【長編書籍化】呪血の花嫁

 天馬の非番の日を利用して、ふたりは街に買い物にきていた。
 今の一軒家での暮らしも慣れてきたが、生活に必要な細かい物を買い揃えにきたのだ。
「このお皿、お魚を乗せるのにちょうどよさそう。それにこっちのお鍋も、煮物がたくさん作れそう」
「気になるならすべて買おう。料理に関しては、俺はさっぱりだからな」
「ありがとうございます。これで、今よりもお料理が捗りそうです」
 子どものように楽しそうに買い物をする絃の姿を、天馬は少し離れたところから見守っていた。
 食器や調理器具、部屋に飾る小物雑貨などを買っていたら、あっという間に風呂敷いっぱいになってしまった。
「すみません……! わたしがあれもこれもと買ってしまったらこんなことに……」
「気にするな。必要なものなら、これくらい構わない」
「……でしたら、わたしが持ちます! ほとんどわたしの買い物ですし」
「絃だけのものじゃない。ふたりで暮らしてるのだから、ふたりに必要なものだ。それに、荷物ならこいつに運んでもらおう」
 そう言って天馬は右手の薬指を噛み切ると、血で左の手のひらに呪式を書いた。
 現れたのは、天馬の神使のハヤブサ。
「これを家まで頼んだ」
 天馬が風呂敷を差し出すと、ハヤブサは結び目を足でつかんで空高く舞い上がった。
「重い荷物をあんなに軽々と」
「あれくらいならまだ容易い。俺だって持ち上げて運んでくれるからな」
「朝比奈様を?」
「ああ。急を要するときは、飛んで向かったほうが速いからな」
 天馬の話を聞いて、絃は肩に現れたピーちゃんに目を向ける。
「朱雀だって、本来の姿を取り戻せば絃を乗せて飛ぶことだってできるさ」
「今のピーちゃんからでは、まったく想像できませんが」
 丸々としたピーちゃんは、きょとんとして首を傾げる。
「早くその日がくるといいな。だが何度も言うが、絃が焦る必要はないからな。朱雀頼みでなくとも、災厄の日への訓練は十分にしているから」
 一向にピーちゃんの本来の名前を思い出せない自分を責めるときもあったが、そんな絃を誰よりも理解している天馬は優しく声をかける。
「そうだ、絃。小腹は空いてないか? 少し行ったところに、わらび餅が評判の甘味処があるんだ」
「いいですね。ぜひ行ってみたいです」
「それじゃあ、そこで休憩してから帰ろうか」
「はい」
 絃は頷くと天馬のそばに寄り添った。
 市場も開かれていて、街は普段よりも多くの人でごった返していた。自然とふたりの距離は縮まり、絃が人を避けた拍子に天馬の手に触れた。
 花火の夜に小指と小指が重なり合ったことを思い出した絃は、顔を赤くして慌てて手を引っ込めた。
 天馬の顔を見られずうつむく絃だったが、そのとき小さな下駄が転がったのを視界の端に捉えた。
「あっ……」
 慌てて拾い上げると、赤い鼻緒の子ども用のものだった。
 すぐさま振り返った先には、片方の足にこれと同じ下駄を履いた、母親に抱っこされている女の子を見つけた。
「落としましたよ!」
 絃は人混みをかき分けながら、なんとか見失わずにその親子のところへと駆け寄った。
「あの、下駄を落とされましたよ」
 絃に声をかけられた母親は、抱っこしている娘の足を見て、そこで初めて娘の片方の下駄がないことに気づいた。女の子は疲れているのか眠ったままだった。
「ご親切にありがとうございます。この子のお気に入りの下駄で、もし失くしていたら泣き叫ばれるところでした」
 母親は安堵した表情を見せて絃から下駄を受け取った。
 その後、絃はすぐに辺りを見回したが、天馬の姿が見当たらない。多くの人が行き交う中、天馬ひとりを探し出すには苦労しそうだった。
 ひとまず、邪魔にならないように通りの端に寄って様子をうかがう。
 これからどうしようかと、天馬が行ってしまったであろう方向を不安げな顔で見つめていると――。
「絃……さん?」
 そばで絃の名前を呼ぶ声がした。
 振り返ると、そこにいたのは、長身に細身のスーツ、爽やかな水色のシャツと紺色のベストを合わせた姿がよく似合う和久だった。
 バラ園で突き飛ばされて以来の再会だ。
「……和久さん、お久しぶりです」
 挨拶をしたものの、和久にいい思い出のない絃はとっさに身を引いた。
 てっきり、『呪血がなに食わぬ顔で出歩いている』だのと嫌味を言われるかと思ったが、なぜだが和久は驚いた表情で、絃を見つめたまま立ちつくしていた。
 そのわけとは、不覚にも、絃の見違えるように美しくなった姿に見惚れてしまっていたのだ。
 噂で、朝比奈家当主の嫁になったとは聞いてはいたが、あのみすぼらしい姿の絃が見初めらただなんて、そんな馬鹿な話があるはずがない。
 そう思っていた和久だが、再会した絃が想像以上に自分の好みの女性に変貌していたため、言葉を失っていた。
「和久様、どなたですの?」
 すると、和久の後ろにいた肉付きのいい素朴な顔の女性が首を傾げていた。その声で、和久ははっとして我に返ったようだった。
 女性が和久に尋ねる表情は優しげだが、瞬時に絃には鋭い瞳で睨みつけた。その視線が突き刺さった絃は、おずおずとお辞儀をした。
花子(はなこ)さん。彼女は取引先の娘さんで、以前お会いしたことがありまして」
「へぇ、取引先の娘さんねぇ」
 花子と呼ばれた女性は、絃を見定めるように上から下へと視線を動かした。
「花子さんは先に戻っていてください。ぼくは少し彼女と立ち話をしてから追いかけますので」
 それを聞いて、花子は怪訝な表情を浮かべた。
 この場に残ろうと『それなら私も』と口にしかけた花子だったが、和久にうまく言いくるめられて、先に帰らされるハメになった。
「和久様、よろしいのですか。彼女をおひとりにさせても」
「いいんだ、いいんだ。父さんが勝手に選んだ見合い相手だから」
 和久は、花子の後ろ姿を見ながら重いため息をつく。
「それはそうと、絃さんはこんなところでなにを? あの朝比奈様の妻になられたとは聞いたけれど」
「実は……はい。急に決まったお話だったので」
 はにかんだ絃の表情からは、幸せが滲み出ていた。その柔らかい微笑みに、和久は思わず目を奪われた。
「それで、今日は朝比奈様とお買い物にきたのですが、はぐれてしまって……」
 仕草ひとつひとつが気になり、背伸びをして辺りを探す絃の姿から、和久はどうしても目が離せないでいた。
 西条家にいた頃の絃は、ところどころ繕われた古い着物を着て、髪も伸びっぱなし、最低限の身だしなみしかできていない小汚い娘だった。
 水仕事であかぎれだらけの指先も使用人以下で、とても名家のご令嬢の手肌とは思えなかった。
 それが今では、鬱陶しかった髪を切り揃え、化粧まで施し、まるで別人のようだ。
 呪血ということすら忘れるくらいの絃の潜在的な美しさを知って、和久は自分でも驚くくらいに陶然していた。
 こんな姿を花子に見られたら、なんと言われるかわからないため、彼女には先に戻るように言ったのだ。
「そうだ、絃さん。このあと一緒にお茶でもどうかな。きっと朝比奈様も探してくださっているだろうから、合流するまでの間の暇潰しに」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、遠くへ行くわけにもいきませんし、わたしはここで朝比奈様をお待ちします」
「大丈夫、すぐそこの店だよ。せっかく久しぶりに会えたんだし、ちょっとくらい――」
 と言って、和久が絃に手を伸ばそうとしたときだった。
「誰の許可を得て、俺の妻に触れようとしている」
 低い声が響き、絃が振り返ると、和久の腕をがっちりと掴んで鋭い眼光を放つ天馬がそこにいた。
 今にも噛みつかれそうな天馬の威圧感に、和久はごくりと唾を飲み込む。
「……こ、これは失礼。ぼくは長楽和久。貿易商をしている異能家系、長楽家の次期当主です」
 それを聞いた天馬は掴んでいた腕を離した。
「長楽家ご子息の和久さんでしたか。そうとは知らず、手荒な真似をしてしまって申し訳ない」
 天馬を前にし、和久は襟元に手を伸ばしてシャツを整える。
「朝比奈様、和久様とお知り合いですか?」
「知り合いというか、影鬼討伐の際には長楽家にも度々協力を仰いでいるからな」
 同時多発的な影鬼の出現時などには、長楽家も國防隊からの要請で討伐に加わっていた。
「お父様には大変お世話になっておりますが、次期当主の和久さんとこうしてお会いできてうれしいです」
「ぼくもです。お初にお目にかかれて光栄です。どうぞお見知りおきください」
「こちらこそ」
 天馬は和久と握手を交わした。和久のことをなにも知らないような天馬の友好的な微笑みを、絃は複雑な気持ちで眺めていた。
「協力をお願いすることがありましたら、そのときはぜひ和久さんもお願いします」
「もちろんです」
 そして、和久を引き寄せて背中を叩いて激励してみせる天馬だったが、その耳元にそっと顔を近づけた。
「初めてではない。バラ園で見かけたから覚えている」
 突如として天馬の口から発せられた〝バラ園〟という言葉に、肝を冷やした和久は口をつぐんだ。
 絃には聞こえない程度の小声だったが、重たく凄みがあって背筋に悪寒が走る。
「バ……バラ園? なんのことでしょ――」
「気づいていないとでも思っていたか。あのとき、絃をいばらの中に突き飛ばしただろう」
 和久の頭の中で、あのときの記憶が一気に駆け巡る。
 絃と璃々子に初めて会った日、三人で西条家の近くのバラ園へと向かった。そこでバラのトゲで怪我をした絃が呪血だと知り――。
「たまたま俺が助けたが、あのときの絃は傷だらけだったぞ。そんな仕打ちをしておいて、なに食わぬ顔でこうして近づいてくるとは、どれほど面の皮が厚いんだか」
 恐れをなした和久が後退りをしたが、逃すまいと天馬は和久のネクタイを握りしめる。
「絃は俺の妻だ。お前如きに優しい言葉をかけられたからといって、なびくような女じゃない。わかったのなら、二度と絃に近づくな」
 天馬がネクタイを離すと、和久はよろけて尻もちをついた。
 天馬の背中に隠れていて事の成り行きがわからなかった絃は、意気消沈している和久を見て首を傾げた。
「絃、行こう。和久さんはお疲れのようだ」
 天馬は絃の肩に手を置き、そのまま和久のもとを去っていった。

 無事に天馬の話していた甘味処へたどり着き、人気のわらび餅を食べながら一服するふたり。
「それにしてもすまなかったな。絃をひとりにさせてしまって」
「いえ、そんな。わたしのほうこそ勝手にいなくなってしまい、すみませんでした」
 絃は天馬とはぐれてしまったときのことを話した。
「そうだったのか。絃になにかあったんじゃないかと心配したが、大したことではなくてよかった」
 そばにいないとわかってすぐに、天馬が必死になって探している姿が想像つき、絃は申し訳なさを感じながらも、どこかうれしかった。
 天馬なら離れてしまっても、きっとまたこうして助けにきてくれるような気がしたのだ。
「わらび餅、本当においしかったです」
「それはよかった。また来よう」
「はい!」
 あとに続いて甘味処から出てきた絃に、天馬は優しげな眼差しを向けた。
「夕飯の支度もありますから、そろそろ帰りましょう――」
 そう言いかけた絃の手を天馬が握った。
 驚いた絃は、頬を赤くしながら天馬を見上げた。
「また人混みではぐれてしまってはいけないからな。もう絃をひとりにはしない」
 絃の手を包み込んでしまうくらいの大きな天馬の手に、絃は安心感を覚えた。
「はい。もう朝比奈様のおそばを離れません」
 はにかみながら頷く絃を見て、天馬も微笑んだ。
 もう小指だけの触れ合いではない。手をぎゅっと繋いだふたりの影が並んで歩いていた。

 セミがうるさく鳴く八月のある日、絃のもとへ一通の文が届いた。
 送り主は、璃々子だった。
 久々に見る璃々子の名前に、絃の胸にズキッとした痛みが走った。
「絃様。ご気分がすぐれないようでしたら、なにも無理して読まれることなどございませんよ」
 名前を目にした瞬間から明らかに顔色が悪くなった絃を見て、菊江は心配そうに顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます。ですが、大事な話かもしれませんし……」
 絃は自分に言い聞かせるように呟いたが、気乗りせずにただただ文を握りしめるだけ。
 そんな絃の姿を見て、菊江は絃から文を取り上げた。
「絃様が許可してくださるのなら、先に菊江がお目を通させていただきますよ」
「菊江さんが?」
「はい。それで、絃様に必要な内容でしたらお見せいたしますし、そうでなければ処分します」
 菊江の提案に、少し考えた絃は首を縦に振った。
「よろしくお願いします」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
 断りを入れると菊江は封を切った。そして、中を確認する。
 絃は上から下へと移動する菊江の視線をじっと追っていたが、その視線が絃へと向けられた。
「絃様。璃々子様からの文ですが、西条家に置いていた荷物を取りにきてほしいとのことです」
「荷物を? でもわたし、そもそもそれほど部屋に物を置いていなかったはずなのですが……」
 絃は、菊江の手にある文に目を通す。
 そこには、絃の持ち物と思われるものが羅列して綴られていたが、その中の〝桜模様のつげ櫛〟という文字に目が止まった。
 他はそれほど大切なものではなかったが、かわいらしい桜模様が彫られているその櫛は、絃が母からもらったものだった。
 母が亡くなった今では唯一の形見であり、大事に大事に扱ってきたのだが、実は数年前になくしていた。
 いつも保管していた場所になく、部屋中どこを探しても見つからなかった。
 そのときに、直前に部屋を出入りした璃々子にも尋ねたが、『知らない』の一点張り。『泥棒扱いするのか』と、秀徳と佳代子にこっぴどく叱られたのも覚えている。
 ここへきて櫛の話を持ち出してきたということは、やはり当時、璃々子が持ち去ったのだろうと想像はつくが、今はそれどころではない。
 文には日付と場所が指定されており、その日にこなければ「荷物はまとめて処分する」と書かれてあったのだ。
 しかも、その日は明日に迫っていた。
 明日の午後三時、隣町にある大きな川にかかる橋で待っている、とのことだった。
「母の形見もあって取りに行きたいので、明日、少し家を空けますね」
「かしこまりました。しかし、念のためぼっちゃまにもお伝えしておいたほうがよろしいのではないでしょうか」
「大げさですよ、菊江さん。妹に会いにいくだけで、朝比奈様のお仕事のお邪魔はできませんし」
 天馬は昨日の朝に家を出てから、泊まり込みで軍にいた。
 近くの山で大量の影鬼が出現し、その討伐と調査が落ち着くまでは家に帰れないという旨の文が、神使のハヤブサによって届けられていた。
 國のため、市民の平和のために今も職務に励んでいる天馬に、荷物を取りに璃々子に会いにいくというつまらない話を連絡するだけ申し訳ないと思ったのだ。
「天馬様がいらっしゃらないのであれば、菊江がお供したいところですが……」
「明日は、お母様の講演会に付き添われるのですよね。わたしなら大丈夫ですよ。隣町くらい、ひとりで行けますから」
 菊江は不安そうな表情を浮かべたが、絃は心配させまいと笑ってみせた。

 そして、次の日。
 絃は、指定された時間に隣町の橋で璃々子を待っていた。ひとりで行くと覚悟を決めてここへやってきたというのに、緊張のせいで心臓がうるさく暴れる。
 西条家を出てしばらくたつというのに、璃々子への恐怖心は拭えていなかった。
「お姉ちゃん」
 そんな声が背後から聞こえた瞬間、絃は胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
 恐る恐る振り向くと、そこには満面の笑みで手を振る璃々子がいた。
「璃々子……」
「久しぶりね、お姉ちゃん」
 璃々子が歩み寄ってくるが、絃は思わず後退りをした。
 これほどまでに笑顔の璃々子は不気味でしかない。
「……わたしの荷物は?」
「それなら、手配した車の中にあるわ。こっちこっち」
 手招きをする璃々子と一定の距離を保って絃はついていった。
 璃々子の言う通り、橋のたもとには一台の黒塗りの車が停車していた。中から運転手が降りてきて車のドアを開けると、璃々子はそのまま乗車した。
「さっ、お姉ちゃんも乗って」
 璃々子が手招きするが、絃は身構えた。
「ありがとう、でもわたしは結構よ。この場で渡してくれたらそれでいいから」
「遠慮しないで〜。アタシがこんなところまで呼び出したんだから、朝比奈様のお屋敷まで送るわ。それに、お姉ちゃんに謝りたいこともあるし……」
 璃々子は眉尻を下げて儚げに微笑む。
 自分に自信しかない璃々子が初めて見せた表情に、絃は少しだけ張り詰めていた緊張感が緩んだ。
 謝りたいということは、璃々子にも反省の気持ちがあるのだろうか。
 突き放すには心が痛んだ絃は、一瞬迷ったが首を縦に振った。
「わかったわ。璃々子がそこまで言ってくれるなら」
「安心して。運転手には、行き先は伝えてあるから」
 璃々子に続いて絃が車に乗り込むと、運転手はゆっくりとドアを閉めた。
 このときの絃は気づいていなかった。璃々子が薄ら笑いを浮かべていたことには。

 後部座席にふたりを乗せた車は走り出す。
「お姉ちゃん、今日は急に呼び出してごめんね」
「ううん、いいの。とくに用事もなかったから」
 絃は適当に返してみるが、ずっと引っかかっていたことがあって会話に集中できていなかった。
「そういえば、お姉ちゃんはさ――」
 璃々子がさっきから口にする〝お姉ちゃん〟という言葉。ずっと〝ドブ女〟と罵られ続け、〝お姉ちゃん〟と呼ばれたことなどほとんどなかった。
 それがどうしたことか、今日は一度も〝ドブ女〟とは呼ばれていない。璃々子のことなら、開口一番に呼んでくるに違いないと思っていたが。
「はい、これ。お姉ちゃんのよ」
 璃々子はさっそく風呂敷にくるんだ荷物を絃へと差し出した。絃は受け取るなり、すぐさま結び目を解いて中を確認する。
 入っているものは使い古した着物や筆記用具などで、たしかに絃の持ち物ではあるが、どれも処分されても困るほどのものではなかった。
 それよりも、肝心のつげ櫛が見当たらない。
「璃々子。手紙には〝桜模様のつげ櫛〟と書かれてあったけど、それはどこ?」
「ああ、このことね」
 そう言って、璃々子は着物の懐から櫛を取り出した。数年ぶりに目にしたが、それは紛れもなく絃の母の形見の櫛だった。
「返してっ」
 絃が櫛に手を伸ばしたが、璃々子はひょいっと手を上げてかわした。
「そう焦らないでよ、お姉ちゃん。謝りたいというのは、このことなんだから」
 璃々子は、ニヤリと口角を上げてせせら笑う。
 その態度に表情を硬くした絃だったが、それよりもさっきからルームミラー越しにやたらとこちらに目を向けてくる運転手のほうが気になった。
「お……お客様。お話し中のところ申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか」
「なに? どうかした?」
 璃々子は面倒くさそうに返事をする。
「あの……本当にこの道でよろしいのでしょうか。この先の道は、今――」
「いいのいいの。初めに言った通りでお願いね」
 璃々子は運転手の話を遮り、軽く舌打ちをする。しかし、絃の視線を感じて慌てて表情を戻した。
「そうそう、これね。アタシが前にお姉ちゃんの部屋から借りて、そのまま返すのを忘れていたの。ごめんなさい」
 謝罪などこれまで一度もしたことがなかった璃々子が、絃に頭を下げる。その姿だけだと一見、反省しているようにも見えるが、絃はまったく腑に落ちていなかった。
 当時は『一切知らない』と言っておきながら、今になって『返すのを忘れていた』というのは無理な話だ。だが、ここで責めたところでどうにかなるというわけでもなく、絃はぐっと言葉を飲み込んだ。
 そうして顔を上げた絃だったが、さっきから車体が揺れていることに違和感を覚えて慌てて窓にかかったカーテンを開けた。
「ここ……、どこなの」
 なんと車はいつの間にか山道を走っていた。朝比奈家に行くまでに山など通らないはずなのに。
「あの……! 道、間違っていませんか?」
「い、いえ。ちゃんと指示された道を通っております」
 運転手はぎこちなく答える。
「璃々子、どういうこと? どこに向かっているの」
 絃が問い詰めるが、璃々子は声を堪えて小さく笑っている。
「今頃気づいたの? おっそ」
 そう言って、薄ら笑いを浮かべ見下ろしてくる璃々子の顔こそが、絃のよく知るものだった。
「こんな櫛一本でノコノコ出てくるなんて笑っちゃう。そんなに大事なら、なくさないようにしなくちゃダメでしょ〜?」
 璃々子はニヤリと笑うと、開けた窓からつげ櫛を放り投げた。
 絃がとっさに身を乗り出したが、つげ櫛は車の後方へと転がっていった。
「車を止めてください!」
 絃は運転席に向かって叫び、車が停車するや否や外へと飛び出した。
 慌てて駆け寄り、悲痛な思いで櫛を拾い上げてみると、幸い少し泥で汚れているだけで目立った傷は見当たらなかった。
「……よかった」
 絃はようやく戻ってきた母の形見をぎゅっと胸に抱きしめる。
「やっぱりドブ女は、地面に這いつくばる姿がお似合いね」
 振り返ると、璃々子が車のそばで高らかに笑っていた。
「璃々子、どういうつもり!」
「は? なにその態度? 朝比奈家の嫁になったとたん、随分と偉くなったものね! 呪血のくせに」
 璃々子はキッと絃を睨みつける。その璃々子の後ろで、なぜか運転手が落ち着きなく様子をうかがっている。
「お、お客様……。できれば早くこの森を抜けたいのですが……」
「わかってるわよ、うるさいわね! 言っておくけど、アタシは西条家の人間よ! 少なくとも、アタシのそばにいれば危険なことなんてないんだから安心しなさい」
 璃々子は噛みつくように運転手を怒鳴りつける。
「そうそう。〝たまたま〟この道を走ってきたのだけれど、隣の山で最近、影鬼が大量発生したらしいわよ。もしかしたら、この辺りにもいたりして〜」
 その言葉を聞いて、絃は顔を青ざめさせながら周囲を見回した。辺りには薄暗い森が広がっており、なんだか嫌な空気が漂っている。
 まさかとは思ったが、ここは國防隊が影鬼の討伐に向かっている山のすぐ近くだった。
 運転手のさっきからの怯えようからでも、璃々子が言っていることは嘘ではなさそうだ。
「さっ、行きましょ。早く車を出してちょうだい」
「し……しかし、あの方もお乗せしなくてもよろしいので……?」
 運転手は不安げな表情で絃に目を向ける。
「気にすることないわ。あの方は、かの有名な朝比奈家の嫁ですもの。それはもうお強い神使をお持ちですから心配無用よ」
 この森から一刻も早く抜け出したい運転手は、璃々子の話の真偽など正直どうでもよく、そそくさと運転席へと逃げ戻った。
 璃々子はゆっくりとドアに手をかけると、最後に一度だけ絃のほうを振り返った。
「天馬様に見初められるほどの力を持っているのなら、影鬼くらい簡単に倒せて当然よね?」
 クスッと笑うと、璃々子はヒラヒラと手を降って車に乗り込んだ。
 車の音が遠ざかり静まり返った森から、風に揺れる木々の音や動物の鳴き声が妙に不気味に聞こえてくる。
 足元からじわじわと侵食してくるような悪寒が気持ち悪い。
 幸い一本道で、迷う心配がないのが唯一の救いだ。
「とにかく、街へ戻らなくちゃ……」
 絃はそう呟いて立ち上がったが、背後からわずかに物音が聞こえた。
「なに……?」
 絃ははっとして振り返ったが、そこにはなにもない。しかし、目を凝らしてみると、木々の影からもやのようなものが立ち込め、それは徐々に人型へと変化していく。
 絃は、その不気味な影に息を呑んだ。
「ギギギ……」
 できあがった人型の影は、左右に裂けた口から長い舌を垂らし、奇妙な鳴き声を上げている。
 それは、軍の病院近くで見たものと同じ――影鬼だった。
「ギギギ……」
「ギギギキィ……!!」
 次々と現れる影鬼に絃は後退りをした。そして、絃に狙いを定めた影鬼は、集団であとを追ってきた。
「だ、だれか……助けて!」
 絃は叫びながら逃げ惑う。しかし、影鬼の出没の恐れのあるこの山に、わざわざ踏み入ろうとする者はいない。
 必死になってなんとか影鬼から逃げていた絃だったが、木の根に足を引っ掛けてしまい前のめりに地面に転倒した。頬には泥がつき、両膝からは血が流れる。
 今は一刻も早く立ち上がらねばならないというのに、恐怖と痛みで怪我をした足に力が入らない。
 絃の脳裏に、影鬼たちによって食い殺される自分の姿が浮かび、死を覚悟した――そのときだった。
「……ギァァァァァアア!!!!」
 突如として影鬼が炎に包まれ、耳をつんざくような断末魔の叫びを上げてもがき苦しんでいた。
 なにが起こったのか理解できない絃は、呆然としてへたり込む。すると、絃の前に誰かが現れた。
「絃、怪我はないか!?」
 顔を上げると、そこには絃を見下ろす碧色の瞳――。
 その瞬間、込み上げてきた思いとともに涙が溢れだした。
「朝比奈様……!」
 絃は泣きじゃくりながら、天馬の胸に顔を埋めたのだった。