闇を抱く白菊—天命の盤—復讐姫は、殺戮将軍の腕の中で咲き誇る。

 そこは、絶え間なく吹き付ける風と、遥か下界から聞こえる鉄と鉄がぶつかる甲高い音、そして兵士たちの断末魔に満ちていた。だが、赫燕の前に膝をついた瞬間、玉蓮の世界から全ての音が消える。風の音も、(とき)の声も、何も聞こえない。

 赫燕は肘掛けに腕を置いて、その手で頬杖をつき、こちらを見下ろしている。その瞳には、男の感情も宿っていない。

「持ち場を離れて、何をやってる」

 地を這うような低い声。肌に刺さるような冷たい威圧。玉蓮は乱れた呼吸を整え、滲む汗も拭わずに、その瞳を真っ直ぐに見据えた。

「……お頭。この玉蓮、一生に一度の願いです」

 身体の前で組んだ両の拳が小刻みに震えている。心の臓が肋骨(あばら)を叩く音だけが、やけに大きく耳に響く。

「……なんだ」

「どうか……劉永隊の元へ救援に行かせてください」

 周囲にいた兵たちからどよめきの声が上がる。赫燕の傍にいた子睿(しえい)が、それまで弄んでいた扇子を、ぱしんと音を立てて閉じた。

「玉蓮! あなたは、この状況で、あの死地に飛び込むことがどういうことか、わかっているのですか!」

 完璧に整えられていたはずの顔が、初めて引き()り、その目は、玉蓮と赫燕の間を行き来する。

 この戦場は、どこも等しく死地なのだ。味方を助けるどころか、己の命を守ることでさえ、至難の業。そんな状況で、包囲された友軍を助けに行くなど正気の沙汰ではない。そんなことはわかっている。だが——

 玉蓮は、懐に忍ばせた小さな木彫りの鳥を、衣の上から強く握りしめた。

「姉上を殺され……復讐だけを胸に抱いて生きていたわたくしを、(いつく)しんでくださったのが……(えい)兄様なのです」

 胸が、火が燃え盛るような熱を帯びる。

「わたくしには、救いに行かないという選択肢は、ありません」

 赫燕は、無表情に鋭い視線で玉蓮を見つめていた。長い沈黙。その無言の時間が、玉蓮の決意を試すかのように、じりじりと場を締めつけていく。

 ふと、赫燕の手が動いた。その指先が、首元の紫水晶に触れる。彼の瞳の奥で、何かが微かに、でも確かに揺らめいている。


「……死ぬぞ」


 ぽつりと、抑揚もなく、感情を殺した声で、はっきりとそう告げた。玉蓮は微かに微笑(ほほえ)み、首を横に振る。

「いえ、必ず戻ります。あなたの元へ」

 その答えを聞いても、赫燕は眉根を寄せるでもなく、いつものように笑うでもなく、その瞳に玉蓮を映している。

「……三十騎やる。行け」

「お頭、本気ですか! あの戦場は、玄済(げんさい)大孤(だいこ)の中でも勇猛な部隊がいる激戦区なのです! そこはすでに死地同然、玉蓮が死にますぞ!」

 子睿の悲鳴のような制止を、赫燕は片手で制した。その目は、玉蓮から逸らさない。

「今夜中に戻れ。戻れなければ、見捨てる」

「……ありがたく」

 玉蓮は、深く、深く、頭を下げた。赫燕の瞳を見れば、そこにあるのは嵐の夜に見た、あの深く(くら)い色。彼女は一度、強く目を閉じると、風のように駆けだした。