【長編書籍化】呪血の花嫁

 ――絃は夢を見ていた。
 天馬は雷蹄、絃は見たこともない大鳥と共に、影鬼の大群と戦っていた。
『――! お願い、力を貸して!』
 絃が叫ぶと、大鳥は大きく羽ばたき、一瞬にして影鬼を滅していった。
 しかし、夢の中の絃がなんと呼んだのかまでは聞き取れなかった。
 影鬼を一掃し、ほっと胸をなで下ろした絃が天馬に駆け寄るが、すぐに異変に気づく。
 なんと、天馬が呪印に冒され、新たな影鬼となりつつあった。
 ごくりと唾を飲んで後退りする絃を、天馬が手を伸ばして振り返る。
『い……絃…。早く……早ぐ俺を殺してぐれぇ……!! 』

「ピッピピー!」
 ピーちゃんの鳴き声が耳元で響き、絃ははっとして目を覚ました。額からは冷や汗が流れ、目の端には涙が溜まっていた。
 どうやら、絃がうなされているのに気づいたピーちゃんが起こしにきたようだ。
「ピーちゃん、ありがとう……」
 絃になでられ、ピーちゃんは気持ちよさそうな表情を見せている。
「あの夢の中の大きな鳥……。あれがピーちゃんの本当の姿なの?」
 問いかけてみるも、ピーちゃんは目をぱちくりとさせて首を傾げるだけ。それを見て絃にやっと笑みがこぼれた。
 しかし、夢の続きを思い出すと、気持ちはどんよりと重くなる。
「それにしても、また嫌な夢だった…」
 汗や涙を指で払う絃の表情は曇っていた。
 ――『そのときは、躊躇わずに俺を殺してほしい』
 あの言葉を天馬から告げられてから、絃は天馬が影鬼になってしまう夢を度々見るようになっていた。
 これはただの思い過ごしか、未来への暗示なのかはわからない。
 だがそのたびに、絃は『正夢にならないで』と心の中で願うしかなかった。
「ピピ…?」
 ピーちゃんが心配そうに絃の顔を覗き込む。それに気づいた絃は、気丈に振る舞った。
「先のことで悩んでても仕方ないよね。朝比奈様のお力になるために、わたしにできることは、ピーちゃんの本当の名前を思い出すことだよね」
 絃はピーちゃんを両手に乗せて見つめた。

 そして、前日の大雨が嘘のように気持ちよく晴れわたったある日。
「朝比奈様、おはようございます。朝食の準備ができました」
「おはよう。ありがとう、すぐに行く」
 部屋でいつものように朝の支度をする天馬の顔を見て、絃は今日もほっと胸をなで下ろす。
 平凡とはいえ、天馬といっしょに迎えられる朝が、どんなに幸せなことか。絃は日々、その思いを噛み締めていた。
 天馬は非番のため、いつもより朝食をゆっくりと済ませ、ふたりは食後のお茶を飲んで一服していた。
 すると、廊下からずんずんと向かってくる足音が聞こえた。
「ご機嫌よう! 元気にしていたかしら」
 勢いよくリビングのドアを開け放って現れたのは、涼しげな薄浅葱色の着物に身を包んだ長身の女性。
 ひとつにまとめて編み込まれた長い髪が胸元まで流れる。
 突然の見知らぬ女性の登場に驚く絃だったが、その女性は他の人には一切目もくれず絃のもとへとまっしぐらに突き進んできた。
「あなたが絃ちゃんねー!」
 そうして、なぜか絃は女性に熱い抱擁をされた。
 状況が理解できない絃が助けを求めるように天馬に視線を送ると、天馬はあきれたようにため息をついた。
「絃、すまない。おふくろだ」
 絃は目を丸くして、瞬時に顔を向ける。
「お……お母様!?」
「そうでーす! 天馬の母の静香です」
 静香はおどけたようにニッと笑ってみせた。
 常に冷静であまり表情に変化を見せない天馬とは違い、社交性を形にしたような朝比奈静香は、実に表情豊かだった。
 地方で起こった災害の現場で、治癒の異能で救護活動を行っていた静香だったが、そこでの仕事も落ち着いたため、ようやく屋敷へと戻ってきたのだ。
「おふくろ。突然帰ってくるなら、文でもよこしてくれたらいいだろう……」
「あら、あなたに言われたくはないわね。私が知らない間に結婚して。それこそ、文のひとつでもよこしてくれたらよかったんじゃないかしら?」
 静香は、菊江からの文で、天馬が〝絃〟という名の女性と結婚したことを知らされた。義理の娘に早く会いたいがために、仕事が終わるなり飛んで帰ってきたのだった。
「申し訳ございません、お母様……! 本来であれば、わたしが先に文なりでご挨拶をしなければならないところを――」
「いいの、いいの。絃ちゃんはなにも悪くないから気にしないで。天馬は昔から女っ気がない子だったから、私に伝えるのが恥ずかしかっただけでしょ」
 静香はニヤニヤしながら天馬の脇腹を肘で小突く。
「勘違いしないでもらいたいな。絃のことを知らせたら、今みたいに一目散に帰ってくるのがわかりきっていたからだ」
 煩わしそうに、天馬は静香の肘を振り払う。
 天馬の予想通り、静香は絃に興味津々。さらに、それで絃が戸惑って困り顔になることまでお見通しだった。
 そのあと、絃は静香の部屋へと招かれた。歩くとき手と足が同時に出るほど緊張していたが、気さくな静香に、いつの間にか会話を楽しんでいた。
 留守中に勝手に朝比奈家の嫁になり、屋敷に上がり込んだことを謝罪し、また自分が実は呪血であるということも、思い切って打ち明けた。
 ところが、静香はあっけらかんとしていた。
「呪血? 少し色が違うだけの血でしょ? 息子が選んだお嫁さんだもの、そんなの関係ないわ」
 絃は静香の微笑みに励まされた。
 天馬の同僚といい、静香といい、絃は差別されない環境があることを初めて知った。
「今までつらい経験をしてきたかもしれないけど、呪血だからって、あなたが卑屈になることなんてなにひとつないんだからね」
 柔らかく微笑む静香を見て、絃の顔にも思わず笑みがこぼれた。
 絃の母が生きていたとき、似たような言葉をかけてもらったのを思い出したのだ。
 初対面だというのに、静香の人の良さですっかり実の家族のように打ち解けてしまった。
 契約結婚のため、このような時間も今のうちだというのはわかっているが、『ここにいていい』と言われているような気がしたのだった。
「そうだ、絃ちゃん。私ので悪いのだけど、余っている着物がたくさんあるの。よかったら、もらってくれるかしら?」
 静香は部屋にあるタンスに視線を移した。
「そんな……! お母様の大切なお着物をわたしなんかがいただくわけには……」
「遠慮しないで〜。ついでに、このまま部屋まで運んであげるわね」
 何着もの着物を抱きかかえた静香が向かったのは、なぜか天馬の部屋。
 ドアを開けると、ソファに座って読書をしていた天馬が驚いたような顔を見せた。
「おふくろ? なにか用か?」
「絃ちゃんに着物をあげようと思ってね。どこに置いたらいいかしら」
 天馬は怪訝な表情を浮かべながら、読んでいた本を閉じた。
「それなら、絃の部屋に運べばいいだろう。どうしてわざわざ俺の部屋に」
「絃ちゃんの部屋って……。あなたたち、夫婦なのに別々の部屋で寝てるの?」
 何気ない静香の問いに、絃と天馬はぎこちなく顔を見合わせた。
 静香は不思議そうに首を傾け、交互にふたりの顔を覗き込む。
「べ、べつにいいだろ。部屋はたくさん余ってることだし」
「それはそうだけど、ここなら部屋もベッドも十分、広いじゃない。ふたりでいても余裕があるでしょ?」
 天馬の部屋は、ドアを開けた正面に向かい合わせのソファと、その奥に仕事用のデスクがある。デスクの左右の空間は、書斎スペースとクイーンサイズのベッドが置かれた寝室になっている。
 屋敷にある他の部屋の三倍ほどの広さがあり、ふたり、三人いたところで窮屈さはまったく感じない。
「それなのに、絃ちゃんを別の部屋に追いやるだなんて。絃ちゃんは立派な家族だっていうのに、未だにお客様扱いみたいなことして。天馬、ちょっと冷たいんじゃない?」
 静香に指摘され、天馬はなにか言いたげだったが、ぐっと堪えて口をつぐんだ。
 契約結婚のことを知らない静香にはなにも言えなかった。
「絃ちゃんはそれでいいの?」
「は、はい。実はわたし、非常に寝相が悪く、わたしから別々の部屋にしてほしいとお願いしたんです」
 天馬だけが悪く思われないように、絃はとっさに嘘をついた。
「あら、そうだったの? 確かに、それは大変ね。うちの主人もそうだったから」
 意外とあっさり信用した静香に、絃はほっと胸を撫で下ろす。
「でも、一度くらい試してみたら?」
 ところが、静香の突拍子もない提案に、絃と天馬は大きく目を見開く。
「試す……とは?」
 ふたりがつばをごくりと飲み込んだ音も、まるで息を合わせたようにピッタリだった。
「今晩だけでもいっしょの部屋で過ごしてみたら? もしかしたら、絃ちゃんの寝相もそれほど気にならないかもしれないし」
 ギョッとして顔を見合わせ、ふたりは頬を赤らめた。
「いや、だから……。俺たちはそういうのではなくて――」
「そういうのじゃないなら、なんなの? 絃ちゃんに失礼よ。それに、べつに一晩だけなんだからいいじゃない〜」
 嵐のように帰ってきた静香は、とんでもない提案をして絃と天馬を困惑させた。
 現当主の天馬に発言権があるとはいえ、口が達者な静香には言い負かされてしまうのだった。

 その夜、絃は天馬の部屋にいた。
「……絃、茶でも飲むか?」
「は、はい……! お願いしま――あっ、わたしが淹れますね」
 ふたりの会話はいつにも増してぎこちない。
 絃もぼうっとしていて、気づいたら湯飲みに溢れそうなほどにお茶が入っていた。
 天馬もソファに腰掛けることなく、忙しなく部屋中を歩き回っている。
「朝比奈様、お茶のご用意ができました」
「あ、ありがとう」
 絃と天馬は向かい合わせのソファにそれぞれ座っているが、恥ずかしがって目を合わせることもできない。
 いつもどのようにして振る舞っていただろうか、とふたりは同じことを考えていた。
「……すまない。押しが強い母親で」
「そんな…! 勝手に朝比奈家に住み着いたというのに、そんなわたしを快く受け入れてくださってうれしかったです」
 ようやく会話が弾んだかと思ったが結局それきりで、また沈黙する。部屋にはふたりがお茶をすする音しか響かない。
「絃、そろそろ寝ようか」
「そ……、そうですね!」
 慌てて湯飲みを片付ける絃だったが、振り返ると天馬はソファに横になっていた。
「朝比奈様、そこでなにを?」
「なにって、俺がソファで寝る。絃はベッドを使うといい」
「……いけません!朝比奈様のお部屋なのですから、わたしがそちらで寝ます!」
 絃は天馬の手を握って引っ張り、なんとしてでもソファから起き上がらせようとした。到底、絃の力では天馬は動かないが、一生懸命な絃を横目に見て、天馬はあきれたように息を大きく吐いた。
「それなら仕方ない。強硬手段に出るか」
 そう言うと、立ち上がった天馬は絃の体を抱きかかえた。
「……きゃっ」
 突然体が浮き、絃は小さな悲鳴を上げた。顔を上げると天馬と間近で目が合い、みるみる頬が赤くなっていくのがわかった。
 天馬は、すっかりおとなしくなった絃をベッドへと連れていく。
「絃はここで寝るんだ。少しは夫の言うことも聞いてくれると助かるのだが」
 眉尻を下げて困ったように微笑む天馬の瞳に思わずドキッとした絃は、恥ずかしそうにこくんと頷いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 部屋の明かりが消され、絃は布団にくるまって目を閉じた。
 天馬は離れたソファにいるというのに、布団や枕からは天馬の匂いがして、まるですぐそばでいっしょに眠っているかのようだった。
 天馬を意識すればするほど、心臓の鼓動が速くなり、結局、絃はその夜ほとんど眠れなかった。

「おはよう〜。昨日はよく眠れた?」
 次の日、朝一番に爽やかな笑顔で声をかけてきたのは静香だった。
 しかし、絃と天馬は虚ろな表情で苦笑した。
 実は、天馬も同じ部屋に絃がいることを意識して、なかなか眠れなかったのだった。
 静香には、天馬の歯ぎしりと絃の寝相の悪さでお互い眠れる状況ではなかったと作り話をしておいた。
「あら、そうだったの。ごめんね、絃ちゃん。天馬の歯ぎしりがそんなにひどいだなんて知らなくて」
「い、いえ」
 それなら仕方ない、と静香は別々の部屋で過ごすことに納得し、絃は安堵した。
 絃にとって静香は、気さくでよき話し相手だった。ふたりの関係は嫁姑というよりも、友人同士か年の離れた姉妹のようだ。
 菊江も知らない天馬の幼い頃の話なども聞けて、絃は、静香のいる屋敷での生活も楽しんでいた。
 しかし、もちろん困ったこともある。
「ふたりって、すぐに結婚に至ったわけだから、お互いになにか感じるものがあったのよね? ねぇねぇ、聞かせてよ〜」
 天馬と絃の馴れ初めの話を聞きたがったり――。
「見て見て、夫婦箸を買ってきたの。こっちはお揃いの湯飲み。かわいいでしょ?」
 頼んでもいないのに、夫婦らしい食器を揃えたり――。
 ふたりの結婚に一番盛り上がっていたのは静香だった。
「菊江。おふくろって、あんなにお節介だったか?」
「ふふふ、よいことではございませんか。大旦那様が亡くなられてから、あのように楽しそうな静香様を見るのは久々で、菊江はうれしゅうございます」
 それを聞いて、しばらくは静香がはしゃぐのに目をつむっていた天馬だが、さらに静香はなにかと世話を焼き、茶々を入れてくるものだから、ついに痺れを切らした。
「おふくろがいたら落ち着かない。絃、屋敷を出よう」
 突然の天馬の発言に、絃は驚いた。
「出ると言っても、どちらへ……?」
 絃は、屋敷から十分ほど歩いたところにある一軒の古民家に連れてこられた。
 長い間、人の手が入っていない空き家のようだが、それにしては庭の草木は手入れされていて、室内もそれほど埃っぽくはない。
「朝比奈様、ここは……?」
「昔、父方の祖父母が暮らしていた家だ。今はこの通り空き家だが、菊江が定期的に掃除をしにきてくれている」
 西条家や朝比奈家の屋敷と比べるとこじんまりとした小さな平屋だが、ふたりで暮らすにはちょうどいい大きさだった。
「も、もちろん部屋は別々だから、そこは安心してほしい」
 コホンと咳払いをする天馬を見て、絃は頬を緩めた。
「もし絃が気に入ってくれるなら、ふたりで暮らしてみないか。ここなら、うるさいおふくろもいないからゆっくりできる」
 すぐに、なにかと世話を焼いてくれる静香の姿が頭の中に浮かんだ。
「お母様がいらっしゃらないのは少し寂しいですが、素敵なお家ですね。気に入りました」
 満面の笑みの絃を見て、天馬は安心したように微笑んだ。
 こうして、絃と天馬はその平屋で暮らすことに決めた。
 静香にその旨を伝えると、まるで子どもみたいにいじけてしまった。
「せっかく絃ちゃんのいる暮らしが楽しかったのに、あっちに住んじゃうの?」
「いいだろう、べつに。屋敷から歩いてすぐなんだから」
 天馬は面倒くさそうに相づちを打ちながら、引っ越しの荷造りを始めた。
「それなら、毎日でも遊びにいこうかしら」
「断る。玄関に結界でも張っておこうか」
「まあ、失礼ね! 絃ちゃん、どう思う!?」
 静香と天馬のやり取りがおもしろく、絃はクスッと笑うのだった。

 空き家にはそのまま使えそうな家財道具が残されており、ふたりの身の回りの荷物を運ぶだけだったので、引っ越しにはそれほど時間はかからなかった。
 絃がその家の縁側の引き戸を開けると、南から太陽の光が降り注ぎ、八畳の茶の間を明るく照らした。
 部屋は、その茶の間とふたりそれぞれが使用する六畳の和室のみ。
 広い朝比奈家の屋敷では、天馬や使用人を見つけ出すのに苦労したことも多々あったが、今はすぐに顔を合わせられる距離の近さで、絃と天馬ははにかんだ。
 天馬の世話係の菊江は、今後はこちらの家に手伝いにくることになり、今は土間の掃き掃除をしている。
 天馬は庭の手入れ、絃は部屋中の拭き掃除に励んでいた。
 菊江が定期的に手入れしてくれていたおかげで、徹底した掃除も必要ではなかった。
「絃様。新しい雑巾を取りに、一旦屋敷に戻りますね」
「わかりました」
 絃は菊江を見送ると、再度腕まくりをした。
 そして、押し入れの中に見つけた踏み台を持ってくると、茶の間の柱のそばへと置いた。
 ずっと、針が止まったままの柱の掛け時計が気になっていたのだ。
「ネジを回したら動くかしら。その前にきれいにしてあげるから、ちょっと待っててね」
 絃は踏み台の上に乗ると、目一杯、時計に手を伸ばしたそのとき――。
 バランスを崩した絃が踏み台の上でよろけ、庭からそれを目撃した天馬が慌てて靴を脱ぎ捨てて茶の間に飛び込んできた。
「絃っ!」
 ぎゅっと目をつむった絃の耳に、天馬が名前を叫ぶ声が聞こえた。
 茶の間には、踏み台から落ちた絃が畳の上に倒れる大きな音が響いた。
 しかし、音の大きさのわりには、不思議と体に痛みがない。
 そう思いながら恐る恐るまぶたを開けると、すぐ目に飛び込んできた碧色の瞳の中には、状況を理解できずに瞬きを繰り返す絃の顔が映っている。
 なんと絃は、天馬の上に覆い被さるようにして倒れていたのだった。
 天馬とキスしそうなくらいの距離で目が合い、瞬時に顔が熱くなる。
「もっ……、申し訳ございません……!」
 絃は驚いて天馬の胸板に手をついて起き上がった。
「構わない。それよりも、怪我はないか」
 天馬も上半身を起こし、絃の頭を優しくなでた。
 恥ずかしさで顔を上げることができない絃は、黙って頷いた。
「踏み台から落ちかけた絃が視界に入ったとかは一瞬肝が冷えたが、無事ならよかった」
「……はい。ありがとうございます」
 同時に照れ笑いしながら、見つめ合っていると――。
「天馬には来るなって言われたけれど、おまんじゅう買ってきたからいっしょに食べましょー!」
 突然、縁側から声がし、絃と天馬は驚いて振り返った。
 そこにいたのは、おまんじゅうが入っていると思われる深緑の包装紙の箱を掲げた静香だった。
「……おふくろ!」
「お母様……!」
 絃と天馬は慌てて離れたが、ときすでに遅し。
「あらあら? あなたたち、とっても仲がよろしいのね」
 静香は目を丸くし、口元を手で覆ったが、ニヤリと緩んだ頬は隠せていない。
「いや、違う……! 今のは絃がっ」
「そ、そうなんです! わたしが踏み台から落ちそうになってしまって、それで朝比奈様が――」
「いいのよ、いいのよ。どうやら私はお邪魔のようね。おまんじゅう、ここに置いておくから、またあとで食べてね〜」
 静香はなにかを察してか、含み笑いをしながら去っていった。その察しが、ただの勘違いだとは気づかずに。
「……どうしましょう、朝比奈様。お母様、きっと誤解されていますよね」
「あの様子だと、そうだな。変に気を遣ったな」
「それなら、今から弁解してきます……!」
 そう言って、急いで静香のあとを追おうとした絃の手を天馬が掴んだ。
「べつに行く必要などない。好きに勘違いをさせておけばいいだろう」
「ですが、それでは……」
「なにも、見られてまずいことなんてないからな。端から見れば、俺たちはれっきとした夫婦なのだから」
 天馬のその言葉に、絃はぽっと顔を赤くした。
『必要なときだけ夫婦を演じてくれればいい』と言われた契約結婚だというのに、天馬の態度や言動は、まるで本当の夫婦かのような気にさせられてしまうのだった。
 その日のうちに、寝泊まりするには困らないくらいにまでは掃除や片付けを済ませた。
「朝比奈様、お茶とお母様からいただいたおまんじゅうをお持ちいたしました」
「ありがとう、絃」
 お盆を手にした絃が縁側で涼む天馬のところへやってきた。
 外からは夜風が吹き、絃の髪をなでていく。
「気持ちのいい風ですね」
「ああ。夏場、祖父母のところへ遊びにきては、よくここで涼みながら昼寝をしたものだ」
「それは心地いいでしょうね。それに、お月さまもきれいに見えそうです」
 今日は月は出ていないが、代わりに細かな星々が散りばめられた夜空が、縁側からよく見えた。
「そうだな。十五夜のときには月を見上げながら、こうして月見団子を祖父母と食べていたな」
 天馬は月見団子に見立てて、まんじゅうをひと口かじる。
「今の時期は……、たしかここから花火も見えたな」
「花火ですか?」
「ああ。毎年隣町で行われる夏祭りで、最後に花火が上がるんだ」
「へ〜、そうなのですね。わたし、まだ打ち上げ花火を見たことがなくて」
「そうか。今年はもう終わっただろうか。きれいだから、一度絃にも見てほしい――」
 そのとき、甲高い笛を吹いたかのような音が響き渡った。次の瞬間、空にぱっと明るい花が咲く。
 心臓にまで響く、ドンッという音と衝撃に、絃は驚いて目を丸くした。
 しかし、すぐに感嘆の声を漏らした。
「わあ〜、きれい!」
 思わず拍手する絃を見て、天馬は頬を緩めた。
「話をしていたら、今日がちょうどその祭りのようだな」
 それを皮切りに、二発目、三発目と次々に花火が上がった。絃はそのひとつひとつを食い入るようにして見つめる。
「わたしが思っていたよりもずっとずっとすごいです……! 打ち上げ花火って、こんなにも大きいのですね」
「俺も久々に見るが、なかなか迫力があるな。それにしても本当にきれいだ」
 そう言って、天馬が座り直して手をついたとき、その小指と絃の小指と重なった。
 とっさに反応して互いに手を引っ込めたが、ふたりの表情を赤い花火の光が照らし出した。
「本当に、今日ちょうど見られてよかった。俺にとっては……、これが最後の花火だろうから」
 そう、花火の光が消えるように儚い声で呟く天馬に、絃は言葉を詰まらせる。
 絃にとっては何気ない日常のひとこまでも、天馬にとってはそれが最後かもしれないと思ったら――。
 興奮気味に空を見上げていた絃が、しょんぼりとうつむいたことに天馬が気づく。
「ああ、すまない。しんみりさせるつもりはなかったんだ。これが最後の花火でも、絃と見る初めての花火になった。絃が俺の思い出を彩ってくれている。ありがとう」
「……そんな。わたしは、ただおそばにいることしかできず……」
「それでいい。いや、それがいいんだ。絃と結婚してから、毎日が本当に楽しい」
 口に出してすぐに、天馬は照れくさそうに片手で顔を覆った。それを見た絃もなぜか恥ずかしくなった。
「だから、自分でも驚いている。契約結婚のはずが、いつの間にか本気になってただなんて」
 ふと、聞こえた天馬の声――。
 一瞬、なにかの聞き間違いかと思った絃は、わずかな間、その場で固まった。
 いよいよ終盤に差し掛かり、何発もの花火が連続で打ち上げられ、昼のような明るさになった。
「うわあ、……すごい」
 圧巻の光景を、絃は食い入るようにして見ていた。
 そんな絃の横顔を見つめながら、天馬が呟いた。
「絃、好きだ」
 その瞬間、最も大きな花火が音を立てて打ち上がり、祭りの終わりを告げた。
 大迫力の花火に、絃は目を輝かせていた。
「すごかったな。とくに最後の花火が」
「はい、胸に響きました。……ところで、先ほどなにかおっしゃいましたか? すみません、花火の音で聞き取れなくて」
 絃は天馬の顔を覗き込んだが、天馬はゆっくりと首を横に振った。
「いいや、なにも言っていない」
「そう……ですか」

 天馬が花火の音に紛れてつぶやいた言葉――。
 本来であれば、絃に直接伝えたい。
 だが、いつ死ぬかもわからないというのに、絃の気持ちをかき乱したくはない。
 天馬は真実を心の中に隠し、残された時間のすべてを絃に捧げようとこのとき誓ったのだった。