七月に入り、期末テストがおこなわれた。俺はなんとか全科目平均点以上を取ることができて補習をまぬがれた。テストが終わったら映画に行こうと鼓くんと約束をしていて、その約束を励みに勉強をがんばったから。それを三智に報告したら「映画のついでに告ってこいよ」なんて無理難題をふっかけてきた。もちろんそんな勇気はない。
すれ違わないように、今日はちゃんと南広場で待ち合わせ。待ち合わせ場所の小さな噴水前まで行くと、鼓くんがもうそこにいた。髪が伸び、後ろで一つにまとめて結っている。根元は黒くなってプリン頭になっていた。
「お待たせ」
「全然待ってないです」
「髪、くくってきたんだ?」
「暑くてうっとうしかったんで」
「小鳥のしっぽみたいでかわいいね」
「あ……そうですか」
照れたように笑って、結った髪の先にちょんと触れた。かわいい。
映画館に行ってチケットを買い、飲み物とポップコーンも買った。白い封筒に入っている残金は七千円くらい。もしこのお金が無くなってしまったら、二人ででかける理由もなくなってしまうんだろうか。
「先輩、こっちです」
そんなことをぼんやり考えていたら座席を間違えてしまい、慌てて立ち上がって鼓の方へ移動した。
今日見るのはホラー映画だ。鼓はアクション、俺はミステリーが見たかったんだけど、二つともいいのがなくて、消去法でホラーになった。ホラーは少し苦手だけど、この映画は話題になっていたから怖いもの見たさで挑戦することにした。が、開始十分で後悔した。突然不気味な効果音が鳴ったり、呻き声が聞こえたり、人形が動いたり。ホラーだからしかたないんだけど、五感で感じる全てのものに恐怖を感じ、最終的には鼓くんの手を握りしめてずっと目を閉じていた。そしてオチがよくわからないままふらふらと映画館を出た。外界の明るさと暑さに目が眩み、身体がよろけたところを鼓くんが支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。ちょっと立ち眩みしただけ。大丈夫」
「休みましょ」
「いや、本当に大丈夫だから」
「俺が、大丈夫じゃないです。腕、つかんでてくださいね」
そう言って、俺を気遣ってくれる。本当に優しい。そっと腕につかまらせてもらってゆっくりと並んで歩く。距離が近い分少しドキドキする。見上げていると、心配そうにこっちをみる鼓くんと目が合って、慌てて下を向いた。
「ここ、入ります?」
すぐ近くにカフェがあり、そこに入ろうとする鼓くんの腕をぎゅっとつかんだ。
「……えっと、外の方がいいかも」
「え、暑くないですか?」
「あ、だよね……」
「じゃあ、少し歩くけどいいですか?」
頷いて、歩く鼓くんについていくと、待ち合わせ場所の南広場の噴水前に着いた。ここなら常に水が流れているし、周りに植えられている木が影になるので少しは涼しい。鼓くんは俺を噴水の縁に座らせると自販機で水を買ってきた。わざわざペットボトルのフタを開けてから、水を俺に差し出す。気遣いがすごい。
「ありがとう」
水を口に含むと喉が潤って少し楽になった。
「今度は先輩がみたがってたミステリーにしましょうね」
「え?」
鼓くんから出た言葉が意外だったので聞き返してしまった。
「アクションの方がいいですか?」
「あ、じゃなくって、また俺と映画みてくれるの?」
あんまり覚えてないけど、びくびくしたり声を上げたり手を握ったり、映画鑑賞中の俺はかなり挙動不審だったと思う。こんな奴が隣にいて、鼓くんは集中できなかっただろうに。
「え、あ……先輩がいやじゃなければ」
「いやじゃない、うれしいよ……でも、迷惑かけちゃうかもだし」
「迷惑なんかじゃないです。怖がってる先輩かわいかったし、手を握ってくれてうれしかったし……まぁ映画には集中できなかったっすけど」
「だよね、本当にごめんなさい」
「いやいや、むしろ距離が縮まってうれしかったんで、いつでもどんどん握ってください」
笑顔で、少し汗ばんだ手を差し出してきた。差し出された鼓くんの手と優しく穏やかに笑っている顔を交互に見て、おもわず笑ってしまった。鼓くんは慌ててズボンで手のひらを拭いて、再び手を差し出す。俺はその手をそっと握って「ありがとう」と伝えた。鼓くんは満足気に頷いて頬を緩ませる。
「先輩はいつも口癖みたいに”大丈夫”って言いますけど、大丈夫じゃないですよね?」
「え、そんなにいつも言ってる?」
「言ってます。だから、俺の前では”大丈夫”禁止です」
「禁止……」
「迷惑かけちゃうかもとか、遠慮するのもなしですよ? 後輩だから頼りないかもしれないですけど、たくさんわがまま言ってください。先輩に頼られるような男になりたいんで」
鼓くんはどうして、こんなにも俺のことを気にかけてくれるんだろう。メガネを壊してしまった罪悪感にしてはちょっと重い気がする。理由を、聞いてもいいのだろうか。
「あのさ、前に聞きそびれたんだけどーー」
話を切り出した途端「なんですか? なんでも聞いてください」と目をキラキラさせて距離をつめてきた。ドキドキするから不用意に近づかないでほしい。少し、鼓くんから距離を取ってゴホンと咳払いする。たぶん、鼓くんが期待しているような話題ではないことに申し訳なく思いながら、俺は口を開いた。
「どうして俺にこんなに優しくしてくれるの?」
「あー……」
鼓くんは視線を下げてなにか考えているようだ。言いにくいことだったのだろうか。
「えっと、言いづらかったら無理に話さなくていいからね」
鼓くんはふるふると首を振り、スッと顔を上げる。
「長くなっちゃうけどいいですか?」
俺は鼓くんの目を見てしっかりと頷いた。鼓くんは噴水の縁に姿勢を正して座り直す。
「入学試験の日に受験票忘れて、廊下でパニックになってたんですよね。そしたら、通りかかった先輩が声をかけてくれて、もう神様だと思って、半泣きで事情を説明したら、職員室まで連れてってくれて。先生に説明してくれて、おかげで試験受けられたんですよ。付き添ってくれてる間もずっと励ましてくれて、俺すげー心強かったんです」
そういえば思い出した。入試の日、風紀委員として案内係をしてたんだっけ。その時に廊下でおろおろしてる受験生がいて声をかけたんだった。あの子が鼓くんだったのか。
「合格したらお礼を言いに行こうって決めてたのに、名前も学年もわからなくて、どうやって探そうかと思ってたら、最悪の再会を果たしちゃったんですよ」
「メガネ?」
「そうです。お礼を言うはずが迷惑かけちゃって」
「でもさ、そのおかげで今こうして一緒にいられるんだから、俺はうれしいよ」
「……先輩」
鼓くんが黙り込んで下を向いてしまった。また俺は変なことを口走ったかもしれない。
「あの、ごめんね。変なこと言っーー」
「黒実先輩」
「は、はい」
鼓くんが急に顔を上げたことに驚いて、反射的にかしこまった返事をしてしまった。
「好きです。つき合ってください」
え……?
突然のことに頭が追いつかず、理解するのに数秒かかった。意味がわかった途端、顔に熱が集まって鼓動が早くなる。鼓くんからの熱い視線に耐えられなくて下を向いた。
「急にこんなこと言われても困りますよね……すみません」
なにか言わなきゃと思うのに、首を振るだけで精一杯。鼓くんも落ち着きなく手を閉じたり開いたりしている。俺は最初から無理だと告白するのを諦めていたのに、鼓くんはまっすぐに気持ちを伝えてくれた。きっとすごく緊張しただろうし、今だって不安でいっぱいだと思う。ぎゅっと握りこんでいる鼓くんの手に、そっと自分のを重ねた。息を吐いて顔を上げる。不安気に眉を下げている鼓くんをじっと見上げる。
「俺も……俺も、好きです」
驚いて目を見開いている。
「え、まじですか?」
ゆるみそうになる口元をきゅっと引き結びうんうんと頷くと、鼓くんの表情がぱああと明るくなって目元と口元がゆるんでいく。
「夢じゃないですよね?」
「うん、たぶん……」
「黒実先輩?」
「うん?」
「抱きしめてもいいですか?」
「え?」
俺の返事を待たずにそっと背中に腕が回って抱き寄せられた。びっくりして身体が固まってしまった。
「やばい、幸せすぎる」
「……うん」
耳元で聞こえる鼓くんのうれしそうな声。俺もじわじわと幸せを実感して、胸の奥をつかまれたみたいに痛み出す。
「先輩?」
「ん?」
「キスしてもいいですか?」
「……え?」
おずおずと鼓くんの背中に腕を回そうとしたら、予想外のことを聞かれてまた身体が固まってしまった。
「黒実先輩?」
腕を解いた鼓くんは、俺の顎に手を添えて上を向かせる。
(え、ちょっと、さすがにそれは……)
そしてゆっくりと顔が近づいて……
「っ、ごめん」
なんとか絞り出した声に鼓くんの動きが止まってそっと俺を解放してくれた。
「……すみません、調子にのりました」
目の前で手を合わせて頭を下げる鼓くん。俺はこの急展開についていけてない頭と身体を落ち着けるため、胸を撫でおろして息を吐き、さっきの水をひとくち飲んだ。七月の晴れの日の午後、ただでさえ暑いのに胸がドキドキすることが何度も起きたせいで余計に汗をかいてしまった。まだ手を合わせている鼓くんも汗だくだ。カバンからタオルを取り出して、鼓くんの額にそっとあてる。
「したくないわけじゃないんだよ。まだ、心の準備ができてないっていうか……人もたくさんいるし……」
「そうですよね。本当にすみません」
反省しているようで、しゅんと肩を落とす鼓くん。俺の手からタオルを取って、今度は俺の顔や首にかいた汗をそっと拭ってくれる。
「なんか俺ばっかりわがまま言ってますね。先輩もなんでも言ってくださいね」
「じゃあ……もう少し、もう少しだけ一緒にいたい」
「は?」
「え?……だめだった? この後用事ある?」
「いや、あの……」
胸を押さえて下を向いてしまった。やっぱりこの後予定があるんだろうな。鼓くんは優しいからはっきり断れないんだ。
「無理だったら全然いいからね」
小さくため息をついてからゆっくりと顔を上げる。暑さのせいなのか、ほんのりと頬が赤い。
「先輩かわいすぎ、反則です」
時々、俺のことをかわいいと言ってくれるけど、どう受け取っていいのかわからない。鼓くんのことだから好意的な意味なんだろうけど、自分とかわいいが結びつかなくて困惑してしまう。反応に困っていると、鼓くんが穏やかに笑って口を開いた。
「先輩の時間が許す限りいつまでも一緒にいます。身体の方はもう大丈夫ですか?」
そういえば、めまいがして休憩してるんだった。忘れてた。
「涼しいとこいきましょ。立てますか?」
差し出された手をおずおずと握ると、引っ張って立たせてくれた。鼓くんは手をつないだまま、ゆっくりと歩き出す。距離が縮まったみたいでうれしい。でもちょっと恥ずかしい。恥ずかしいけど離したくない。
つながれた手をみつめながら頭の中でぐるぐる葛藤していると、急に鼓くんが立ち止まった。じっと俺の顔を覗き込む。
「メガネ邪魔になるかな?」
「え?」
「キスするときです」
途端に顔が熱くなって鼓くんから顔をそらす。俺は手をつなげたことにしみじみと幸せを感じていたのに、鼓くんはもう次のキスのことを考えている。余裕そうなにこやかな笑顔に腹が立って、つないでいる手にぎゅっと力を込めた。
「先輩の心の準備ができたら試してみましょうね」
「……」
「黒実先輩?」
「しらない、バカ」
鼓くんに対して、初めてついた悪態に焦りつつもどこかうれしそうで。俺も怒っているのに手はつないだままで、並んでゆっくりと歩いた。
すれ違わないように、今日はちゃんと南広場で待ち合わせ。待ち合わせ場所の小さな噴水前まで行くと、鼓くんがもうそこにいた。髪が伸び、後ろで一つにまとめて結っている。根元は黒くなってプリン頭になっていた。
「お待たせ」
「全然待ってないです」
「髪、くくってきたんだ?」
「暑くてうっとうしかったんで」
「小鳥のしっぽみたいでかわいいね」
「あ……そうですか」
照れたように笑って、結った髪の先にちょんと触れた。かわいい。
映画館に行ってチケットを買い、飲み物とポップコーンも買った。白い封筒に入っている残金は七千円くらい。もしこのお金が無くなってしまったら、二人ででかける理由もなくなってしまうんだろうか。
「先輩、こっちです」
そんなことをぼんやり考えていたら座席を間違えてしまい、慌てて立ち上がって鼓の方へ移動した。
今日見るのはホラー映画だ。鼓はアクション、俺はミステリーが見たかったんだけど、二つともいいのがなくて、消去法でホラーになった。ホラーは少し苦手だけど、この映画は話題になっていたから怖いもの見たさで挑戦することにした。が、開始十分で後悔した。突然不気味な効果音が鳴ったり、呻き声が聞こえたり、人形が動いたり。ホラーだからしかたないんだけど、五感で感じる全てのものに恐怖を感じ、最終的には鼓くんの手を握りしめてずっと目を閉じていた。そしてオチがよくわからないままふらふらと映画館を出た。外界の明るさと暑さに目が眩み、身体がよろけたところを鼓くんが支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。ちょっと立ち眩みしただけ。大丈夫」
「休みましょ」
「いや、本当に大丈夫だから」
「俺が、大丈夫じゃないです。腕、つかんでてくださいね」
そう言って、俺を気遣ってくれる。本当に優しい。そっと腕につかまらせてもらってゆっくりと並んで歩く。距離が近い分少しドキドキする。見上げていると、心配そうにこっちをみる鼓くんと目が合って、慌てて下を向いた。
「ここ、入ります?」
すぐ近くにカフェがあり、そこに入ろうとする鼓くんの腕をぎゅっとつかんだ。
「……えっと、外の方がいいかも」
「え、暑くないですか?」
「あ、だよね……」
「じゃあ、少し歩くけどいいですか?」
頷いて、歩く鼓くんについていくと、待ち合わせ場所の南広場の噴水前に着いた。ここなら常に水が流れているし、周りに植えられている木が影になるので少しは涼しい。鼓くんは俺を噴水の縁に座らせると自販機で水を買ってきた。わざわざペットボトルのフタを開けてから、水を俺に差し出す。気遣いがすごい。
「ありがとう」
水を口に含むと喉が潤って少し楽になった。
「今度は先輩がみたがってたミステリーにしましょうね」
「え?」
鼓くんから出た言葉が意外だったので聞き返してしまった。
「アクションの方がいいですか?」
「あ、じゃなくって、また俺と映画みてくれるの?」
あんまり覚えてないけど、びくびくしたり声を上げたり手を握ったり、映画鑑賞中の俺はかなり挙動不審だったと思う。こんな奴が隣にいて、鼓くんは集中できなかっただろうに。
「え、あ……先輩がいやじゃなければ」
「いやじゃない、うれしいよ……でも、迷惑かけちゃうかもだし」
「迷惑なんかじゃないです。怖がってる先輩かわいかったし、手を握ってくれてうれしかったし……まぁ映画には集中できなかったっすけど」
「だよね、本当にごめんなさい」
「いやいや、むしろ距離が縮まってうれしかったんで、いつでもどんどん握ってください」
笑顔で、少し汗ばんだ手を差し出してきた。差し出された鼓くんの手と優しく穏やかに笑っている顔を交互に見て、おもわず笑ってしまった。鼓くんは慌ててズボンで手のひらを拭いて、再び手を差し出す。俺はその手をそっと握って「ありがとう」と伝えた。鼓くんは満足気に頷いて頬を緩ませる。
「先輩はいつも口癖みたいに”大丈夫”って言いますけど、大丈夫じゃないですよね?」
「え、そんなにいつも言ってる?」
「言ってます。だから、俺の前では”大丈夫”禁止です」
「禁止……」
「迷惑かけちゃうかもとか、遠慮するのもなしですよ? 後輩だから頼りないかもしれないですけど、たくさんわがまま言ってください。先輩に頼られるような男になりたいんで」
鼓くんはどうして、こんなにも俺のことを気にかけてくれるんだろう。メガネを壊してしまった罪悪感にしてはちょっと重い気がする。理由を、聞いてもいいのだろうか。
「あのさ、前に聞きそびれたんだけどーー」
話を切り出した途端「なんですか? なんでも聞いてください」と目をキラキラさせて距離をつめてきた。ドキドキするから不用意に近づかないでほしい。少し、鼓くんから距離を取ってゴホンと咳払いする。たぶん、鼓くんが期待しているような話題ではないことに申し訳なく思いながら、俺は口を開いた。
「どうして俺にこんなに優しくしてくれるの?」
「あー……」
鼓くんは視線を下げてなにか考えているようだ。言いにくいことだったのだろうか。
「えっと、言いづらかったら無理に話さなくていいからね」
鼓くんはふるふると首を振り、スッと顔を上げる。
「長くなっちゃうけどいいですか?」
俺は鼓くんの目を見てしっかりと頷いた。鼓くんは噴水の縁に姿勢を正して座り直す。
「入学試験の日に受験票忘れて、廊下でパニックになってたんですよね。そしたら、通りかかった先輩が声をかけてくれて、もう神様だと思って、半泣きで事情を説明したら、職員室まで連れてってくれて。先生に説明してくれて、おかげで試験受けられたんですよ。付き添ってくれてる間もずっと励ましてくれて、俺すげー心強かったんです」
そういえば思い出した。入試の日、風紀委員として案内係をしてたんだっけ。その時に廊下でおろおろしてる受験生がいて声をかけたんだった。あの子が鼓くんだったのか。
「合格したらお礼を言いに行こうって決めてたのに、名前も学年もわからなくて、どうやって探そうかと思ってたら、最悪の再会を果たしちゃったんですよ」
「メガネ?」
「そうです。お礼を言うはずが迷惑かけちゃって」
「でもさ、そのおかげで今こうして一緒にいられるんだから、俺はうれしいよ」
「……先輩」
鼓くんが黙り込んで下を向いてしまった。また俺は変なことを口走ったかもしれない。
「あの、ごめんね。変なこと言っーー」
「黒実先輩」
「は、はい」
鼓くんが急に顔を上げたことに驚いて、反射的にかしこまった返事をしてしまった。
「好きです。つき合ってください」
え……?
突然のことに頭が追いつかず、理解するのに数秒かかった。意味がわかった途端、顔に熱が集まって鼓動が早くなる。鼓くんからの熱い視線に耐えられなくて下を向いた。
「急にこんなこと言われても困りますよね……すみません」
なにか言わなきゃと思うのに、首を振るだけで精一杯。鼓くんも落ち着きなく手を閉じたり開いたりしている。俺は最初から無理だと告白するのを諦めていたのに、鼓くんはまっすぐに気持ちを伝えてくれた。きっとすごく緊張しただろうし、今だって不安でいっぱいだと思う。ぎゅっと握りこんでいる鼓くんの手に、そっと自分のを重ねた。息を吐いて顔を上げる。不安気に眉を下げている鼓くんをじっと見上げる。
「俺も……俺も、好きです」
驚いて目を見開いている。
「え、まじですか?」
ゆるみそうになる口元をきゅっと引き結びうんうんと頷くと、鼓くんの表情がぱああと明るくなって目元と口元がゆるんでいく。
「夢じゃないですよね?」
「うん、たぶん……」
「黒実先輩?」
「うん?」
「抱きしめてもいいですか?」
「え?」
俺の返事を待たずにそっと背中に腕が回って抱き寄せられた。びっくりして身体が固まってしまった。
「やばい、幸せすぎる」
「……うん」
耳元で聞こえる鼓くんのうれしそうな声。俺もじわじわと幸せを実感して、胸の奥をつかまれたみたいに痛み出す。
「先輩?」
「ん?」
「キスしてもいいですか?」
「……え?」
おずおずと鼓くんの背中に腕を回そうとしたら、予想外のことを聞かれてまた身体が固まってしまった。
「黒実先輩?」
腕を解いた鼓くんは、俺の顎に手を添えて上を向かせる。
(え、ちょっと、さすがにそれは……)
そしてゆっくりと顔が近づいて……
「っ、ごめん」
なんとか絞り出した声に鼓くんの動きが止まってそっと俺を解放してくれた。
「……すみません、調子にのりました」
目の前で手を合わせて頭を下げる鼓くん。俺はこの急展開についていけてない頭と身体を落ち着けるため、胸を撫でおろして息を吐き、さっきの水をひとくち飲んだ。七月の晴れの日の午後、ただでさえ暑いのに胸がドキドキすることが何度も起きたせいで余計に汗をかいてしまった。まだ手を合わせている鼓くんも汗だくだ。カバンからタオルを取り出して、鼓くんの額にそっとあてる。
「したくないわけじゃないんだよ。まだ、心の準備ができてないっていうか……人もたくさんいるし……」
「そうですよね。本当にすみません」
反省しているようで、しゅんと肩を落とす鼓くん。俺の手からタオルを取って、今度は俺の顔や首にかいた汗をそっと拭ってくれる。
「なんか俺ばっかりわがまま言ってますね。先輩もなんでも言ってくださいね」
「じゃあ……もう少し、もう少しだけ一緒にいたい」
「は?」
「え?……だめだった? この後用事ある?」
「いや、あの……」
胸を押さえて下を向いてしまった。やっぱりこの後予定があるんだろうな。鼓くんは優しいからはっきり断れないんだ。
「無理だったら全然いいからね」
小さくため息をついてからゆっくりと顔を上げる。暑さのせいなのか、ほんのりと頬が赤い。
「先輩かわいすぎ、反則です」
時々、俺のことをかわいいと言ってくれるけど、どう受け取っていいのかわからない。鼓くんのことだから好意的な意味なんだろうけど、自分とかわいいが結びつかなくて困惑してしまう。反応に困っていると、鼓くんが穏やかに笑って口を開いた。
「先輩の時間が許す限りいつまでも一緒にいます。身体の方はもう大丈夫ですか?」
そういえば、めまいがして休憩してるんだった。忘れてた。
「涼しいとこいきましょ。立てますか?」
差し出された手をおずおずと握ると、引っ張って立たせてくれた。鼓くんは手をつないだまま、ゆっくりと歩き出す。距離が縮まったみたいでうれしい。でもちょっと恥ずかしい。恥ずかしいけど離したくない。
つながれた手をみつめながら頭の中でぐるぐる葛藤していると、急に鼓くんが立ち止まった。じっと俺の顔を覗き込む。
「メガネ邪魔になるかな?」
「え?」
「キスするときです」
途端に顔が熱くなって鼓くんから顔をそらす。俺は手をつなげたことにしみじみと幸せを感じていたのに、鼓くんはもう次のキスのことを考えている。余裕そうなにこやかな笑顔に腹が立って、つないでいる手にぎゅっと力を込めた。
「先輩の心の準備ができたら試してみましょうね」
「……」
「黒実先輩?」
「しらない、バカ」
鼓くんに対して、初めてついた悪態に焦りつつもどこかうれしそうで。俺も怒っているのに手はつないだままで、並んでゆっくりと歩いた。



