「……参ります」
玉蓮は、絞り出すように、そう紡ぐ。一歩だけ踏み出せば、その胸に戻れる。そう思うほどに、赫燕は玉蓮の目の前に立っていた。視線を少しだけ下に向ければ、玉蓮の胸元と同じように、赫燕の胸元で紫の石が揺れている。
赫燕が懐に手を入れて、そこから一本の豪奢な匕首を取り出した。漆黒の柄に映える紫色の石と、鈍く光を放つ刃。そして、匕首を玉蓮の手に滑らせると、その指に力をこめる。骨ばった指が、玉蓮の手を一瞬だけ包み込む。指先の熱と、ひんやりとした金属の感触が、玉蓮の手のひらにじんわりと広がっていく。玉蓮の視線は、匕首の煌めきに吸い寄せられるように、その刃紋を追っていた。
「……」
玉蓮は、赫燕の瞳を見つめた。美しい漆黒の奥で、光が揺れている。やがて、玉蓮は震える唇をどうにか動かした。
「……必ず」
そう一言告げると、玉蓮は、その匕首を胸元の紫水晶へと手繰り寄せるように強く握りしめる。冷たい匕首の感触と、玉蓮自身の体温で熱を帯びた紫水晶の感触が、手のひらの中で奇妙に混じり合う。そして、玉蓮が音もなく背を向け、一歩を踏み出した瞬間。
「——生きろ」
いつの間にか、玉蓮の耳に馴染んでしまった低く力強い声が玉蓮に届いた。命令のような、願いのような、その声の響き。その一言が、胸の奥で何かをばきり、と音を立てて折った。息が詰まり、喉の奥にせり上がった熱が、声にならずに溢れそうになる。
「——っ」
玉蓮は一瞬、駆け出してしまいそうな体を押さえ込むようにして、握りしめる拳に力を入れた。これでもかと。爪が食い込み、血が滲むのがわかった。それでも、力を緩めることができなかった。そうでもしなければ——あの伽羅の香りがする胸に戻ってしまうから。
玉蓮は、必死に一歩ずつ足を前に出していく。絹が擦れ合う音だけが響いている。回廊に出ると、玉蓮の後ろでギイと扉が閉まる音がする。そして、閉ざされた扉の向こう側から、——ガシャン——と壁に叩きつけられる音が響いた。その音に、思わず瞳を強く閉じれば、ただ一筋、涙が頬を伝っていく。
玉蓮は、ただ前だけを見据えて歩き出した。一本の匕首と、紫水晶だけを胸に抱いて。

