闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 崔瑾軍の猛攻により、逃げ惑う赫燕軍の兵士たちは次々と討ち取られていった。その戦果は圧倒的。しかし、どれほど敵を討ち、どれだけ時間が経っても、軍を率いる総大将である赫燕本人の首は上がらず、また彼の側近たちの姿も見当たらない。

 陽が傾きはじめ、夕闇が戦場を侵食し始める頃、崔瑾の元へ一人の伝令兵が駆け寄ってきた。

「崔瑾様、どうやら赫燕は北に進んでいるようです」

 伝令の報告に、眉をひそめた。

「北?」

「あ、いえ。失礼しました。正しくは、微かに西にずれています。北西です」

「北西だと?」

「北西は、広大な森が広がるだけだぞ」

 部下たちの顔に、誰もが勝利を確信した、という高揚が浮かんでいるのが見えた。だが、崔瑾の眉がわずかに寄せられる。北西。その方角が、赫燕の完璧なはずの盤の上で、唯一、歪みを生んでいる。

(なぜ……罠に追い詰められた獣が、自らさらに深い森の奥へと逃げるだろうか。大孤(だいこ)に逃げる気か? いや、北西からは行けぬ。険しい山々が)

 そして、その違和感の正体が、頭の中に閃光のように走った。

「待て。その先に——」

 赫燕が向かったその先にあるのは、大孤(だいこ)と境の地。森を抜ければ、霜牙(そうが)一帯。崔瑾の脳裏に、その名が不気味な響きを伴ってこだました。

霜牙(そうが)

 名を口にした瞬間、胸の奥がざらりと(きし)んだ。

霜牙(そうが)?」

「城もない大地に何をしにいくというのです。水の源だけですぞ」

 確かに側近たちの言うことは正しい。あそこには取るべき城はない。大地と水の源があるだけだ。だが、最終的に、祈雨(きう)の儀はそこにたどり着く。

(まさか……)

「さ、崔瑾様、失礼いたします。どうか……北の森林地帯へお越しを」

 報告に来た伝令の様子が、明らかにおかしい。

「どうした」

「あれは……いえ、あれを見ていただきたいのです。我々の、兵が……」

 伝令兵のその尋常ならざる怯えように、崔瑾は、心の臓を冷たい手で掴まれたかのような、悪寒に襲われた。急いで馬を走らせ、森に進む。予想していたよりも赫燕たちの逃げ足は早いようで、より深く馬が()けた先、少し開けた場所に玄済(げんさい)軍兵士の人だかりがあった。

 崔瑾が来たことに気づいた兵士たちが、怯えた表情でこちらを見つめている。

 兵たちがいるはずの森は、あまりにも静まり返っている。風の音も、鳥の声も、虫の音さえも、一切の音が消え失せ、死んだような沈黙が辺りを支配している。