翌日から、鼓くんが2年の教室まで来ることはなくなった。朝、俺が風紀検査の当番の日は挨拶をして少し雑談する。日中は、移動教室などでみかければ手を振ってくる(これはこれで少し恥ずかしい)。放課後はタイミングが合えば駅まで一緒に帰る。こんな感じだ。鼓くんなりに考えて距離を取ってくれてるんだと思う。やっぱり優しい子だ。これくらいの距離感なら安心して俺も彼に心を開ける、と思う。少しずつ、少しずつ。
4時間目、現国の時間。川端康成の雪国の冒頭がいかに素晴らしいか、と先生が熱弁している。ふと、窓の外を見上げると、ぷかぷか浮かぶ雲が目に留まった。メロンパンみたいでおいしそうだなと考えていたら、視界の端でぶんぶん手を振る人が目に入った。遠目からでもわかる、あの背が高い金髪の男子は……
「鼓くん……?」
体育の授業中だろう。ジャージ姿で、グラウンドから2階の窓際の席に座る俺に向かって大きく手を振っている。
(あんな遠くから俺のことみえてるの? 視力よすぎ)
板書をしている先生の後姿を確認してから、目立たないように小さく小さく手を振り返してみた。こちらに気づいたのか、ぴょんぴょんジャンプしながら先ほどより大きく手を振っている。
(かわいいな。本当に犬みたい)
大きすぎるアクションをしていたせいで体育の先生に頭を小突かれ、首根っこを引っ張られてグラウンドの真ん中まで連れていかれた。
「ふふっ……」
思わず頬が緩む。ゴホンッと咳払いが聞こえて顔を上げると先生がじっとこちらをみていた。慌てて教科書に視線を移す。
(やばい、夢中でみてしまった……)
先生が黒板に向き合ったことを確認して、またグラウンドに視線を移す。金髪を振り乱して、やっぱり犬みたいにサッカーボールを追いかけていた。
昼休み、机の上に弁当を広げる。しばらくすると前の席の三智が振り返って、同じように弁当を広げた。
「なぁ、さっきさ、ワンコとやり取りしてた?」
「やり取りって……グラウンドから手を振ってきたから振り返しただけ」
「いつの間にそんな仲良くなってんだよ。つか、ワンコ視力よすぎ」
「ふっ、だよね」
三智も同じことを思っていたのがおかしくて、口に運ぼうとした卵焼きを一旦弁当箱に戻し、手を振っている鼓くんのことを思い浮かべる。
「なにニヤニヤしてんの」
「え、べつに……」
三智に指摘されてあわてて卵焼きを口に放り込んだ。
「黒実せんぱーい!」
突然聞こえてきた鼓くんの声に驚いて、卵焼きがのどに詰まった。三智に背中を叩いてもらい、なんとか卵焼きを飲み込んで、鼓くんが待っている教室の後ろ戸にいく。
「どうしたの?」
「大丈夫ですか? なんか喉につまったんですか?」
「え、あぁ~大丈夫、大丈夫。それより、なにか用事?」
鼓くんが2年の教室までやってくるのは、メガネを壊した日以来、一週間ぶりだった。
「これ…」と胸元から出てきたものは白い封筒。
「メガネの弁償代です。遅くなってすみません」
ガバッと勢いよく頭をさげながら封筒が差し出される。びっくりして頭を上げるように促すと、ゆっくりと顔を上げた。申し訳なさそうに眉が下がっている。
どうしよう、受け取ったほうがいいのだろうか。せっかく持ってきてくれたんだし……いやでも、やっぱりなんか申し訳ない。
「あの、本当に気にしないで? メガネなくても大丈夫だし」
「だめです。大丈夫じゃないです」
封筒をずっと差し出したままでふるふると首を振る。
「もらっときゃいーじゃん。有磨が受け取ることでそいつの罪悪感が消えるんだからさ、楽にしてやれよ」
三智だ。背後から声をかけたかと思えば、前の戸から廊下へ出て行ってしまった。
確かに……俺がここで受け取らなかったら鼓くんは俺に対してずっと罪悪感を抱いたままになってしまう……かもしれない。それはそれでかわいそうだ。
「じゃあーー」
封筒を受け取ろうと手を伸ばすも、なぜかスッと引っ込められてしまった。
「俺が楽になるためじゃないです。まぁ、結果的にはそうなんだけど。黒実先輩には、なんていうか、快適に過ごしてほしいというか……笑っていてほしいというか……うまく言えないんですけど、幸せでいてほしいんです」
まっすぐな鼓くんの視線から目が離せない。他人からこんなに見つめられたことはないし、想われたこともない。恥ずかしいのとうれしいのが混ざって顔が熱くなっていく。
「えっと……」
心を落ち着けようとごくりと喉を鳴らすが、あまり効果はなく、鼓くんからの熱い視線に耐えられなくて下を向いた。
「ありがとう……なんで俺のことそんなに考えてくれるの?」
「それはーー」
「まだやってんのかよ。昼休みおわるぞ」
教室に戻ってきた三智に言われて、慌てて黒板の上の時計を確認するとあと十分でチャイムが鳴る時間になっていた。
(うわ! まだ弁当残ってるのに)
鼓くんがすみませんと頭を下げて、封筒を差し出す。それをおずおずと受け取ると、安心したように息を吐いて「ありがとうございました、失礼します」と廊下を走っていった。
土曜日の午前10時、俺は駅前の広場でため息を吐いた。行き交う人々はみな、休日の外出に胸を弾ませている……ようにみえる。少なくとも、俺みたいに緊張でガチガチになってる人はいないだろう。なぜこんなところにいるかというと、時は3日前にさかのぼる。
メガネの弁償代を受け取り、中身を確認すると一万円札が5枚も入っていた。俺のメガネは3枚で事足りる。2枚余ってしまうので鼓くんに返そうとしたけれど受け取ってくれない。どうしようと困っていたら、「二人で遊びにでもいけば?」と三智が余計な口出しをしてきた。その時、鼓くんの表情がぱああと明るくなって見えないしっぽがぶんぶん揺れていた。俺はおもわず、「行く?」と鼓くんに聞いてしまい、鼓くんは首がもげるんじゃないかと思うほど何度も頷いた。
そして土曜日の10時に駅前広場に集合と待ち合わせの約束をした。約束をしてから後悔した。家族や三智以外の人と出かけるのが初めてだし、相手は知り合ったばかりの後輩だし。どんな話をしようとか、失礼のないようにしなきゃとか、迷惑かけないようにしっかりしなきゃとか、考えていたら憂鬱になって出かけるのが不安になってきたのだ。だけど、あんなにうれしそうにしている鼓くんをみてしまったら行きたくないなんて言えない。三智についてきてもらおうとも思ったけれど、三智と鼓くんは合わなさそうだし、三智に迷惑ばかりかけられない。
「はぁ~」
本日二度目のため息を吐き、スマホを確認した。10時10分、集合時間は過ぎている。遅刻魔だから遅れてくるかもしれないと予想はしていたからもう少しここで待つことにした。
ーー5分経過、まだ鼓くんの姿は見えない。ただの遅刻ならいいけど、なにか事件や事故に巻き込まれていたら……。不安になって辺りを見回しながら歩く。駅構内を通り、南口へ行こうとしたらーー
「黒実先輩!?」
金髪をきらきらと揺らしてこちらに駆けてくる。その姿をみてホッと胸をなでおろす。
「よかったー! 会えた! もしかして北口にいました?」
「うん。あっ、南口で待ってた?」
「すみません、南口の広場にいました」
「ううん、こっちこそごめん。ちゃんと北口って伝えてなくて」
「いやいや、合流できてよかったです」
早速やらかしてしまった。遅刻してると思ってごめんなさい。
「先輩と出かけるのめちゃくちゃ楽しみにしてて、昨日の夜寝れなかったです」
「遠足前の小学生みたいだね」
「そんな感じで、ずっと寝返り打ってました」
「なんか想像つく」
アーモンド型の目は緩く弧を描き、ニッと口角が上がってえくぼができている。こんなに眩しい笑顔を目の当りにしたら「俺は不安で寝れなかったよ」なんて口が裂けても言えない。
「じゃあ行きましょうか、メガネ屋さん」
「うん、そうだね」
今日の予定は、俺のメガネを買って映画をみて少し遅めの昼食を食べてから解散。4~5時間はかかるとみた。大丈夫かな。やっぱり不安だ。
「先輩はいつからメガネかけてるんですか?」
「かけ始めたのは2年になってからだから、最近かな」
「やっぱそうですよね。あの時はかけてなかったから、それでわかんなかったのか」
「あの時?」
「あ、いや、なんでもないです。作ったばっかのメガネ壊しちゃって本当にすみません」
「大丈夫だから、気にしないで」
駅から続く商店街にあるメガネ屋に入る。先客が何組かいたので、先にフレームを選ぶことにした。特にこだわりもないので、適当に手に取ってかけてみるけど似合っているのかわからない。鼓くんに聞いてみると
「先輩はどれかけても似合うけど、先輩のかわいい顔を引き立たせるならこれですかね」
レンズの上部が目立つフレームだがすっきりとしている。ボストンタイプというやつらしい。なんかおしゃれだ。前回選んだものは縦幅が短い楕円形のフレーム(かしこそうに見える)だったから、それと比べるとカジュアルでかわいらしい感じがする。
(なんで俺のことかわいいって思ってるんだろう?)
「うん、じゃあこれにする」
「えぇ!? 即決!? そんな決め方でいいんですか!?」
「いっぱいありすぎてよくわかんないから」
「俺が選んだやつにしてくれたのはうれしいんですけど、こだわりとか好みとか……」
「メガネなんて見えればそれでいいから」
「そうですか……もしかして服もお母さんが選んでくれてたり……?」
「さすがにそれはないよ」
「ですよね~」
「あ、でも自分では選んでないかな。いつも三智が選んでくれるから」
「へぇ~みっちー先輩が……」
さっきまで驚いたり笑顔になったりと百面相していたのに急に真顔になってしまった。三智の名前を出したからだろうか。やっぱり鼓くんは三智のことをあまりよく思ってないらしい。
そうこうしている間に接客の順番がきて、視力を測定したりフレームやレンズの値段などを聞いているうちに1時間経ってしまった。一応、壊れたメガネのレンズをみてもらったけれど所々に小さな傷が付いていて再利用はできないとのことだった。
会計を済ませてメガネ屋を出る。メガネができあがるのはだいたい一週間後で、できあがり次第連絡をくれる。メガネなんてどれでもいいと思っていたけど、鼓くんが俺に似合っているものを選んでくれたから、できあがりが楽しみだ。
「けっこう時間かかっちゃってごめんね? 退屈だったでしょ?」
「全然。いろんなメガネみれて楽しかったです」
「それならよかった。じゃあ、映画館にーー」
「先輩……」
ピタッと足を止め、神妙な面持ちで声をかけてきた。何事かと身構えていると
「俺にも先輩の服、見立てさせてほしいです」
「うん?」
「あ、先輩が嫌じゃなければ、ですけど」
「うん、べつにいいけど」
「まじっすか! よっしゃー!」
満面の笑みである。鼓くんは服が好きなんだろうか。今日の服装は、濃いグレーのパーカーに白のワイドパンツでパーカーの裾からストライプのシャツがチラチラみえている。うん、なんかおしゃれだ。俺も黒のパーカーにデニムだけど、鼓くんと比べると子供っぽい(同じ服装でも背の高い三智が着るとおしゃれにみえる)。やっぱりスタイルがいいとどんな服でも着こなせるんだろうか。
そんなことを考えているうちにユニクロに着いて、早速服の見立てが始まった。俺がユニクロかGUでしか服を買ったことがないと言ったら、鼓くんが俺に合わせてくれた。
試着室で、鼓くんが選んでくれたものを片っ端から着ていく。普段、パーカーやTシャツしか着ないのでいろんな服が着れて新鮮だった。
「あ、これいいかも」
ネイビーの肌触りがいいテロンとしたシャツに、白っぽい色で縦線(タックというらしい)が入ったワイドパンツ。シャツなのに涼しくて着心地も楽だし、ワイドパンツも締め付けられないから楽だ。そして、ちんちくりんの俺がなぜかスタイルがよくみえる。
「いいすよね。大人っぽくてきれい目な感じ」
選んでくれた鼓くんも、鏡に映る俺を見てご満悦だ。
「シャツをインして少し出すと、足が長く見えます」
後ろから手が伸びて腹のあたりに触れられる。耳に吐息がかかり、距離の近さにドキッとした。
「先輩?」
顔を覗き込まれて、ますますドキドキしてしまう。
「ごめん、近くて、びっくりして……」
途端に俺から距離を取り、申し訳なさそうにペコペコと何度も頭を下げる。
「す、すみません! 勝手に先輩に触っちゃって」
「だ、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ」
「じゃあ、俺、あっちで待ってますね」
試着室のカーテンを閉めて行ってしまった。
「はぁ~」
本日三度目のため息。
(なんでこんなにドキドキしてるんだろう。やっぱり慣れない相手で緊張してるんだろうな)
着替えおわってさっきの二着を買い、ユニクロを出るころには12時半になっていた。俺のメガネに3枚、さっきの服で1枚。合わせて4枚の一万円札を使ってしまった。俺ばかりお金を使ってしまっているので申し訳なくて、残りの1枚は今度映画を見に行くときに使うことになった。服を買った時のおつりがいくらか残っているので、昼食はそれでまかなうことにした。コンビニで適当にからあげやらポテトやらを買って、駅前広場のベンチでそれをシェアし、今日は早めに解散することになった。俺が疲れた顔をしていたから、鼓くんが気遣ってくれたんだと思う。本当に優しい子だ。
「えっと、今日はありがとう。メガネと服、選んでもらって新鮮だった。メガネできあがるの楽しみだな」
「そう言ってもらえるとうれしいです。俺も、新しいメガネ姿の先輩、楽しみにしてます」
「うん。できたらみせにいくね」
「……っ、はい! ぜひぜひ!」
「じゃあ、また学校で」
「はい、学校で」
「あっ」
別れた直後だというのに踵を返して鼓くんの元へ戻る。おずおずとスマホを取り出すと、鼓くんもピンときたのかすぐにスマホを取り出した。
「やっぱり連絡取れないのは不便だよね」
「一昔前の人はこれが普通だったんですよね~」
「そっか。今じゃタップするだけで連絡できちゃうもんね」
「……うわ、そっか。これで先輩につながると思うと神々しいものにみえてきた」
「そんなおおげさな」
鼓くんが自分のスマホを崇めるように掲げているので、なかなか連絡先を交換できず、くわえて俺が操作にもたついたせいで時間がかかってしまった。
「じゃあ、今度こそ」
「はい、また学校で」
鼓くんの家と俺の家は反対方向なので、駅構内でわかれた。姿が見えなくなるまでずっと手を振っていて、その姿がかわいくて笑ってしまった。
エスカレーターを降りて駅のホームに着くと、ちょうど電車が到着したので慌ててそれに乗った。席が空いていたのでそこに座り、本日四度目のため息を吐く。
緊張したしめちゃくちゃ疲れたけど、鼓くんはやっぱりいい子で優しくてかわいい。メガネや服なんてなんでもいいと思っていたけど、俺のことを考えてちゃんと選んでくれたのは本当にうれしかった。少しだけ、世界が広がった気がする。大げさかもしれないけど。
(映画、楽しみだな~)
4時間目、現国の時間。川端康成の雪国の冒頭がいかに素晴らしいか、と先生が熱弁している。ふと、窓の外を見上げると、ぷかぷか浮かぶ雲が目に留まった。メロンパンみたいでおいしそうだなと考えていたら、視界の端でぶんぶん手を振る人が目に入った。遠目からでもわかる、あの背が高い金髪の男子は……
「鼓くん……?」
体育の授業中だろう。ジャージ姿で、グラウンドから2階の窓際の席に座る俺に向かって大きく手を振っている。
(あんな遠くから俺のことみえてるの? 視力よすぎ)
板書をしている先生の後姿を確認してから、目立たないように小さく小さく手を振り返してみた。こちらに気づいたのか、ぴょんぴょんジャンプしながら先ほどより大きく手を振っている。
(かわいいな。本当に犬みたい)
大きすぎるアクションをしていたせいで体育の先生に頭を小突かれ、首根っこを引っ張られてグラウンドの真ん中まで連れていかれた。
「ふふっ……」
思わず頬が緩む。ゴホンッと咳払いが聞こえて顔を上げると先生がじっとこちらをみていた。慌てて教科書に視線を移す。
(やばい、夢中でみてしまった……)
先生が黒板に向き合ったことを確認して、またグラウンドに視線を移す。金髪を振り乱して、やっぱり犬みたいにサッカーボールを追いかけていた。
昼休み、机の上に弁当を広げる。しばらくすると前の席の三智が振り返って、同じように弁当を広げた。
「なぁ、さっきさ、ワンコとやり取りしてた?」
「やり取りって……グラウンドから手を振ってきたから振り返しただけ」
「いつの間にそんな仲良くなってんだよ。つか、ワンコ視力よすぎ」
「ふっ、だよね」
三智も同じことを思っていたのがおかしくて、口に運ぼうとした卵焼きを一旦弁当箱に戻し、手を振っている鼓くんのことを思い浮かべる。
「なにニヤニヤしてんの」
「え、べつに……」
三智に指摘されてあわてて卵焼きを口に放り込んだ。
「黒実せんぱーい!」
突然聞こえてきた鼓くんの声に驚いて、卵焼きがのどに詰まった。三智に背中を叩いてもらい、なんとか卵焼きを飲み込んで、鼓くんが待っている教室の後ろ戸にいく。
「どうしたの?」
「大丈夫ですか? なんか喉につまったんですか?」
「え、あぁ~大丈夫、大丈夫。それより、なにか用事?」
鼓くんが2年の教室までやってくるのは、メガネを壊した日以来、一週間ぶりだった。
「これ…」と胸元から出てきたものは白い封筒。
「メガネの弁償代です。遅くなってすみません」
ガバッと勢いよく頭をさげながら封筒が差し出される。びっくりして頭を上げるように促すと、ゆっくりと顔を上げた。申し訳なさそうに眉が下がっている。
どうしよう、受け取ったほうがいいのだろうか。せっかく持ってきてくれたんだし……いやでも、やっぱりなんか申し訳ない。
「あの、本当に気にしないで? メガネなくても大丈夫だし」
「だめです。大丈夫じゃないです」
封筒をずっと差し出したままでふるふると首を振る。
「もらっときゃいーじゃん。有磨が受け取ることでそいつの罪悪感が消えるんだからさ、楽にしてやれよ」
三智だ。背後から声をかけたかと思えば、前の戸から廊下へ出て行ってしまった。
確かに……俺がここで受け取らなかったら鼓くんは俺に対してずっと罪悪感を抱いたままになってしまう……かもしれない。それはそれでかわいそうだ。
「じゃあーー」
封筒を受け取ろうと手を伸ばすも、なぜかスッと引っ込められてしまった。
「俺が楽になるためじゃないです。まぁ、結果的にはそうなんだけど。黒実先輩には、なんていうか、快適に過ごしてほしいというか……笑っていてほしいというか……うまく言えないんですけど、幸せでいてほしいんです」
まっすぐな鼓くんの視線から目が離せない。他人からこんなに見つめられたことはないし、想われたこともない。恥ずかしいのとうれしいのが混ざって顔が熱くなっていく。
「えっと……」
心を落ち着けようとごくりと喉を鳴らすが、あまり効果はなく、鼓くんからの熱い視線に耐えられなくて下を向いた。
「ありがとう……なんで俺のことそんなに考えてくれるの?」
「それはーー」
「まだやってんのかよ。昼休みおわるぞ」
教室に戻ってきた三智に言われて、慌てて黒板の上の時計を確認するとあと十分でチャイムが鳴る時間になっていた。
(うわ! まだ弁当残ってるのに)
鼓くんがすみませんと頭を下げて、封筒を差し出す。それをおずおずと受け取ると、安心したように息を吐いて「ありがとうございました、失礼します」と廊下を走っていった。
土曜日の午前10時、俺は駅前の広場でため息を吐いた。行き交う人々はみな、休日の外出に胸を弾ませている……ようにみえる。少なくとも、俺みたいに緊張でガチガチになってる人はいないだろう。なぜこんなところにいるかというと、時は3日前にさかのぼる。
メガネの弁償代を受け取り、中身を確認すると一万円札が5枚も入っていた。俺のメガネは3枚で事足りる。2枚余ってしまうので鼓くんに返そうとしたけれど受け取ってくれない。どうしようと困っていたら、「二人で遊びにでもいけば?」と三智が余計な口出しをしてきた。その時、鼓くんの表情がぱああと明るくなって見えないしっぽがぶんぶん揺れていた。俺はおもわず、「行く?」と鼓くんに聞いてしまい、鼓くんは首がもげるんじゃないかと思うほど何度も頷いた。
そして土曜日の10時に駅前広場に集合と待ち合わせの約束をした。約束をしてから後悔した。家族や三智以外の人と出かけるのが初めてだし、相手は知り合ったばかりの後輩だし。どんな話をしようとか、失礼のないようにしなきゃとか、迷惑かけないようにしっかりしなきゃとか、考えていたら憂鬱になって出かけるのが不安になってきたのだ。だけど、あんなにうれしそうにしている鼓くんをみてしまったら行きたくないなんて言えない。三智についてきてもらおうとも思ったけれど、三智と鼓くんは合わなさそうだし、三智に迷惑ばかりかけられない。
「はぁ~」
本日二度目のため息を吐き、スマホを確認した。10時10分、集合時間は過ぎている。遅刻魔だから遅れてくるかもしれないと予想はしていたからもう少しここで待つことにした。
ーー5分経過、まだ鼓くんの姿は見えない。ただの遅刻ならいいけど、なにか事件や事故に巻き込まれていたら……。不安になって辺りを見回しながら歩く。駅構内を通り、南口へ行こうとしたらーー
「黒実先輩!?」
金髪をきらきらと揺らしてこちらに駆けてくる。その姿をみてホッと胸をなでおろす。
「よかったー! 会えた! もしかして北口にいました?」
「うん。あっ、南口で待ってた?」
「すみません、南口の広場にいました」
「ううん、こっちこそごめん。ちゃんと北口って伝えてなくて」
「いやいや、合流できてよかったです」
早速やらかしてしまった。遅刻してると思ってごめんなさい。
「先輩と出かけるのめちゃくちゃ楽しみにしてて、昨日の夜寝れなかったです」
「遠足前の小学生みたいだね」
「そんな感じで、ずっと寝返り打ってました」
「なんか想像つく」
アーモンド型の目は緩く弧を描き、ニッと口角が上がってえくぼができている。こんなに眩しい笑顔を目の当りにしたら「俺は不安で寝れなかったよ」なんて口が裂けても言えない。
「じゃあ行きましょうか、メガネ屋さん」
「うん、そうだね」
今日の予定は、俺のメガネを買って映画をみて少し遅めの昼食を食べてから解散。4~5時間はかかるとみた。大丈夫かな。やっぱり不安だ。
「先輩はいつからメガネかけてるんですか?」
「かけ始めたのは2年になってからだから、最近かな」
「やっぱそうですよね。あの時はかけてなかったから、それでわかんなかったのか」
「あの時?」
「あ、いや、なんでもないです。作ったばっかのメガネ壊しちゃって本当にすみません」
「大丈夫だから、気にしないで」
駅から続く商店街にあるメガネ屋に入る。先客が何組かいたので、先にフレームを選ぶことにした。特にこだわりもないので、適当に手に取ってかけてみるけど似合っているのかわからない。鼓くんに聞いてみると
「先輩はどれかけても似合うけど、先輩のかわいい顔を引き立たせるならこれですかね」
レンズの上部が目立つフレームだがすっきりとしている。ボストンタイプというやつらしい。なんかおしゃれだ。前回選んだものは縦幅が短い楕円形のフレーム(かしこそうに見える)だったから、それと比べるとカジュアルでかわいらしい感じがする。
(なんで俺のことかわいいって思ってるんだろう?)
「うん、じゃあこれにする」
「えぇ!? 即決!? そんな決め方でいいんですか!?」
「いっぱいありすぎてよくわかんないから」
「俺が選んだやつにしてくれたのはうれしいんですけど、こだわりとか好みとか……」
「メガネなんて見えればそれでいいから」
「そうですか……もしかして服もお母さんが選んでくれてたり……?」
「さすがにそれはないよ」
「ですよね~」
「あ、でも自分では選んでないかな。いつも三智が選んでくれるから」
「へぇ~みっちー先輩が……」
さっきまで驚いたり笑顔になったりと百面相していたのに急に真顔になってしまった。三智の名前を出したからだろうか。やっぱり鼓くんは三智のことをあまりよく思ってないらしい。
そうこうしている間に接客の順番がきて、視力を測定したりフレームやレンズの値段などを聞いているうちに1時間経ってしまった。一応、壊れたメガネのレンズをみてもらったけれど所々に小さな傷が付いていて再利用はできないとのことだった。
会計を済ませてメガネ屋を出る。メガネができあがるのはだいたい一週間後で、できあがり次第連絡をくれる。メガネなんてどれでもいいと思っていたけど、鼓くんが俺に似合っているものを選んでくれたから、できあがりが楽しみだ。
「けっこう時間かかっちゃってごめんね? 退屈だったでしょ?」
「全然。いろんなメガネみれて楽しかったです」
「それならよかった。じゃあ、映画館にーー」
「先輩……」
ピタッと足を止め、神妙な面持ちで声をかけてきた。何事かと身構えていると
「俺にも先輩の服、見立てさせてほしいです」
「うん?」
「あ、先輩が嫌じゃなければ、ですけど」
「うん、べつにいいけど」
「まじっすか! よっしゃー!」
満面の笑みである。鼓くんは服が好きなんだろうか。今日の服装は、濃いグレーのパーカーに白のワイドパンツでパーカーの裾からストライプのシャツがチラチラみえている。うん、なんかおしゃれだ。俺も黒のパーカーにデニムだけど、鼓くんと比べると子供っぽい(同じ服装でも背の高い三智が着るとおしゃれにみえる)。やっぱりスタイルがいいとどんな服でも着こなせるんだろうか。
そんなことを考えているうちにユニクロに着いて、早速服の見立てが始まった。俺がユニクロかGUでしか服を買ったことがないと言ったら、鼓くんが俺に合わせてくれた。
試着室で、鼓くんが選んでくれたものを片っ端から着ていく。普段、パーカーやTシャツしか着ないのでいろんな服が着れて新鮮だった。
「あ、これいいかも」
ネイビーの肌触りがいいテロンとしたシャツに、白っぽい色で縦線(タックというらしい)が入ったワイドパンツ。シャツなのに涼しくて着心地も楽だし、ワイドパンツも締め付けられないから楽だ。そして、ちんちくりんの俺がなぜかスタイルがよくみえる。
「いいすよね。大人っぽくてきれい目な感じ」
選んでくれた鼓くんも、鏡に映る俺を見てご満悦だ。
「シャツをインして少し出すと、足が長く見えます」
後ろから手が伸びて腹のあたりに触れられる。耳に吐息がかかり、距離の近さにドキッとした。
「先輩?」
顔を覗き込まれて、ますますドキドキしてしまう。
「ごめん、近くて、びっくりして……」
途端に俺から距離を取り、申し訳なさそうにペコペコと何度も頭を下げる。
「す、すみません! 勝手に先輩に触っちゃって」
「だ、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ」
「じゃあ、俺、あっちで待ってますね」
試着室のカーテンを閉めて行ってしまった。
「はぁ~」
本日三度目のため息。
(なんでこんなにドキドキしてるんだろう。やっぱり慣れない相手で緊張してるんだろうな)
着替えおわってさっきの二着を買い、ユニクロを出るころには12時半になっていた。俺のメガネに3枚、さっきの服で1枚。合わせて4枚の一万円札を使ってしまった。俺ばかりお金を使ってしまっているので申し訳なくて、残りの1枚は今度映画を見に行くときに使うことになった。服を買った時のおつりがいくらか残っているので、昼食はそれでまかなうことにした。コンビニで適当にからあげやらポテトやらを買って、駅前広場のベンチでそれをシェアし、今日は早めに解散することになった。俺が疲れた顔をしていたから、鼓くんが気遣ってくれたんだと思う。本当に優しい子だ。
「えっと、今日はありがとう。メガネと服、選んでもらって新鮮だった。メガネできあがるの楽しみだな」
「そう言ってもらえるとうれしいです。俺も、新しいメガネ姿の先輩、楽しみにしてます」
「うん。できたらみせにいくね」
「……っ、はい! ぜひぜひ!」
「じゃあ、また学校で」
「はい、学校で」
「あっ」
別れた直後だというのに踵を返して鼓くんの元へ戻る。おずおずとスマホを取り出すと、鼓くんもピンときたのかすぐにスマホを取り出した。
「やっぱり連絡取れないのは不便だよね」
「一昔前の人はこれが普通だったんですよね~」
「そっか。今じゃタップするだけで連絡できちゃうもんね」
「……うわ、そっか。これで先輩につながると思うと神々しいものにみえてきた」
「そんなおおげさな」
鼓くんが自分のスマホを崇めるように掲げているので、なかなか連絡先を交換できず、くわえて俺が操作にもたついたせいで時間がかかってしまった。
「じゃあ、今度こそ」
「はい、また学校で」
鼓くんの家と俺の家は反対方向なので、駅構内でわかれた。姿が見えなくなるまでずっと手を振っていて、その姿がかわいくて笑ってしまった。
エスカレーターを降りて駅のホームに着くと、ちょうど電車が到着したので慌ててそれに乗った。席が空いていたのでそこに座り、本日四度目のため息を吐く。
緊張したしめちゃくちゃ疲れたけど、鼓くんはやっぱりいい子で優しくてかわいい。メガネや服なんてなんでもいいと思っていたけど、俺のことを考えてちゃんと選んでくれたのは本当にうれしかった。少しだけ、世界が広がった気がする。大げさかもしれないけど。
(映画、楽しみだな~)



