闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

◇◇◇ 赫燕 ◇◇◇



 玉蓮が天幕から去った後も、微かに彼女の香りが残っている気がした。その事実だけで、縫合されたばかりの背中の傷が、じくりと熱を持つ。痛みを紛らわすように、瞳を閉じると同時に、騒がしい声が天幕のすぐ外から聞こえてくる。

 そして、間髪おかずに「入ります」という声と共に、子睿(しえい)(じん)が中へ入ってきた。二人の顔には、普段と変わらぬ笑みが浮かんでいる。

「お頭ぁ。不覚傷ってやつっすかね、こりゃ」

 迅の、脳天気な声が鼓膜を揺らす。こめかみの血管が、ぴくりと動いた。子睿(しえい)が扇で口元を隠し、ふふと笑う。その涼やかな顔が今は苛立ちの元となる。

「馬鹿を言いなさい、迅さん。姫君を守った名誉の傷、ですよ。そうですよねえ、お頭」

 子睿(しえい)の、ねっとりとした声が、さらに神経を逆撫でする。

「こんな風にくたばってるお頭を見るのは、久々っすねー」

 迅はにやにやと笑いながら、寝台に横たわる赫燕の顔を覗き込む。子睿もまた、腕を組みながら赫燕を見下ろした。

「大将が本陣を抜け出して、女を助けに行く。これも鬼才・赫燕の神算鬼謀(しんさんきぼう)かもしれませんな」

 子睿の言葉に、迅は「うはー、ねえわー」と首を振る。

「それにしてもお頭、本当にあの一太刀(ひとたち)()けらんなかったんすか?」

「姫君を守るため、心が勝手に体を動かすのですよ。いつもなら()けられる刃でさえも、判断がつかぬほどに心が燃えているのです」

「くはは! まさかあの赫燕が! 他の男の元に走った女を守って、深手を負うなんてなー。赫燕軍の飯の種っすよ」

「玉蓮のおかげで、話題に事欠きませんねえ、うちの陣営は。お頭の心にも、ほんのひとさじ、ぬくもりが湧いたようで。ねえ、迅さん?」