◇◇◇ 玉蓮 ◇◇◇
「私、崔瑾も《《道》》のためにここに来ております。もちろん玄済国のために」
ふう、と男から一つ短く息が吐き出された。
「……せっかくの会談です。我が王に手土産を持ち帰らねばなりません。伺ってもよろしいか」
彼の口元には穏やかな笑みが浮かんでいるはずなのに、その声は鋭い。玉蓮はくっと小さく息を呑む。
「白楊国は、この度の戦、どこまでやるおつもりか」
天幕の中の空気が一気にぴりりと張り詰めていく。白楊国が近年見せている急速な軍事拡大。隣国への圧力と侵攻は、近隣諸国が脅威として捉えられるものだと劉義も言っていた。
崔瑾の瞳が劉永に向けられる。
「劉永殿、お父君の劉義殿は、我が玄済国を、よもや滅ぼそうとするつもりではあるまいな」
「どうでしょうか。我が父の考えは、私でさえも読み解けることはないでしょう」
「劉義殿を凌ぐと言われる才を持つあなたにも、お父君は明かさないと?」
「私など若輩の身。大都督が描く国の未来など、教えていただけるはずもございませぬ」
玉蓮が劉永を見上げるも、そこにあるのは、ただひたすらに完璧な笑顔だけ。盤面を前にした時の穏やかな笑み。
一瞬の静寂の後、赫燕の唇から、はっ、とため息のような、あるいは蔑みのような笑いが溢れた。
「お前たちこそ、隣国を食い尽くしてきただろう。白楊か、それ以上にな」
「戦乱の世です。史実として隣国を滅ぼしたことも我が国にはありましょう。ですが、私は異なる道を探れると——」
「ここまで絡んだ糸を切れるとでも?」
「和平を結ぶ道もある」
「婚姻で結んだ和平さえ、すぐに朽ち果てる。それが乱世だ」
崔瑾と赫燕の視線が、ぶつかっている。天幕の空気は、糸がどこまでも引っ張られて今にも千切れそうなほどに張り詰める。言葉を発していない、玉蓮の額に汗が滲んでいく。
「止まることはない、そういうことですか?」
「お前たちこそ、止まることなどないだろうが。王族どもを止められるとでも言うのか」
「今まさに侵略を受けているのは、私たちです」
その瞬間、赫燕の椅子が大きく音を立てた。赫燕の目は大きく見開かれている。
「よく言うぜ。その侵略を最も精力的にやってきたのは、お前たちだろう。お前らが自分の国だと言っているその領土と民は、元は他の国のものだ」
「血と汗を流して、先人が勝ち取った地。それはすでに我が国だ。国とそこで暮らす民を守るためならば、抗うのは必然。それは、我らが掲げるべき正義だ」
「——正義、だと?」
獣が唸るような声に、そばに控えている両国の兵たちから、「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。戦場であれば、確実に首が飛んでいる。そう思うほどに、重苦しく強い圧が赫燕から放たれている。
玉蓮の呼吸が浅くなる。全身の毛穴が逆立っている。まるで、見えない刃の切っ先を、喉元に突きつけられているかのように。そんな中で、崔瑾だけが赫燕の視線から逃れることなく、真正面から受け止め、表情を動かさない。
玉蓮は、どうにか顔だけを動かして赫燕を見つめた。赫燕の瞳を視界にとらえた瞬間、玉蓮の脳裏にあの嵐の夜が閃く。そこにあったのは、あの日と同じ、絶望を呑み込んだような色。
震えるほどの怒りの圧が発されているはずの男の瞳は、なぜか泣き出しそうに見えた。名前を呼ぶこともできないまま、玉蓮は思わず手を伸ばし、血管が浮かび上がったその腕に触れる。その瞬間、ふっと赫燕の唇から本当に小さく息が漏れた。
崔瑾を射殺さんばかりだった瞳から、すっと殺気が引いていく。ようやく崔瑾から逸らされたその視線は、玉蓮を捉えると、わずかに色を戻した。玉蓮に応えるように、赫燕の大きな手が、彼女の頬をゆっくりと撫でた。玉蓮はその手のぬくもりに安堵しているはずなのに、なぜか、涙が滲みそうになる。
卓を挟む向こう側から、ふうと大きく息を吐く音がした。視線をそちらに向ければ、崔瑾が椅子に座り直している。
「……失礼いたしました。あまりにも本題から逸れてしまいましたね。公主の御前であるにもかかわらず、感情的に言葉を捲し立て、誠に申し訳ありません。そろそろ、本題に戻りましょうか、子睿殿」
その後、いくつかの事務的な取り決めが交わされたが、一度張り詰めた空気は戻らない。会談は、互いの腹を探り合っただけで、物別れに近い形で終わりを告げた。
「私、崔瑾も《《道》》のためにここに来ております。もちろん玄済国のために」
ふう、と男から一つ短く息が吐き出された。
「……せっかくの会談です。我が王に手土産を持ち帰らねばなりません。伺ってもよろしいか」
彼の口元には穏やかな笑みが浮かんでいるはずなのに、その声は鋭い。玉蓮はくっと小さく息を呑む。
「白楊国は、この度の戦、どこまでやるおつもりか」
天幕の中の空気が一気にぴりりと張り詰めていく。白楊国が近年見せている急速な軍事拡大。隣国への圧力と侵攻は、近隣諸国が脅威として捉えられるものだと劉義も言っていた。
崔瑾の瞳が劉永に向けられる。
「劉永殿、お父君の劉義殿は、我が玄済国を、よもや滅ぼそうとするつもりではあるまいな」
「どうでしょうか。我が父の考えは、私でさえも読み解けることはないでしょう」
「劉義殿を凌ぐと言われる才を持つあなたにも、お父君は明かさないと?」
「私など若輩の身。大都督が描く国の未来など、教えていただけるはずもございませぬ」
玉蓮が劉永を見上げるも、そこにあるのは、ただひたすらに完璧な笑顔だけ。盤面を前にした時の穏やかな笑み。
一瞬の静寂の後、赫燕の唇から、はっ、とため息のような、あるいは蔑みのような笑いが溢れた。
「お前たちこそ、隣国を食い尽くしてきただろう。白楊か、それ以上にな」
「戦乱の世です。史実として隣国を滅ぼしたことも我が国にはありましょう。ですが、私は異なる道を探れると——」
「ここまで絡んだ糸を切れるとでも?」
「和平を結ぶ道もある」
「婚姻で結んだ和平さえ、すぐに朽ち果てる。それが乱世だ」
崔瑾と赫燕の視線が、ぶつかっている。天幕の空気は、糸がどこまでも引っ張られて今にも千切れそうなほどに張り詰める。言葉を発していない、玉蓮の額に汗が滲んでいく。
「止まることはない、そういうことですか?」
「お前たちこそ、止まることなどないだろうが。王族どもを止められるとでも言うのか」
「今まさに侵略を受けているのは、私たちです」
その瞬間、赫燕の椅子が大きく音を立てた。赫燕の目は大きく見開かれている。
「よく言うぜ。その侵略を最も精力的にやってきたのは、お前たちだろう。お前らが自分の国だと言っているその領土と民は、元は他の国のものだ」
「血と汗を流して、先人が勝ち取った地。それはすでに我が国だ。国とそこで暮らす民を守るためならば、抗うのは必然。それは、我らが掲げるべき正義だ」
「——正義、だと?」
獣が唸るような声に、そばに控えている両国の兵たちから、「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。戦場であれば、確実に首が飛んでいる。そう思うほどに、重苦しく強い圧が赫燕から放たれている。
玉蓮の呼吸が浅くなる。全身の毛穴が逆立っている。まるで、見えない刃の切っ先を、喉元に突きつけられているかのように。そんな中で、崔瑾だけが赫燕の視線から逃れることなく、真正面から受け止め、表情を動かさない。
玉蓮は、どうにか顔だけを動かして赫燕を見つめた。赫燕の瞳を視界にとらえた瞬間、玉蓮の脳裏にあの嵐の夜が閃く。そこにあったのは、あの日と同じ、絶望を呑み込んだような色。
震えるほどの怒りの圧が発されているはずの男の瞳は、なぜか泣き出しそうに見えた。名前を呼ぶこともできないまま、玉蓮は思わず手を伸ばし、血管が浮かび上がったその腕に触れる。その瞬間、ふっと赫燕の唇から本当に小さく息が漏れた。
崔瑾を射殺さんばかりだった瞳から、すっと殺気が引いていく。ようやく崔瑾から逸らされたその視線は、玉蓮を捉えると、わずかに色を戻した。玉蓮に応えるように、赫燕の大きな手が、彼女の頬をゆっくりと撫でた。玉蓮はその手のぬくもりに安堵しているはずなのに、なぜか、涙が滲みそうになる。
卓を挟む向こう側から、ふうと大きく息を吐く音がした。視線をそちらに向ければ、崔瑾が椅子に座り直している。
「……失礼いたしました。あまりにも本題から逸れてしまいましたね。公主の御前であるにもかかわらず、感情的に言葉を捲し立て、誠に申し訳ありません。そろそろ、本題に戻りましょうか、子睿殿」
その後、いくつかの事務的な取り決めが交わされたが、一度張り詰めた空気は戻らない。会談は、互いの腹を探り合っただけで、物別れに近い形で終わりを告げた。

