闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。



 (しょう)将軍の屋敷を後にしたとき、空はすでに宵闇(よいやみ)に包まれていた。記録の写しを懐に抱きながら、玉蓮は一言も口を利かず、脳裏で連なっていた文字を繰り返す。

 崔家の屋敷に戻った頃には、冷たい月明かりだけが彼女を照らしていた。昼間の喧騒(けんそう)はすでに消え失せ、しんとした静寂が屋敷を包み込んでいる。玉蓮の心には、先ほどまで滞在していた、(しょう)家での話が、重くのしかかり、深い波紋を広げていく。

 角を曲がったところで、影がすっと現れ、行く手を阻まれた。

「……阿扇(あせん)

「玉蓮様、お戻りですか」

 阿扇の声は低く、語尾は断ち切るように短かった。玉蓮は歩みを止め、向き直る。廊下の灯りに照らし出された阿扇の眉間には、深い皺がはっきりと刻まれている。

「心配をかけましたね」

「どちらに?」

 間髪をいれずに問う阿扇に、いつもと変わらず微笑(ほほえ)みを返す。

(しょう)家を訪問すると伝えていたはずです。(しょう)()様のお話をお聞きした以上、何かお力になれればと」

「あなたは、ご自身がどのような橋を渡ろうとしているか、理解されているのか」

 阿扇の声は、さらに冷ややかさを増していく。

(しょう)将軍は旦那様の幕僚(ばくりょう)の者。身内を気に掛けることに問題があるというのですか」

 玉蓮は、一歩も引かずに言い返す。

 しかし、阿扇の顔には、まるで牙を()いたような鋭い光が走った。

「崔瑾様の奥方でありながら、勝手な真似を……周礼(しゅうれい)太后(たいこう)に口実を与えるおつもりか!」

 玉蓮はスッと足を踏み出す。一歩、また一歩と、ゆっくりと。衣擦れの(かす)かな音だけが、纏わりつくような夜の空気に溶けていく。距離を削るたびに、阿扇の呼吸がわずかに乱れていく。

 彼の目の前まで歩を進めた玉蓮は、顔を上げて、その緑がかった瞳をじっと見つめながら、ゆっくりと顔を近づける。その距離が、零れてしまいそうなほどに縮まった時、阿扇の瞳の中で反射する灯りが揺れ動いた。

 阿扇が息を呑みこみ、わずかにのけぞったが、その距離を詰めるようにさらに身を寄せた。

「っ——」

 そして、吐息がかかるほどの距離で、玉蓮は囁いた。

「どこで誰が聞いているかわからぬのです。旦那様の側近であれば、思ったことを、おいそれと口にしてはなりません」

 阿扇の肩がわずかに揺れる。その震えの意味を、玉蓮はあえて問おうとはせず、一歩も引かず、阿扇を見つめ返す。

「わたくしの敵が……旦那様の敵と重なるのであれば、辿る道は交わるでしょう」

「何を、考えているのですか」

「壊すのです」

 玉蓮は、淡々と、そして力強く言い放った。胸の中で、息が熱を帯びるように、轟々(ごうごう)と炎が揺れている。

『——要を、壊せ』

 あの男の声が頭の中で響いている。