瑾の剣へと叩きつけられた。互いの刃が噛み合い、甲高い悲鳴を上げ、火花が散る。空気が震えている。激しい剣戟によって舞い上がった砂塵が視界を覆っていく。
息が乱れ、汗が肌を伝う。赫燕の口から、どろりと熱い塊が吐き出された。息が続かない。心の臓が破裂しそうだ。体中の血が、脈打つごとに熱を帯びて傷口から流れ出し、命が大地へと吸われていく。
——あと一歩。
赫燕は全身の筋肉を軋ませ、渾身の力で崔瑾の剣を弾き飛ばした。がら空きになった喉元。赫燕は、残った全ての命を剣に込め、振り下ろした。狙いは寸分の狂いもなく、死の弧を描く。
「っ……」
剣の切っ先が崔瑾の喉元を掠め、皮膚を浅く切り裂いた。鮮血が一条、滲み出す。崔瑾の荒い息が聞こえる。崔瑾の、驚愕に見開かれた瞳が、赫燕を射抜くように見つめ返していた。
——だが。それ以上、剣は動かなかった。
その喉元、皮一枚のところでぴたりと止まり、赫燕の剣を握る腕は石のように強張り、それ以上、進むことはなかった。体の奥深くに根を張った無数の矢の重みだけが、感じとれた。
「本陣の……宝は……くれて、やる」
掠れた声が、風に溶けた。視界が急速に灰色に染まり、目の前の崔瑾の顔が歪んでいく。代わりに浮かんできたのは、鮮やかな過去の残像。
炎に包まれ、崩れ落ちていく城。血飛沫と共に地に転がった、父の首。血塗られた剣を握りしめ、嘲笑を浮かべた美しい母の顔。その狂気じみた刃から幼い赫燕を引き離し、「生きろ」と血を吐きながら叫んだ、蘇月。
そして——獣のような眼差しを向け、こちらを睨んだ玉蓮の顔。
(あの瞳が、全てだった。あの瞳の中で燃える炎が。だから——)
血に濡れた唇を微かに震わせた。
「……詰みだ、崔瑾」
そう言って浮かべたのは、いつもの、傲岸不遜な笑み。光が失われ、闇が降りてくる。意識が遠のき、五感が一つ、また一つと閉ざされていく中で、赫燕が最後に感じたのは、胸元で微かに揺れる、石の冷たさ。
『——あなたの、心の臓の音を聞いているのです」
そして、そこに残る、あの頬の柔らかな温もりの記憶だけだった。
「退路のために用意していたのです。赫燕軍が、此度の戦を始めた時から準備を」
「周到だな。本陣には何かあると思ったんだがな」
「……ここで討ち取ります」
崔瑾の手が振り下ろされる。ヒュン、と風を裂く音がした直後、空が黒く染まった。初弾が外套を裂く。距離を詰めた刹那、二の矢が背中を深々と縫い止める。さらに三、四——無数の衝撃が、己の身体を貫き続ける。
しかし、赫燕は膝をつかなかった。衝撃を推進力に変え、矢が突き刺さったままの体で、崔瑾へと疾走する。痛みはない。ただ、鉛を流し込まれたように、身体が重くなるだけだ。
——ガキンッ!
赫燕の剣が、崔瑾の剣へと叩きつけられた。互いの刃が噛み合い、甲高い悲鳴を上げ、火花が散る。空気が震えている。激しい剣戟によって舞い上がった砂塵が視界を覆っていく。
息が乱れ、汗が肌を伝う。赫燕の口から、どろりと熱い塊が吐き出された。息が続かない。心の臓が破裂しそうだ。体中の血が、脈打つごとに熱を帯びて傷口から流れ出し、命が大地へと吸われていく。
——あと一歩。
赫燕は全身の筋肉を軋ませ、渾身の力で崔瑾の剣を弾き飛ばした。がら空きになった喉元。赫燕は、残った全ての命を剣に込め、振り下ろした。狙いは寸分の狂いもなく、死の弧を描く。
「っ……」
剣の切っ先が崔瑾の喉元を掠め、皮膚を浅く切り裂いた。鮮血が一条、滲み出す。崔瑾の荒い息が聞こえる。崔瑾の、驚愕に見開かれた瞳が、赫燕を射抜くように見つめ返していた。
——だが。それ以上、剣は動かなかった。
その喉元、皮一枚のところでぴたりと止まり、赫燕の剣を握る腕は石のように強張り、それ以上、進むことはなかった。体の奥深くに根を張った無数の矢の重みだけが、感じとれた。
「本陣の……宝は……くれて、やる」
掠れた声が、風に溶けた。視界が急速に灰色に染まり、目の前の崔瑾の顔が歪んでいく。代わりに浮かんできたのは、鮮やかな過去の残像。
炎に包まれ、崩れ落ちていく城。血飛沫と共に地に転がった、父の首。血塗られた剣を握りしめ、嘲笑を浮かべた美しい母の顔。その狂気じみた刃から幼い赫燕を引き離し、「生きろ」と血を吐きながら叫んだ、蘇月。
そして——獣のような眼差しを向け、こちらを睨んだ玉蓮の顔。
(あの瞳が、全てだった。あの瞳の中で燃える炎が。だから——)
血に濡れた唇を微かに震わせた。
「……詰みだ、崔瑾」
そう言って浮かべたのは、いつもの、傲岸不遜な笑み。光が失われ、闇が降りてくる。意識が遠のき、五感が一つ、また一つと閉ざされていく中で、赫燕が最後に感じたのは、胸元で微かに揺れる、石の冷たさ。
『——あなたの、心の臓の音を聞いているのです」
そして、そこに残る、あの頬の柔らかな温もりの記憶だけだった。

