闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。



 劉義(りゅうぎ)の書斎を出た玉蓮を待っていたのは、朗らかな光。

「今日は特に夕陽が美しいんだ。見に行こうか」

 いつも通り差し出された手のひらに、玉蓮(ぎょくれん)は自分の手を重ねる。ゆったりと歩く劉永(りゅうえい)を見上げながら、その隣を歩いていく。何度繰り返したかわからないその光景に、やはり息がほどけていく。


 練兵場の片隅で、茜色に染まる夕陽を黙って眺めた。日中の喧騒(けんそう)が嘘のように静まり返った空間に、風が穏やかに吹き抜け、沈みゆく太陽の最後の輝きが世界を優しく包み込む。

 夕陽にかざすように、玉蓮は懐から木製の鳥を取り出し、空へと掲げた。袖から覗く細い腕には、無数の(あざ)が浮き出ている。赤に紫、そして青。痛々しいはずのその傷跡が、その赤を吸って、まるで鮮やかな花が咲き乱れているかのように見えた。

 ふわりと、温かいものがその手を包み込む。劉永の大きな手のひら。彼が守り鳥ごと、玉蓮の傷ついた指先をいたわるように撫でると、冷え切っていた玉蓮の皮膚に、じんわりと熱が移っていく。

「真っ白な手が、真っ赤になってしまったね」

 劉永の声を聞くと、強張っていた肩の力が、自然と抜けていくのが分かった。

「良いのです。玉蓮は、このために生きているのですから」

 玉蓮の視線は、姉が遺した鳥へと向けられていた。劉永の温もりに包まれながらも、意識は、遠い場所へと飛んでいく。目を閉じれば、浮かび上がるのは、墨を流したような漆黒の闇。その闇の奥底で、血に濡れた刃が(ひらめ)き、冷たい光を放っている。



 ——この手でいつか、あの男の喉を()き切るのだ。



 彼から伝わる温かさとは裏腹に、自分の指先から、すうっと血の気が引いていく。

(えい)兄様……」

 名を呼べば、微笑(ほほえ)みを返してくれる。夕陽に照らされた劉永の笑顔は、あまりに真っ直ぐで、眩しい。玉蓮は思わず目を細めた。

「いつか玉蓮も、いずこかの殿方と縁談が結ばれるのでしょうか……公主、として」

 そう問いかけると、彼の指先がぴくりと微かに震えるのが伝わってきた。その手のひらに、力がこもっていく。劉永は、ゆっくりと玉蓮の手を撫でて、ふっと柔らかく笑みをこぼす。

「僕の、お嫁さんでもいいんだよ」

 時が止まったようだった。不意を突かれた玉蓮は瞳を(またた)かせ、呆気にとられたように劉永を見つめる。冗談めかした口調。けれど、その瞳は痛いほどに真剣で、揺るがない光を宿していた。

(——ああ、もしも)

 もしも、姉が生きていて、自分も普通の娘であったなら。どれほど心が震えただろうか。けれど、その「もしも」は、訪れない。

 玉蓮は胸の奥のきしみを隠すように、ふふ、とあえて明るく笑ってみせた。

「永兄様ったら。またそのようなことを。力のない公主が、劉家(りゅうけ)のような名家に嫁げるはずがございませんのに」

 劉永に向けて笑いかけると、彼は一瞬、息を呑むようにして、玉蓮を見た。目の前の大きな瞳の奥で、夕陽が炎のように揺らめいた。頬に添えられる大きな手。夕陽に透ける彼の髪が、淡い黄金に煌めいている。

 二人並んで、燃えるような空を見上げた。沈みゆく太陽は、どろりと重く、まるで世界が流す血のように赤い。繋がれた手の温もりは、泣きたくなるほどに優しく、そして——残酷なほどに遠い。

 やがて、太陽が山の()へと堕ちていく。世界から色が失われ、足元から濃密な影が這い上がってくる。玉蓮は、劉永の手を握ったまま、訪れる闇を静かに見据えた。