闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 宿に戻る道すがら、崔瑾(さいきん)は何も言わなかった。隣を歩く玉蓮の衣が、彼の腕に微かに触れる。いつもなら、そっと手を添えてくれるはずの彼が、今は氷の壁のように、前だけを見据えて歩いている。

 その横顔から発せられる冷気が、夜の空気をさらに凍てつかせる。

 宿の自室に戻ると、崔瑾は、無言で玉蓮の手を掴んだ。

「つ……!」

 その力は、普段の崔瑾からは考えられないほどに荒々しい。玉蓮の腕から、衣と肌が擦れる音がした。目の前の瞳は、もはや深い森の湖ではない。そこに揺らめいていたのは、何も映さない、玻璃(はり)のような無機質な光だけ。

「……だん、なさ」

「そんなに、あの男が恋しいですか、玉蓮殿」

 心の底から絞り出すような静かな声。感情を抑え込んでいるのか、それとも決壊寸前か。玉蓮は、その瞳に射す光を見つめるしかできない。

 彼の喉から、獣が唸るような低い音が漏れた。玉蓮の腕を掴む崔瑾の腕が震えている。

「ぁ……」

 玉蓮の声が音にならずに震える。

「あの男が!」

 崔瑾は、(かたわ)らの卓を、()ぎ払った。それと同時に響き渡る、杯が砕け散る凄まじい音。一瞬の恐怖に胸元に手を置いた瞬間——崔瑾の表情が、能面のように、一切の光を失った。

「いつからだ!」

「だん——」

「いつから、私の腕の中で、あの男のことだけを考えていた!」

 崔瑾の荒々しい声に、玉蓮は言葉を失い俯く。喉からは乾いた音が漏れるだけ。彼は玉蓮の頬を乱暴に掴み、激しく、ほとんど叩きつけるように口を塞いだ。それは、もはや口付けと呼べるものではなかった。

 玉蓮の唇をこじ開け、全てを奪い、自分の色で塗りつぶそうとする、荒々しいまでの支配。彼の唇は熱く、強引に玉蓮の抵抗を押し潰そうとする。

 心の臓が震える。息が詰まる。

 その激しさのまま、玉蓮の背が壁に打ち付けられ、再び鈍い音が響くと同時に痛みがびりりと走った。


 部屋の外から、急ぐ足音がして、すぐに声が届く。

「さ、崔瑾様!」

 馬斗琉(ばとる)の声。崔瑾は一瞬、それに反応したが、玉蓮を抱きしめる腕の力は緩まない。

「ばと……んっ!」

 玉蓮が馬斗琉の名を呼ぼうとしたが、崔瑾はその口を塞ぐ。

「入るな! 下がれ!」

「……で、ですが」

「んんっ!!」

「命令だ! 二度言わせるな!」

 崔瑾は、大きな声でそれだけを告げる。


 そして、玉蓮の衣に手をかけ、()いでいく。絹の衣が擦れる音が、静まり返った部屋に耳障りに響く。普段の彼からは想像もつかない、獣のような光がその目に宿り、玉蓮を押さえつけるその腕は、身動き一つさえ取らせてはくれない。

 彼の唇から漏れる、濃い酒の匂い。

「だん、なさっ……あ」

 いつもは優しく髪を梳く指が、今は、力任せに肌を掴む。その指の跡が、玉蓮の白い肌に赤く跡を残す。

「やめ……おやめ、くだ」

「……誰を……誰を……その心で呼んでいる!」

 耳元で聞こえる、(うめ)くような、彼の声。

 そして、彼は何かを吐き出すように、玉蓮の体を無理矢理に開いた。まるで、その中に残る、別の男の影を、根こそぎ引きずり出そうとするかのように。

 何度も、何度も。

 その夜は、嵐のように過ぎ去っていった。