闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 その瞬間、崔瑾の視線が、遠く、霜牙(そうが)の大地の方角へと吸い寄せられた。空と大地が溶け合うかのような水平線の彼方から、一本の、細く、しかし明確な黒い狼煙(のろし)が、天へとゆっくりと昇っていくのが見えたのだ。

 それは、助けを求める信号ではない。また、勝利を告げる合図でもない。玄済(げんさい)国の、狼煙(のろし)では、ない。静かに立ち上るその狼煙は、崔瑾には、こう告げているように見えた。

——もう、手遅れだ、と。


 あの黒い狼煙(のろし)が、これから起きるであろう地獄の光景を、鮮明に焼き付けた。蹂躙(じゅうりん)される民の悲鳴。炎に包まれる家々。赫燕の腕の中にいる玉蓮の姿。その全てが、もはや避けられぬ未来として、彼の思考を灼いていく。

「赫燕!」

 崔瑾は、怒りに震える声でその名を叫んだ。

 霜牙(そうが)の民の元へ向かったところで、もはや手遅れかもしれない。民は蹂躙(じゅうりん)され、崔瑾軍は疲弊した兵で、赫燕の策のただ中へと飛び込むことになるかもしれない。様々な可能性が沸いては消えるを繰り返す崔瑾の中に、ふと鮮烈に赫燕の笑みがよぎった。

(違う——奴の狙いは、霜牙の民ではない。奴はいつだって自分を餌に追わせ、薄くなった本陣を狙う)

 脳裏に、この戦いが始まる前の、あの盤面が蘇る。葦原(あしはら)の本陣。

(誘いか——? いや、葦原(あしはら)は、こちらが仕掛けた網の中。板道は打たせ、重弩と盾壁を伏せた。あそこなら噛み止められる)

 崔瑾は、もはや躊躇することなく、馬の腹を強く蹴り上げた。

「全軍、転進! 葦原(あしはら)の本陣へ、急ぎ戻るぞ!」

 森を背にし、自ら作り上げた「網」へと急ぐ。愛馬は(いなな)き、まるで主の怒りに呼応するかのように、一気に加速した。

 兵団が細長く、細長く、伸びて行く。前だけを見て駆けていた崔瑾の横で、ざわりと微かな音が聞こえた気がした。次の瞬間、砂塵の薄い側道の陰から音もなく、まるで亡霊の軍勢であるかのように、漆黒の塊が姿を現した。崔瑾の隊の、すぐ側面から。視界の端で、黒い影が前に出る。馬上の男——


「——かく、えん」


 名を吐いた瞬間、崔瑾は悟った。霜牙への逃走は偽り。葦原への誘いも偽り。赫燕が狙っていたのは「本陣」ですらなく、分断され、孤立した「崔瑾の首」そのものだった。読み切ったはずの、幾重にも折り重なった策。