「……ふ、ふざけんじゃねえ!」
牙門が近くの椅子を蹴り倒す音が、轟音となって響く。床に転がった椅子は、不規則な音を立てて滑っていく。
「そんなのありかよ……」
刹の忌々しげな声が、牙門の激昂とは対照的に鉛のように重く耳に届き、彼の腕が使者の視線を遮るように玉蓮を包みこむ。
その、ほんの一瞬の隙。玉蓮の視界の端で、それまで微動だにしなかった子睿の影が、ゆらり、と動いた。彼がいつも手にしている扇が、まるで音もなく滑るように、使者の元へと伸びていく。その扇の先端から、きらり、と。髪の毛よりも細い、毒を塗った針が覗いていたのを、玉蓮だけが見ていた。
「子睿」
喉から絞り出すような声で名を呼ぶ。
子睿の動きがふ、と止まる。いつもは細められているはずの瞳が、珍しく見開かれ、凍てつくような光で玉蓮を射抜いていた。彼の問いかけるような視線に、玉蓮は首を小さく横に振る。
「……玉蓮、行くな。俺たちが」
迅の手が玉蓮の肩を掴み、力が込められる。
「理解しておられると思うが……逆らえば斬首。いくら赫燕将軍の軍とて王の決定は覆せぬ。公主は、その責を果たされよ」
使者の声は、依然として冷たい。
視界が滲み、膝の感覚が遠のいていく。耳元では、風でもない何かが、ざわざわと囁いていた。体の奥底から、凍てつくような冷たさが這い上がり、呼吸すらままならない。
玉蓮の周りから色も音もなくなるように、世界が遠ざかる。政治の道具として、姉と同じく敵国へと送られるその事実に、姉を無惨に殺した男の元に贈られる未来に、胸の奥で、ごう、と音をたてた小さな炎が風に煽られて火の粉をあげた。
「公主、勅命である。受けとられよ」
拒めば、赫燕軍が討たれる。逃げれば、力を持たぬ母の一族が処断される。
玉蓮は、刹の腕から抜け出し、使者の目の前で跪いた。自らの胸の内で、昏い炎が逆巻く。
「……ありがたく」
巻物を受け取り、彼女は瞬きもせずにそれを見つめた。父からの最初で最後の言葉を。やがて、玉蓮はゆっくりと天幕の外へと歩き出した。
「玉蓮……」
朱飛の声を背中に受けながらも、それに振り返ることもせずに。
牙門が近くの椅子を蹴り倒す音が、轟音となって響く。床に転がった椅子は、不規則な音を立てて滑っていく。
「そんなのありかよ……」
刹の忌々しげな声が、牙門の激昂とは対照的に鉛のように重く耳に届き、彼の腕が使者の視線を遮るように玉蓮を包みこむ。
その、ほんの一瞬の隙。玉蓮の視界の端で、それまで微動だにしなかった子睿の影が、ゆらり、と動いた。彼がいつも手にしている扇が、まるで音もなく滑るように、使者の元へと伸びていく。その扇の先端から、きらり、と。髪の毛よりも細い、毒を塗った針が覗いていたのを、玉蓮だけが見ていた。
「子睿」
喉から絞り出すような声で名を呼ぶ。
子睿の動きがふ、と止まる。いつもは細められているはずの瞳が、珍しく見開かれ、凍てつくような光で玉蓮を射抜いていた。彼の問いかけるような視線に、玉蓮は首を小さく横に振る。
「……玉蓮、行くな。俺たちが」
迅の手が玉蓮の肩を掴み、力が込められる。
「理解しておられると思うが……逆らえば斬首。いくら赫燕将軍の軍とて王の決定は覆せぬ。公主は、その責を果たされよ」
使者の声は、依然として冷たい。
視界が滲み、膝の感覚が遠のいていく。耳元では、風でもない何かが、ざわざわと囁いていた。体の奥底から、凍てつくような冷たさが這い上がり、呼吸すらままならない。
玉蓮の周りから色も音もなくなるように、世界が遠ざかる。政治の道具として、姉と同じく敵国へと送られるその事実に、姉を無惨に殺した男の元に贈られる未来に、胸の奥で、ごう、と音をたてた小さな炎が風に煽られて火の粉をあげた。
「公主、勅命である。受けとられよ」
拒めば、赫燕軍が討たれる。逃げれば、力を持たぬ母の一族が処断される。
玉蓮は、刹の腕から抜け出し、使者の目の前で跪いた。自らの胸の内で、昏い炎が逆巻く。
「……ありがたく」
巻物を受け取り、彼女は瞬きもせずにそれを見つめた。父からの最初で最後の言葉を。やがて、玉蓮はゆっくりと天幕の外へと歩き出した。
「玉蓮……」
朱飛の声を背中に受けながらも、それに振り返ることもせずに。

