闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。



◇◇◇ 朱飛 ◇◇◇



 天幕の中に、張り詰めた空気が満ちていた。朱飛(しゅひ)は、刻一刻と過ぎる時間に、ただ顔を(しか)めていた。まだ戻らぬ玉蓮たちを思うと、苛立ちが腹の底で渦巻く。

 その時、一人の兵士が、息も絶え絶えに転がり込んできた。甲冑は砕かれ原型を留めておらず、顔は血と泥にまみれている。彼は、ごぼり、と黒い血の塊を吐き出しながら、それでも必死に言葉を紡いだ。

「玉蓮が……玉蓮の隊が、敵に包囲されました!」

 その一言が、朱飛の思考を貫いた。息を吸うことを忘れ、全身の血が指先から急速に引いていく。目の前が、一瞬だけ白く(かす)む。隣で、牙門(がもん)が卓を殴った。

「なんだと!!」

 牙門の咆哮(ほうこう)(あお)られるように、腹の底から、赤黒い、灼けつくような衝動だけが込み上げてくる。気づけば、己の拳は、骨が(きし)むほどに強く握りしめられていた。

「……斥候(せっこう)、いや遊軍か。こちらの奥深くに」

 子睿(しえい)がか細く呟く。迅と刹の、信じられないという表情。 朱飛の頭の中から全てが消え去って、怒りにも似た嵐のような風が巻き起こる。すぐさま己の部隊を率いて飛び出そうと一歩踏み出した。しかし、その時。


「——自業自得だ」


 赫燕(かくえん)は、椅子に座ったまま、他人事のように、いや、盤上の駒の動向を眺めるかのように、興味なさげに言った。

「死ぬぞと言ったろ」

 赫燕の、あまりにも冷たい声が、朱飛の全身の血を、一度、凍てつかせた。

「お頭!」

 衝動のままに、怒号が喉から(ほとばし)る。


 誰も息を呑むことさえ許されぬような張り詰めた空気の中で、赫燕の椅子の(きし)む音だけが響いた。その男は、何も聞こえていないかのように、立てかけてあった大剣に平然と手を伸ばす。その指先が、使い込まれた剣の(つか)に触れた瞬間。赫燕の目が、一瞬だけ、朱飛を捉えた。

「——じゃあな、子睿(しえい)

「……は?」

 赫燕は、ゆらりと立ち上がり、(かたわ)らに控えていた迅と数人の精鋭たちに向けて顎で軽くしゃくった。

「本陣は、任せたぞ」

 その言葉が終わるが早いか、彼はまるで風のように天幕を出ていく。迅たちが、慌ててその後を追う。後に残されたのは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった側近たちだけだった。