雪山での遭難事故

 僕は友人たち三人と三峯(みつみね)神社へ参拝しようと向かっていた。今は秩父。

 以前、初詣に行った時は、奥秩父の大滝温泉からそんなに遠くなかった記憶がある。僕達四人は幼馴染で小中高どころか大学まで一緒だった。僕がマイカーをローンで購入し、全員で電車賃を節約しようと車で帰省していた。男女比率は男:女=2:2。

 僕は(つとむ)政二(せいじ)とは悪友、いや腐れ縁、いや親友でもある。彼は日本人離れした彫りの深い爽やかなイケメン。そして真美(まみ)は政二の彼女になっているスレンダーな美女。二人は後ろの席に座っている。

 僕の隣、助手席にいるのが美香(みか)。背が低く身体が小さくて丸っこい幼児体型の僕の可愛い恋人。パチクリした大きな目と形のいい唇に惚れまくっている。正直に言うと可愛すぎていつもキスしたくてウズウズしてしまう程。

 秩父市からは周りが雪景色にかわっていた。真っ白である。

 努
「おい、大滝方面、雪崩で通行止めだってよ。災難だな」
 政二
「三峯神社は人気だから予備の道が用意されてるさ。ナビに従っていけば直ぐだよ」
 真美
「もうすぐお昼だから大滝温泉の地元カレーを食べたいわ」
 美香
「私はおソバがいいな」
 努
「三峯神社に到着してから食べようぜ。俺はぞうりカツどん」
 美香
「それ、()()()カツ丼だからね」
 努
「うはっ、覚え間違い。いつも間違えるんだよなー」

 雪の中のドライブは順調だった。ただ、見慣れない、記憶にない道に徐々に入って行く。

「おかしいなぁ、この道、あんまり記憶がないぞ」

「私も。努くん、前来た時にあんな小屋あったっけ?」

「いや、久しぶりだから記憶にないなぁ。そもそも、ぞうりとわらじを間違える俺の記憶力だから」

「ごめん、そうだったね。でもあの看板は見覚えあるから間違ってないと思うよ」

「ナビはちゃんと道順を示しているからな。大丈夫と思うが」

「あ、交差点よ」

「案内が出てない……左っぽいけど? 何となく記憶がある、いや、ないか」

「テレビ山ってこんな方向で見えたっけ? 右へ行くと道に迷いそう」

 交差点なのに道案内の標識が出ていないこと、そして方向が左っぽい事で、車を左折させて走って行く。すると山奥の道に早変わりした。Uターンするにしても道自体が狭いので、道に沿って走らせるしかなかった。もちろんナビが正常に道が正しいことを示しているので運転手としても迷う気持ちはあるものの、疑いまくって引き返すという選択肢はなかった。

 すると別の県に入ったという標識が出てきた。

「あれ? 違う県に入ってしまったぞ」

「努君、県をまたいだの?」

「そうらしい。こんな道順、初めてだな」

 政二
「努、ナビは正常、多分このまま真っ直ぐに行けば山を回避して大滝温泉の方か、または三峯神社の逆サイドに出るんじゃないかな」

「しかし雪が深いし、道は狭いし、左側は渓流で深い崖、もしも対向車が来たらマズいな」

 細い道は時々舗装された道になるため、完全に雪に覆われた山道ならば無理やりUターンして引き返していた事だろう。中途半端に広く整備された道になるため、この先には広い道になって正常なルートに合流するのだろうと期待させられた。

「すでに30㎞は走ってるぞ。見覚えのない道のままだな」

 美香
「山道だからね。もう見分けがつかないわ」

「セミ四輪駆動の車を買って本当に良かったぜ」

 登り気味の道が続いた後、ようやく下りっぽくなってきた。車のスピードも徐々に速くなっていく。運転手としては変わらない雪景色に上下感覚がマヒしたようになり、タイヤが滑るギリギリで走行していく。左側で流れる渓流は谷底となっており、崖も深かった。ガードレールがない山道のため非常に危険だったが四人はそれに気づかなかった。

「知ってるか? 雪の結晶って六花(むつのはな)っていうんだぞ」

 真美
「ちょっとリアが滑った感じがしたわよ」

「大丈夫、今は四駆になってるから」

 政二
「過信は禁物だぞ。もっとスピード出せよ」

「おいおい、冗談でもヤメロ」

 するとスピードが乗っていた時、右側の山から黒く大きな塊が車の後部にぶつかってきた。

「うわっ!」

 その衝撃で車のリアが振られ、ジグザグに挙動が揺れ始める。これは徐々に振り子のように激しくなっていく。益々ハンドルさばきが効かなくなっていく。

「うっ、立て直しが……ハンドルが間に合わん……」

 通常の運転では制御が出来ず、激しく振られたリアが揺れて正面から山側にぶつかる。そして反動で川の方へ車が向かってしまうが、努が条件反射で踏みつけたブレーキで逆に車がスリップしてしまう。さっきまで快適だったドライブが一瞬の内に悪夢のような挙動の箱となってしまった。まるで走る棺桶であった。

 そして、あっという間に渓流側の手前に生えていた木にぶつかり、激しくフェンダーを壊しながら止まった。プシュ~という冷却ポンプが外れてエンジンの熱で蒸発した感じの音がして、静寂が襲ってきた。時は午後、夕方に近い16時であった。

 非常に運が悪いことに、冬は16時半には暗くなってしまう。山道を丁寧にゆっくり走っていたおかげで時間を随分と消費してしまっていた。お腹が空いた女子達はお菓子を食べていて且つ眠気や山道の緊張の連続で精神疲労を引き起こしており、努は運転に疲れ、政二は眠気、という状況で迎えてしまった現在である。

「おい、大丈夫か?」

 真っ先に気がついた努は、ハンドルを握っていたおかげで頭を打ち付けることはなかったが、意識は朦朧としていた。他の皆は下を向いて気絶しているかのようだった。

 最初の激突は右側の崖に斜めから入り、次は左側の斜め横からの衝突だったせいかエアーバックが開いていなかった。

・・・・・

 全員が目を覚ました。事故の衝撃で気絶していたようだ。

「まいったなぁ、ごめん、俺の運転が不味ったみたいだ」

「私は大丈夫。少し頭がクラクラするぐらいかな」

「オレは気分が悪いな、ちょっとしょうべ……トイレ行ってくる(右も左もトイレってか)」

「はぁ……、政二ってば下品だわ。彼氏として恥ずかしい」

「真美、雪景色だけど花を摘みに行ってくる」

「はぁ……」

 努がエンジンをかけてみるがキュルキュルいうだけで掛からない。ガソリンは急激に減ったりしていないので未だ大丈夫そうだった。ドアを開けて外へ出てタイヤを観ると、木にぶつかった左側の前輪が破裂していた。右後部もパンクしていた。立っちゃんをしてきた政二が用を足して戻ってきた。

「後ろだけでもタイヤ交換をしておこうぜ」

「そうだな、レッカーが来ても前輪は上げるから後部だけでもやっておくか」
(予備タイヤは幅がないから雪には弱いけどな)

「うん……圏外だな」

「俺のスマホもだ、JAFが呼べないな」

「「私たちのスマホもダメだわ」」

「少し前のピッチ(PHS)なら繋がっただろうに」

 努は携帯が繋がらないことにガッカリした。少し前までPHSを持っていたから尚更こういう時に限って……と不運を呪った。

「ずっと山だったから徒歩で戻るというのも、とりあえず難しい。先に行ったら公衆電話とかないかな?」

「私、少し先まで歩いてみるわ」

「OK、じゃ、俺はタイヤ交換する」

 ここで大粒の雪が降ってきた。

 努はトランクを開けて予備タイヤを出して準備をし始める。政二も道具類を取り出して準備に協力した。美香と真美は道の先へ向かって歩き始め、偶然、電波が届けばスマホで警察やJAFを呼べるので、時々チェックするように、更に電柱の有無も、とアドバイスした。

 タイヤ交換は過去にやったことがあったのでスムーズに終わった。パンクしたタイヤと道具類をトランクに片づけて、努と政二は車に乗り込んで女子二人を待つことにした。彼女たちが行った方向を観ても雪が積もってしまったのか足跡すら消えていた。

 やがて二人は帰ってきたが、顔つきを観れば先の道には何もなかったと容易に推測できた。

「お帰り。ダメだったかい?」

「うん。民家も電柱も、なにも見当たらなかった」

「こちらはタイヤ交換は済んだが、シャーシが曲がっていて真っ直ぐ走るのは無理そうだ。JAFを呼んで牽引して貰わないといけないな。ただJAFが来れば宿泊ホテルまで保険で賄えるから助かるぞ。ただスマホに加え電柱もないとは……」

「努くん、分かったわ。でも少し不安よね。ところで電柱って何の役に立つの?」

「電柱上部についてる配電盤を利用して通信が行えるという話を聞いたことがあってな」

「電柱……なかった」

「全員、車の中で作戦会議だ」

「はぁ、災難だな。努、ここってどの辺だい?」

「分らん。それに今日は帰れないかもしれない。食べ物や飲み物のチェックと、家族らへの連絡をどうするかとか、エンジントラブルの対処と、……防寒対策。エンジンさえかかれば暖房がつけれる。エンジンは……見ての通り」

 皆の前で始動ボタンを押すが、キュルキュルという空回りの音がするだけだった。

「ちょっとエンジンの配線を観てみるよ。木にぶつかった時、ジュバーって水が蒸発するような音がしたから、きっと冷却ポンプが外れているのかもしれない。そして周囲にある配線が外れているなら、それを繋げればエンジンが掛けられるかも」

 努がドアを開けて外に出てボンネットを開けると、想定通り冷却ポンプが外れ、周囲の配線も外れていた。冷却ポンプがないとエンジンをかけて走り出すと直ぐに熱で警告ランプが点灯するが、幸いなことに雪の中なので都会で同じことがあって爆発炎上ということにはならないだろう。努は配線をはめなおし、車に戻ってエンジンをかけた。

 ……するとかかった。

「「やったー!!」」

 早速、車を動かして脱出しようとしたが、前輪が滑ってしまい、後輪も幅の狭いスペアタイヤであり空回りする、更にぶつかった木のせいでシャーシが曲がりタイヤが変な方向を向いており、あわや車ごと谷底へ真っ逆さまという挙動を示した。

「「きゃーーっ」」

「これはヤバい! 努、止めろ。谷底に落ちそうだ」

「OK、OK、オッケー」

「ふぅ~、動かそうとしたらズルズルと滑り始めたな。下手に動かせない。車が落ちたら俺たちは凍死だ。危なかった」

「とりあえず暖房付けて落ち着こう。ガソリンはどれぐらいある?」

「ああ、結構、四分の一は残ってる。エンジンを暫くかけ続けても大丈夫だ。あと政二、食料やスマホたち以外に何か役に立つものあるか?」

「そうだな、食料は菓子類ばかりで少ないが、他に役立ちそうなのはライターぐらいか」

「服なら三峯神社に参拝する予定で沢山あるよ。マフラーも」

 努
「釣り道具でイージスオーシャンが二着あるから防寒なら何とか間に合いそうだな」

(作者注#イージスオーシャンは安くて高級ブランド級の性能を持つ防寒服の事です)

 努
「事故を起こした衝撃が凄かったっぽいから、皆、体調を気にして欲しい。今の時点で調子が悪いことを自己申告してくれないか?」

 政二
「少し腹が痛い」

 美香
「頭がクラクラするのが継続してるわ」

 真美
「同じく。でも、そんなに酷い体調になったという訳ではなさそう」

「了解。気になったら直ぐに俺に教えてくれ。あと政二、空のペットボトルとかに雪を詰めて溶かして水にしておいてくれ。後はそうだな、寒さなんだが低体温症・凍傷というのは下手をすれば二十分で命にかかわるそうだ。だから外へ出て用を足す際はなるべく早く車に戻る事」

「努くん、おトイレの言い方」

「花を摘みに行くときは気をつけて、そして早く車に戻れ。まぁ、今は花なんて咲いてないけどな」

「「分かったわ」」

「あと食料だが、食べないと熱が生じないので低体温症になりやすくなる。注意な」

 それを聞き、美香と真美が顔をあげて真っ直ぐに努の顔を見て言う。

「私の分も食べて。努くん」

「私の分もね……あげるから」

「オレのは……口移しでやるよ」

「……?」

 美香は俺を見ながら何か言おうと口を開こうとしたが、何も言わずに口を閉じた。その眼差しには寂しさと申し訳なさ、愛情の深さが混じり合っていた。

 周囲は暗さを増していた。こうして四人は徹夜覚悟で今夜を凌ぐことになった。

「ふぅ~、やっぱりスマホは圏外だ。駄目だなGPSも使えない」

「まさに踏んだり蹴ったり。俺達って遭難中だよな?」

「こういう時は裸で温め合うのがデフォよね?」←真美

「おい」

「いざという時のために電池の消耗に気をつけろよ」

「あと新聞紙はないけど週刊誌があるからやぶってセーターの中に入れるぞ」

「ツトムくんのエッチ」←美香

「本来なら新聞紙が最高なんだよ。空気の層が出来て異常にあったかい。ゼミの野外地質調査でやったんだが暖かかった」

「真剣モードの努って珍しいな」

 そんな会話をしながらも時間が中々経たない。二~三時間経ったと思っていても一時間しか車の時計は進んでいなかった。

・・・・・

 女子二人は疲れたのか眠ってしまっていた。時間はたっぷり残っていた。朝までは遠い。努は冷静に考えながら政二に話しかけた。

「なぁ、政二。俺さ、少し前に大学の校舎裏手で観てしまったんだよ。親友と俺の恋人がキスしているのを」

「……ッツ!」

「しかも長いキスだった」

「……」

「どうして話してくれなかったんだ? 真美は知っているのか?」

「努、すまない。真美は知らない」

「そうか……。いつからだ?」

「高校三年のバレンタインから」

「なっ! 十か月も前からかよ!」

「悪い。何度もやめようと美香と相談してたんだけど、今になってしまった」

「はぁ~、すげぇショック」

「まさか努に見られていたとは……先に言えず、すまなかった」

「真美とはどうするんだ?」

「別れるしかないだろ」

「そうか……。今、想定より長かったことを知って放心状態になりそうだ。美香とは別れるし、やっぱり先にちゃんと別れてから関係を始めて欲しかったな」

「すまん。どうしても言えなかった。もし良かったら真美と付き合ってくれやしまいか?」

「あほか、真美ちゃんにも心があるんだぞ。修羅場をくぐってから言えよ」

 何という事だろう。明るくなるまでの暇つぶしで会話をし始めた恋バナが方向を変えて大ショックの失恋話にまで発展してしまった。努は恋人が十か月も前から親友の政二と浮気をしていたという事、別れてから付き合えとNTR(寝取られ)物語を見るたびに感想を言い合っていたのに、まさか自分が恋人からNTR実践されるとは思わなかった。

「まぁ、いいや。いや良くないが、最近は何となく感じていたんだよな」

 努は美香が年末の帰省の時すら話題が政二関係の事が多かったり、クリスマスの時に塩対応だったり、前触れを感じてはいた。浮気相手がサークルの先輩とか学部の同輩とかではなく、親友だったことに愕然としたものだ。大学の校舎裏で目撃した際は直ぐ様二人の間に割って入って文句を言おうと思っていたが、後ろを向いていた女の子が美香と確定するまでは至らず、正直なところ今日はカマかけという認識で居た。

 甘い認識だった。我慢して年末年始に詳しく聞こうとした。それが今だった。

「なぁ、努。俺の本音を聞いてくれないか?」

「いや、今はやめとくよ。彼女らが起きたら普通に接することが出来そうにないし、ちょっと平静になるためにトイレに行ってくるわ」

「分かった。でもトイレの後で聞いて欲しい。頼む」

「……、ん、そうだな。先に聞こうか。何となく悪い話じゃなさそうだ」

「ああ、実はな。真美が努の事が好きだという事が分かったのが昨年のクリスマスだった。そして美香がそれに気付き、二人で話し合ったそうだ。そして美香は努から身を引く覚悟を決めた。それから暫くして今度は美香がオレに好意を持つようになった。ただ恋人である努にも愛情が残っているから今になってしまったのだが、今年のバレンタインにその件を告白された。少し複雑だったが分からないところあるか?」

「いや、分からないことだらけだよ! 真美ちゃんが俺の事スキだって? 美香が政二に惚れたのが真美ちゃんの心変わりがキッカケなんだって? 何だよソレ」

「それでだな、校舎の裏で美香とキスしたのも、努が後を付けてきているのが分かっていたからなんだ。お前に怒られて関係を清算しようとしてさ。美香と作戦を練っていたんだ」

「マジかよ……何だよソレ、何だよ……。今度こそ、ちょっとトイレ行って頭を冷やしてくるわ」

 深夜の雪は、降ったり止んだり。しんしんと静寂に包まれていた。

 雪が止んでいる時は時々月が出て、月明かりで何とか周囲が見えていた。雪で覆われている場合は光が反射して増幅、目で周囲が見えている。

 通常の山の中なら真っ暗になり、その漆黒の闇の中では手すら見ることが出来ない。その点ではエンジンが掛かって暖房があり、雪の反射の明かりがあり、暗闇に包まれるほどではなく、互いの顔を薄っすら見ることが出来て助かっていた。

 努は近くの木の根に向けて用を足している間、頭を整理していた。吐く息が白い。恋人の美香と政二との浮気関係は、実際に長いキスを目撃してしまったのだから心の準備が出来ていた。しかし真美が努に恋心を持ち、それがキッカケで美香が努から身を引くことになり、政二に告白して浮気が始まったという。

 何か腑に落ちない気がしたが、自分が美香と別れ、真美と付き合うことにすれば、全く同じ仲良し四人組となるという歪な関係が生まれることに、努の頭の整理が妙に追いついてきた。誠に変な気分だった。どこか他人事みたいに感じていた。

 努は小用を足し、車へと戻った。暖房が暖かかった。女性陣は眠ったままだ。そして、さっきまで会話をしていた政二まで眠っていた。音楽でもかけるかとBGM代わりにCDのインストルメンタルを流した。

・・・・・

 努はトイレのために外に出て、体温が下がっていた中で暖房とBGMでウトウトし始めた。それは永遠の時のごとく長い間続き、頭の中の混乱を落ち着かせていた。

 努の頭の中では、目が覚めたら美香と真美に話をしよう。好きになったり嫌いになったり、恋をするのは自由だとは思うが、スワッピングのように恋人交換みたいになるのは良くない、だから一旦、幼馴染の関係をリセットしよう、と提案するつもりだった。

 ガサゴソ

 ふいに車が揺すられた。何か大きな黒い塊がゆっさゆっさと車を揺すっていた。それで目が覚めた努は周囲を観るが、黒い塊が傍にあるというだけしか見えなかった。美香も政二も真美も起きなかった。

 大きな黒い塊を凝視していると、動物だという事が分かってきた。秩父方面に棲むと言えばツキノワグマ。時々、新聞でもクマによる獣害、死亡事故の報道がある。今は冬なので冬眠失敗の空腹のクマだろう。しかし大きさが問題だった。何の因果かヒグマほどもある。下手をすればそれ以上かもしれない大きさに見える。

(やべぇ! 車のドアの取っ手を開ける野生のクマは普通にいる。ロックしなければ)

 車の全ドアの集中ロックをしようとボタンを操作すると同時に、真美の座る右後部座席のドアが開けられた。

(クソ! 美香が危ない)

 怖い。努は怖かった。直ぐに身体が動かない。クマだと認識した瞬間に「そ、そんな……信じられない」と正常化バイアスがかかり、動作が緩慢になる。対処が間に合わない帰来があった。

 パン パン パンッ

 その時、短く高い音が三回してクマの身体を打ち抜き、クマは後ずさりして周囲を睨む。どこからか銃の玉が飛んできたのだろうか? しかし深夜で周囲は真っ暗のままである。猟師が巡回しに来たのだろうか? こんな夜中に。しかも車さえ通らない山道で。他に車の音も聞こえなかった。

 クマは退散していった。諦めてくれて良かったと努はホッとした。
 でも、いつまで経っても猟師はやってこなかった。銃声ではなかったのだろうか。

 すぐさま、クマに開けられ冷たい空気が入り込む後部ドアを閉めに外へ出る。

「おい真美ちゃん、大丈夫か?」

「……」

 返事はなかった。真美は冷たい空気に晒されながら尚も寝続けている。隣に座る政二すら眠りこけている。車の右後部ドアを閉めて運転席に戻り、全ドアをロックした。

 そして隣の美香を観ると頭を下げて力なく俯いていた。その様子に不自然さを感じた。そういえば事故後、道の先の近所を観に行ってから戻ってきて直ぐに眠ったんだよな? と考えが危険な方向へ進む。

「おい、美香……」

 恐る恐る肩に触れて座席に背を付けさせる。すると頭と首が力なくだらんと窓に当たる。まるで糸の切れた人形であった。

「え……」

 次に後ろの政二を観る。呼びかけても無言のままだ。しかし違いがあった。口から舌が垂れていた。ちょっと待てよ、と努は嫌な予感を否定したく思った。そして真美。彼女もさっきドアを閉めてからも全く動きがなかった。この三人とも、クマが車を大きく揺すっていたのに全く目を覚まさなかった。嫌な予感が努の脳裏に()ぎる。銃声がしたはずだが未だに猟師が近寄ってくる気配もしない。他の車の音もしない。ヘッドライトの光もない。

 恐る恐る隣の座席の美香の首筋に触れる。冷たくなっていた。脈があるかどうか、全く分からなかった。ドアを開け、後部座席の真美の首筋に触れる。やはり脈は分からなかった。呼吸をしているのだろうか? 確かめてみるが、全く胸も動いていない。

 冷たい空気が車内に流れ込んでいるのに白い息が口から出ていない。政二の尻の側には凍ったままのペットボトルがあった。温めて雪を溶かすんじゃなかったのか?

「こ、これは……。みんな、どうして……、いつ死んだ? どうして、どうして……こんなことになったんだ?」

 三人とも亡くなっていた。朝まではまだ三時間以上もある。

・・・・・

 朝になり、地域の人が軽トラで通りがかった。その車に乗せて貰って村まで降り、スマホの電波が入ったところで村人に警察と救急車の電話をしてもらった。場所が分からなかったからだ。明らかに亡くなっているのだが、親切にも救急車が来てくれた。

 警察の事情聴取の際、銃声が三発したことを話した。そんな深夜に徘徊する猟師はいないと言われた。そして、確かに血痕があってクマが居たことは確認された。血痕は試料として科学捜査研究所に回されることになった。後にツキノワグマだと認定され、近くから巨大なツキノワグマの死骸が発見された。体内には銃弾は見つからなかったが銃創はあったので謎な事象として報告書には記録された。

 そして、三人の葬儀が終わった。

・・・・・

 努は幼馴染とよく遊んだ公園に来ていた。
 丁度、夕陽が柔らかな光を注いでいた。

 自動販売機で飲み物を四つ購入し、ブランコ傍のベンチに座った。

 浮気したからと「ざまぁ」みたいな気持ちが全く出てこなかった。努はそんなに図太い性格ではない。
 人間は間違いを起こす動物だ。しかし最後の置き土産としては政二白状のセンスを疑った。

 膝のズボンや地面に大粒の水滴がポツポツと落ちた。視界がぼやけ、頬を伝う温かい涙を感じる。

 あの銃声三発は、彼らの魂だったのではなかろうか。努を守るために。その直後に全員が亡くなった筈。そう思えてならなかった。

 でも、あの時、道の先に電柱や民家がないかどうか観に行った女の子二人、彼女たちの足跡がなかった。雪が積もったせいだと思っていたが、もうその時点で彼女たちは亡くなっていたのではなかろうか。食料は努にあげると言っていたのは既に不要だったからか。

 その後で、眠りこけた彼女たち。もう会話は無かった。そして政二と例の会話を始めた。

 堰が切れたように努は泣き出した。

 会話の内容を思い出す。またみんなと会いたい。遊びたい。もっと一緒に生きたかった。

 涙が止まらなかった。



・・・・・

 あれから五年の月日が流れた。