◇◇◇ 馬斗琉 ◇◇◇
翌朝、馬斗琉は、重い足取りで崔瑾の部屋を訪れた。
昨夜、部屋から聞こえたあの不穏な物音と、主らしからぬ声。それを思い出すだけで、胃の腑が、冷たい石になったかのように重くなる。
馬斗琉は、黙って扉の前に立った。心の臓の音が耳元で大きく鳴り響き、全身に冷たい汗が滲む。一度、大きく息を吐き、乱れた呼吸を整える。そして、顔を上げて告げた。
「馬斗琉です」
「……入りなさい」
一拍遅れて返ってきた言葉に、再び戸惑いを覚えながらも部屋に足を踏み入れる。不気味なほどに、すでに部屋は整えられており、昨夜の争いを思わせるような痕跡はどこにも見当たらない。散乱した書類も、割れた器の破片も、まるで最初から存在しなかったかのように完璧に片付けられている。
部屋の中央には、書簡に目を通している崔瑾の姿があった。一見、冷静なその表情の裏側、目の奥に潜む何かに——馬斗琉は、息を呑んだ。
「崔瑾様」
主の私事に口を挟むなど、臣下にあるまじきこと。ましてや閨事となれば尚更だ。しかし、機会を逸すれば、このまま何かが崩れていく。
馬斗琉は、一瞬、言葉を選び、深く頭を下げる。
「昨夜の、ことではございませぬが……」
一度、固く目を閉じて深く息を吸うと、絞り出すように、言葉を紡ぎ始める。
「白楊国の姫君を娶られた時、我ら側近は、いささか驚きはいたしましたものの、それも崔瑾様の深い誠意、何より姫君を思われてのことと、深く納得しておりました」
馬斗琉は、重い石を置くように、一言一言を慎重に紡ぐ。
「しかし、近頃の崔瑾様は、いささか……いえ、崔瑾様らしくありません。あの姫君へのご執心は、あまりに目に余ります。一つの情に囚われ、大局を見失うこと。それこそが、国を滅ぼす、最も恐ろしい病にございます。朝廷での風当たりを強くする原因は、崔瑾様ご自身であることを、ご承知おきください」
崔瑾は、書簡に視線を落としたまま、馬斗琉の言葉を聞いていた。そして、そのままの姿勢で、唇が動く。
「……忠告、痛み入る」
その声があまりに平坦で、空気が一瞬にして張り詰める。
崔瑾は、ゆっくりと顔を上げ、馬斗琉の瞳を真っ直ぐに見据えた。その目に宿る光は、氷のように冷たく、かつてないほどの強い意志を秘めている。
「しかし、玉蓮殿は私の妻だ。そのことについて、口を挟むことは許さぬ」
馬斗琉は、息を呑んだ。目の前の主の瞳は、もはや、あの、全てを静かに映し出す、森の湖ではなかった。そこにあるのは、ただ一つのものだけを映し、それ以外の一切を拒絶する、冷たく、そして、硬質な暗い輝き。
「……御意」
馬斗琉は、それ以上何も言えず、深く頭を下げた。
翌朝、馬斗琉は、重い足取りで崔瑾の部屋を訪れた。
昨夜、部屋から聞こえたあの不穏な物音と、主らしからぬ声。それを思い出すだけで、胃の腑が、冷たい石になったかのように重くなる。
馬斗琉は、黙って扉の前に立った。心の臓の音が耳元で大きく鳴り響き、全身に冷たい汗が滲む。一度、大きく息を吐き、乱れた呼吸を整える。そして、顔を上げて告げた。
「馬斗琉です」
「……入りなさい」
一拍遅れて返ってきた言葉に、再び戸惑いを覚えながらも部屋に足を踏み入れる。不気味なほどに、すでに部屋は整えられており、昨夜の争いを思わせるような痕跡はどこにも見当たらない。散乱した書類も、割れた器の破片も、まるで最初から存在しなかったかのように完璧に片付けられている。
部屋の中央には、書簡に目を通している崔瑾の姿があった。一見、冷静なその表情の裏側、目の奥に潜む何かに——馬斗琉は、息を呑んだ。
「崔瑾様」
主の私事に口を挟むなど、臣下にあるまじきこと。ましてや閨事となれば尚更だ。しかし、機会を逸すれば、このまま何かが崩れていく。
馬斗琉は、一瞬、言葉を選び、深く頭を下げる。
「昨夜の、ことではございませぬが……」
一度、固く目を閉じて深く息を吸うと、絞り出すように、言葉を紡ぎ始める。
「白楊国の姫君を娶られた時、我ら側近は、いささか驚きはいたしましたものの、それも崔瑾様の深い誠意、何より姫君を思われてのことと、深く納得しておりました」
馬斗琉は、重い石を置くように、一言一言を慎重に紡ぐ。
「しかし、近頃の崔瑾様は、いささか……いえ、崔瑾様らしくありません。あの姫君へのご執心は、あまりに目に余ります。一つの情に囚われ、大局を見失うこと。それこそが、国を滅ぼす、最も恐ろしい病にございます。朝廷での風当たりを強くする原因は、崔瑾様ご自身であることを、ご承知おきください」
崔瑾は、書簡に視線を落としたまま、馬斗琉の言葉を聞いていた。そして、そのままの姿勢で、唇が動く。
「……忠告、痛み入る」
その声があまりに平坦で、空気が一瞬にして張り詰める。
崔瑾は、ゆっくりと顔を上げ、馬斗琉の瞳を真っ直ぐに見据えた。その目に宿る光は、氷のように冷たく、かつてないほどの強い意志を秘めている。
「しかし、玉蓮殿は私の妻だ。そのことについて、口を挟むことは許さぬ」
馬斗琉は、息を呑んだ。目の前の主の瞳は、もはや、あの、全てを静かに映し出す、森の湖ではなかった。そこにあるのは、ただ一つのものだけを映し、それ以外の一切を拒絶する、冷たく、そして、硬質な暗い輝き。
「……御意」
馬斗琉は、それ以上何も言えず、深く頭を下げた。

