◇◇◇
玄済国へと戻った崔瑾たちは、休む間もなく王宮へと呼び出され、厳かな雰囲気の謁見の間で大王にまみえていた。大王は金色の玉座に体を放り投げるようにして、腰掛けている。釘一つ打てば響き渡るような静寂が満ちている中、玉座から微かに絹が擦れる音がした。
「崔瑾、お前たちの会談の内容は、すでに大臣共から詳しく聞いているぞ」
王の声が反響する。
玉座の背後から、ふわりと甘く、どこか薬草にも似た香の匂いが漂ってきた。それは、この場にあるべきではない、甘く濃い香り。崔瑾は、眉一つ動かさず、一歩前に進み出て深く頭を下げた。
「白楊国の第一将である、赫燕殿と会談を行って参りました。直接のご報告が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます」
「良い。お前は遠く白楊との国境から帰ってきたのだ。ここまでの道のり、およそ三日を要するのは当然であろう。それよりも——」
崔瑾が少しだけ顔を上げれば、こちらを見ているであろう大王の視線が突き刺さる。そのまま動かずに次の言葉を待つ。
「報告の中で、特に気になるものが一点あった。白楊の華についてだ」
大王の言葉に、崔瑾は悟られぬよう、しかし、わずかに息を呑む。
「……公主にございますか」
自身の報告書には敢えてその名を記さなかった。波風を立てぬよう、細心の注意を払ったつもりだった。
「なぜ、お前は報告にあげていない?」
まるで玩具を取り上げられた子供のようなその声に、崔瑾の額に一筋の汗が伝い、頬を滑り落ちる。
「此度の会談は、白楊国の第一将を見るための機会。背後に強力な後ろ盾を持たぬ公主など、大王のお耳に入れるようなものではございませぬ」
崔瑾はきっぱりとそう告げて、再び頭を下げる。
「崔瑾、お前はやはりわかっておらぬな。そうしたところが周礼に及ばぬのだ」
絹の擦れる音、そして扇が勢いよくはたかれる音がした。
「よいか。玄済にふさわしい、比類なき美こそが、私の傍らにあるべきだ。赫燕を手に入れてやろうかと思うておったが、あの男は強情でな。宝物も爵位もいくら積んでも、返答すら寄越さぬ」
大王は、口の端を吊り上げた。
「あの公主は、詩歌に詠まれている白菊らしいな? 男たちの心を焼くという、月貌の白菊を、この手で散らしてやろうではないか。のう、崔瑾」
残酷な言葉を、まるで愛を囁くかのように、うっとりと紡ぎ出す。崔瑾の背筋を、冷たいものが駆け上った。
(あの瞳を、慰み物にするというのか——)
崔瑾は顔を上げ、首を小さく横に振る。
「大王様、なりませぬ。あれは傾国ともいうべき存在。あの姫を後宮にお入れになることだけは——」
「良い、崔瑾。それよりも、お前が進言していた、大孤* との連合による白楊国侵攻の話があったな」
(*大孤・・・玄済国の北方に位置する騎馬民族国家。)
崔瑾は一瞬、言葉を失う。しかし、国家の安寧を願う忠臣としての務めが、彼の背筋を伸ばさせた。
「は、大王様。近年の白楊は、その侵攻を止めることなく我が国を侵略しております。国境を荒らし、民を苦しめ、その横暴は目に余るものがございます。その牙を断つために、我が国と大孤国とが手を組み、白楊国を討つ他ないかと——」
崔瑾は、熱意を込めて現状を訴えた。
白楊国の侵略は、もはや看過できない域に達している。このままでは、いずれ自国が滅ぼされかねない。国境線は常に緊張状態にあり、いつ大規模な侵攻が起こってもおかしくない状況だった。しかし——
「——理由など良い」
大王の冷徹な声が、謁見の間の重い空気を震わせ、頭を下げていた崔瑾の瞳が見開く。
「その戦、許可しよう。崔瑾、お前を総大将とし、大孤やその周辺の騎馬民族をまとめあげ、ともに白楊国に侵攻せよ」
崔瑾は息を呑んだ。ざわりと背を逆に撫でるような感覚が肌を這っている。
「戦に勝利した暁には、白菊を献上せよ。血に塗れ、崩れ落ちた姿でも良い」
「だ、大王……!」
これは、戦の許可ではない。いや、許可ではあるが、それは彼に与えられた名誉ある使命ではなかった。目の前が暗くなり、全身を駆け巡る血液が煮えたぎるような感覚に襲われる。
「《《お前の進言通り》》に事が進むのだ。母上も白楊の地を攻めるべきだとおっしゃっている。太后、そして私。この国を治める者が進めと言っておるのだ。母上……太后様は、母を失った私を育て、王にしてくださったお方だ。私は母上のために孝を尽くさねばならぬ。わかるな」
「ですが」
王が手に持つ扇が伏せられ、スッと真っ直ぐ崔瑾に向かってあげられる。
「お前が進まねば、お前とお前の軍、そしてお前が治める地の民を殺すまでだ。反逆罪でな」
大王は、子供を宥めるかのように小さいため息を漏らした。
「お前の陣営共の姉妹や娘が後宮にいることを忘れるでないぞ。母上が私以上に厳しいお方ということは、わかっているであろう」
「っ——」
「母上の言葉は、常に正しい……そうだな、崔瑾」
崔瑾は、ほんのわずかに、喉元を締め上げられたかのように息を詰めた。だが、すぐに頭を下げ、自らの拳に爪を立てる。それでも、焼け付くような熱を持って、じりじりと胸の奥から込み上げてくるものを、どうすることもできなかった。
玄済国へと戻った崔瑾たちは、休む間もなく王宮へと呼び出され、厳かな雰囲気の謁見の間で大王にまみえていた。大王は金色の玉座に体を放り投げるようにして、腰掛けている。釘一つ打てば響き渡るような静寂が満ちている中、玉座から微かに絹が擦れる音がした。
「崔瑾、お前たちの会談の内容は、すでに大臣共から詳しく聞いているぞ」
王の声が反響する。
玉座の背後から、ふわりと甘く、どこか薬草にも似た香の匂いが漂ってきた。それは、この場にあるべきではない、甘く濃い香り。崔瑾は、眉一つ動かさず、一歩前に進み出て深く頭を下げた。
「白楊国の第一将である、赫燕殿と会談を行って参りました。直接のご報告が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます」
「良い。お前は遠く白楊との国境から帰ってきたのだ。ここまでの道のり、およそ三日を要するのは当然であろう。それよりも——」
崔瑾が少しだけ顔を上げれば、こちらを見ているであろう大王の視線が突き刺さる。そのまま動かずに次の言葉を待つ。
「報告の中で、特に気になるものが一点あった。白楊の華についてだ」
大王の言葉に、崔瑾は悟られぬよう、しかし、わずかに息を呑む。
「……公主にございますか」
自身の報告書には敢えてその名を記さなかった。波風を立てぬよう、細心の注意を払ったつもりだった。
「なぜ、お前は報告にあげていない?」
まるで玩具を取り上げられた子供のようなその声に、崔瑾の額に一筋の汗が伝い、頬を滑り落ちる。
「此度の会談は、白楊国の第一将を見るための機会。背後に強力な後ろ盾を持たぬ公主など、大王のお耳に入れるようなものではございませぬ」
崔瑾はきっぱりとそう告げて、再び頭を下げる。
「崔瑾、お前はやはりわかっておらぬな。そうしたところが周礼に及ばぬのだ」
絹の擦れる音、そして扇が勢いよくはたかれる音がした。
「よいか。玄済にふさわしい、比類なき美こそが、私の傍らにあるべきだ。赫燕を手に入れてやろうかと思うておったが、あの男は強情でな。宝物も爵位もいくら積んでも、返答すら寄越さぬ」
大王は、口の端を吊り上げた。
「あの公主は、詩歌に詠まれている白菊らしいな? 男たちの心を焼くという、月貌の白菊を、この手で散らしてやろうではないか。のう、崔瑾」
残酷な言葉を、まるで愛を囁くかのように、うっとりと紡ぎ出す。崔瑾の背筋を、冷たいものが駆け上った。
(あの瞳を、慰み物にするというのか——)
崔瑾は顔を上げ、首を小さく横に振る。
「大王様、なりませぬ。あれは傾国ともいうべき存在。あの姫を後宮にお入れになることだけは——」
「良い、崔瑾。それよりも、お前が進言していた、大孤* との連合による白楊国侵攻の話があったな」
(*大孤・・・玄済国の北方に位置する騎馬民族国家。)
崔瑾は一瞬、言葉を失う。しかし、国家の安寧を願う忠臣としての務めが、彼の背筋を伸ばさせた。
「は、大王様。近年の白楊は、その侵攻を止めることなく我が国を侵略しております。国境を荒らし、民を苦しめ、その横暴は目に余るものがございます。その牙を断つために、我が国と大孤国とが手を組み、白楊国を討つ他ないかと——」
崔瑾は、熱意を込めて現状を訴えた。
白楊国の侵略は、もはや看過できない域に達している。このままでは、いずれ自国が滅ぼされかねない。国境線は常に緊張状態にあり、いつ大規模な侵攻が起こってもおかしくない状況だった。しかし——
「——理由など良い」
大王の冷徹な声が、謁見の間の重い空気を震わせ、頭を下げていた崔瑾の瞳が見開く。
「その戦、許可しよう。崔瑾、お前を総大将とし、大孤やその周辺の騎馬民族をまとめあげ、ともに白楊国に侵攻せよ」
崔瑾は息を呑んだ。ざわりと背を逆に撫でるような感覚が肌を這っている。
「戦に勝利した暁には、白菊を献上せよ。血に塗れ、崩れ落ちた姿でも良い」
「だ、大王……!」
これは、戦の許可ではない。いや、許可ではあるが、それは彼に与えられた名誉ある使命ではなかった。目の前が暗くなり、全身を駆け巡る血液が煮えたぎるような感覚に襲われる。
「《《お前の進言通り》》に事が進むのだ。母上も白楊の地を攻めるべきだとおっしゃっている。太后、そして私。この国を治める者が進めと言っておるのだ。母上……太后様は、母を失った私を育て、王にしてくださったお方だ。私は母上のために孝を尽くさねばならぬ。わかるな」
「ですが」
王が手に持つ扇が伏せられ、スッと真っ直ぐ崔瑾に向かってあげられる。
「お前が進まねば、お前とお前の軍、そしてお前が治める地の民を殺すまでだ。反逆罪でな」
大王は、子供を宥めるかのように小さいため息を漏らした。
「お前の陣営共の姉妹や娘が後宮にいることを忘れるでないぞ。母上が私以上に厳しいお方ということは、わかっているであろう」
「っ——」
「母上の言葉は、常に正しい……そうだな、崔瑾」
崔瑾は、ほんのわずかに、喉元を締め上げられたかのように息を詰めた。だが、すぐに頭を下げ、自らの拳に爪を立てる。それでも、焼け付くような熱を持って、じりじりと胸の奥から込み上げてくるものを、どうすることもできなかった。

