季節はしとしとと雨が降り続き、梅雨の訪れを感じる六月中旬。
絃は目覚めた後、朝食の支度までの間の時間で身なりを整えていた。
櫛で髪をといて結び、菊江からもらった化粧道具で化粧を楽しむのが日課となっている。
もう西条家の長女兼使用人ではない。かの有名な朝比奈家当主の妻として、天馬が恥じないような妻になろうと自分を磨く絃は、この短期間で見違えるほど美しい女性へと成長していた。
天馬と夫婦になってから半月ほどが過ぎたが、これといって夫婦らしいことはなにもしていない。
朝夕の食事の時間をともに過ごすくらいで、部屋は別々のため、自室にこもってしまえばお互いの行動は一切わからない。
絃は朝起きてから天馬が帰ってくるまでの間、進んで使用人の手伝いをしていた。
「絃様。洗い物は菊江に任せて、お部屋でお寛ぎください」
「いえ。ご迷惑でなければ、わたしにもお手伝いさせてください」
今までがそうだったから、なにかしていないと落ち着かないのだ。
そのため、天馬との会話よりも、菊江やその他使用人と話す機会のほうが多かった。
もはや、自分はただの居候か朝比奈家の住み込み使用人ではないかと錯覚するときもある。
しかし、周囲から『奥様』と呼ばれるたび気恥ずかしくなり、一応は天馬の妻であることを自覚させられる。
西条家と違って、天馬や朝比奈家の使用人は呪血だからと絃を差別することなく接してくれる。その温かさに触れ、絃は徐々に気を許し、今ではピーちゃんも屋敷の敷地内であれば、自由に飛び回るようになっている。
「今日もピーちゃん、かわいいですね」
「ありがとうございます」
使用人にピーちゃんを褒められ、絃ははにかむ。
すっかり使用人たちとも顔なじみになったが、未だに会えていない人物がいる。
それは、朝比奈家前当主の妻――つまり天馬の母・静香だ。
「あの、朝比奈様のお母様はまだお帰りになられないのでしょうか」
「ええ。今回はいつもよりお戻りが遅いですが、大奥様はお忙しい方ですから」
使用人は絃に軽く説明すると去っていった。
天馬の襲名式にも参加予定だったが、治癒の異能を得意とする静香は、ひと月ほど前に地方で起こった地震の災害現場に向かってしまい、直前で急遽、欠席となり家を空けていた。
治癒の異能が必要とされる事件や事故が起こったと聞けば、後先など考えずに飛んで駆けつけるため、今も静香がいつ帰ってくるか、天馬ですらもわからないのだ。
菊江たち使用人からは、『静香はやさしい方』とは聞いてはいるが、帰ってきたら見ず知らずの女が屋敷に入り込んでいるという状況を、快くは思わないのでは、と絃は内心不安に思っていた。
「朝比奈様、お気をつけていってらっしゃいませ」
「ああ、いってくる」
今日も絃は天馬を見送ったあと、脱水済みの洗濯物を詰め込んだカゴを持って庭へとやってきた。
「ピピー!」
現れたピーちゃんは、絃が抱えていた真っ白いシーツの端をくちばしでくわえると、物干し竿を跨ぐようにして飛んでシーツをかけた。
「ピーちゃん、いつも手伝ってくれてありがとう」
絃は、肩に留まったピーちゃんの頬を指先でなでる。
気持ちよさそうに身を委ねるピーちゃんを見つめながら、絃は困ったように眉尻を下げた。
というのも、絃はここ最近、あることでずっと頭を悩ませていた。
それは、ピーちゃんの本当の名前について――。
ピーちゃんが四神・朱雀の姿に変化するには、絃が本当の名前を思い出す必要があるのだという。
朝比奈家の麒麟〝雷蹄〟のように、神使には一体一体に名前があり、契約した呪式と名前の一致で、口寄せにて具現化する。
しかし〝ピーちゃん〟とは、物心ついたときから絃が呼んでいる愛称であり、他にれっきとした名前があり、本来の姿もあるのだった。
そのため、絃はどうしても災厄の日までにピーちゃんの名前を思い出す必要があったが、母から教えられたであろう当時の記憶は失ったままだった。
「朱雀も加われば相当な戦力にはなるが、そもそもの絃の務めは俺の妻役だ。無理に思い出さなくてもいい。それが絃の精神的負担になってはいけないからな」
以前、母の死の話を聞いた天馬は絃にそう告げていた。
西条家であればなんとかその力を利用しようとするところ、天馬の優しさに甘え、絃は頭の片隅に入れつつも、いつもと変わらない生活を過ごしていた。
珍しい四神の神使か物心ついたときからそばにいて、自分が他とは違うことをここへきて知った絃だったが、それだけではなかった。
他の異能者のように血で呪式を書く手順を踏まずとも、ピーちゃんが好きなときに現れることができる口寄せは、絃にしかできない。
そんな特殊な口寄せを可能にしているのは、絃の体に施された呪式だった。
その呪式というのが、以前、絃が菊江に話した〝背中にある大きなアザ〟。
『……あの、わたし……背中に大きなアザがありまして……』
『かしこまりました。なるべく見ないようにいたしますね』
絃が長年アザだと思っていたものは、なんと特別な呪式だったのだ。
天馬の見立てとしては、両親が絃を守るようにとの思いを込めて、絃自身の体に封印したのだろうと。
また、四神の朱雀をそのまま託すと負荷がかかりすぎるため、仮の姿のピーちゃんにした。
西条家にいた頃は、佳代子や璃々子に奇妙なアザで気持ち悪いと罵られ、背中を隠すようにして生きてきた。
しかし、それが両親からの愛情の証だとわかった今は、鏡で背中が見えると絃は柔らかい微笑みをこぼすようになっていた。
「あらまあ、大変! どうしましょう」
そんな菊江の声が聞こえたので絃が目を向けると、庭の端で菊江ともうひとりの使用人が話している姿が見えた。
「どうかしましたか」
絃が駆け寄ると、菊江が困ったような顔を見せていた。
「ぼっちゃま、お弁当をお忘れになったようなのです」
玄関を掃除しようとした使用人が、下駄箱の上に弁当が置き忘れられているのを見つけて菊江に報告しにきたようだ。
「急に招集がかかって急いでお出になられましたし、仕方ありませんよ」
「それはそうですが……。ぼっちゃま、昔からお忘れ物が多いところがありまして」
菊江は、あきれたようにため息をつく。
「そうなのですか? わたしには、とてもしっかりされているように見えますが」
「今は随分とご成長なされましたが、子どもの頃は遠足の日にお弁当を忘れられることもありました。あとは、試験日に筆記用具を忘れられたり」
あのそつなくなんでもこなすと思っていた天馬が、実は抜けているところがあるというのは意外で、次から次へと出てくる天馬の忘れ物話に絃は唖然とした。
「確か、軍には食堂もあるのですよね? 今日はそちらで食事を済まされるでしょうし、よろしければお弁当はわたしがお昼にいただきますから」
絃がそう言うや否や、菊江は目をカッと見開く。
「いけません! 絃様が毎朝、早起きをして、丹精込めて作られているお弁当だというのに。それを忘れられるなんて、ぼっちゃまったらなんて罰当たりな!」
天馬が弁当を持参していると聞いてから、絃はせめてもの妻の働きとして菊江に代わって作るようになった。
料理は得意であるため、ただ好きで作っているだけで、天馬が屋敷に置き忘れようと絃はとくに思うことはなかったが、菊江が納得していない。
「菊江がお届けできたらいいのですが、お昼前に静香様のお客様がいらっしゃるので、代理でご対応を任されておりまして。他の者に任せるしか……」
菊江は頬杖をつきながらため息を漏らす。
すると、それを聞いた絃が遠慮がちに手を上げた。
「でしたら、わたしが直接、朝比奈様にお届けいたしましょうか?」
絃の提案に、菊江はきょとんとした。
「絃様が? よろしいのでしょうか」
「はい。その間、お屋敷のことは菊江さんたちにお願いすることにはなりますが……」
「それはもう、私どもにお任せください」
菊江はにっこりと微笑むと、絃に天馬の弁当箱を託した。
「で……でも、わたしなんかが軍に顔を出したらご迷惑でしょうか。やっぱり他の方のほうが……」
絃が自信なさそうに眉尻を下げと、その手を菊江ががっちりと握った。
「なにをおっしゃいますか。新妻の絃様が届けてくださるほうが、ぼっちゃまも喜ばれますよ」
――〝新妻〟。
その言葉に、絃はぽっと頬を赤く染めた。
こうして残りの家事は菊江たちに任せ、絃は軍の総本部がある帝都へ向かう支度をした。
迎えの車がやってくるとすぐに乗り込んだ絃の膝の上には、天馬の弁当が置かれている。
車に揺られること小一時間。
絃を乗せた車は、レンガがアーチ状に組まれた重厚な門の前で止まった。ここが軍の総本部。
帝都にくるのも初めてだというのに、門の向こう側に見える軍総本部の敷地は想像よりも遥かに広く、絃は息を呑んで佇んでいた。
「なにかご用ですか」
絃の姿を見つけた衛兵がすぐに声をかける。
「えっと、その……。お、夫にお弁当を届けに……」
〝夫〟という言葉を口にすると思いのほか恥ずかしく、絃はほんのり頬を赤くしてうつむく。
「それではこちらでお預かりしますので、所属部隊と氏名をお伝えいただけますか」
「はい。國防隊隊長――」
と、絃が言いかけたときだった。
「絃……!?」
名前が呼ばれて顔を上げると、そこには驚いた顔をした天馬が立っていた。
天馬に気づいた衛兵が慌てて敬礼をする。
「絃、もしかしてわざわざ弁当を……?」
「あ、はい。玄関にお忘れになっていたので、先ほど車で」
絃は天馬に弁当を差し出すと、にこりと微笑んだ。
「お〜い! ちょっと待てって〜!」
すると、どこからともなくそんな声が聞こえてきた。
絃が声のするほうを見ると、門の向こう側から天馬と同じ軍服を着た男が駆け足でやってきた。
高身長の天馬よりもさらに頭半分ほど高く、柔らかそうな赤みがかった茶色い長髪が特徴的だ。
「天馬、速すぎだって……」
「お前が遅いだけだ」
茶髪の男を見て天馬は小さく笑う。
息を整えた茶髪の男は、天馬のそばに立っていた絃の存在に気づいた。
「あれ? そちらの方は?」
「あ……、わたしは――」
「俺の妻の絃だ」
そう言って、天馬は絃の肩に手を回しそっと抱き寄せた。突然のことに、絃は顔がカッと熱くなった。
「……えっ! この人が天馬のお嫁さん!?」
絃は赤べこのように、黙って首をこくんこくんと振る。
すると、茶髪の男が絃の手を取った。
「わー! うれしいな。一度お会いしたかったんですよ。オレの名前は、穂積拓郎。天馬の部下です」
「朝比奈様の部下の方……」
初対面とは思えない距離の詰め方の穂積にドギマギする絃。
それを見て、天馬は絃の手を握る穂積の手を振り払った。
「部下は部下だが、國防隊副隊長だ。おちゃらけてはいるが、俺の次に力ある異能者だ」
天馬の紹介に、穂積は絃にピースしてみせる。
「……あと、子供っぽいところもあるが、俺よりも三つ年上のいい歳をしたおじさんだ」
「おいっ、おじさんって! まだ二十六だからな」
ふたりのやり取りを見て、絃は思わずクスッと笑った。
天馬と穂積は同期で、入隊当時から共に切磋琢磨してきた仲。穂積は天馬と兄弟のように親しくしている一方、隊長として尊敬もしている。
「とりあえず、こんなやつだが使えることは使える」
「なんだよ、その言い方。オレにすっげー信頼置いてるくせに」
「自分で言うな」
穂積のほうが三つも上のはずだが、これだとどちらが年上かわからない。
「絃さん。天馬って、家でもこんな感じですましてるの?」
「そうですね、すましているというか……」
「今日だってね、弁当忘れたことに気づいて朝からパニック。ようやく時間見つけて、今から取りに戻るんだって言ってたところだったんだよ」
「わざわざ、お弁当を取りに……?」
絃が目を向けると、天馬は恥ずかしそうに顔を背けた。
「……弁当がないと、俺の昼飯がないだろう。俺の神使のハヤブサなら、屋敷まですぐに運んでくれるからな」
天馬が、聞こえるか聞こえないかの声でもごもごと話していると、その天馬の背中を思いきり穂積が叩いた。
「そんなこと言っちゃって〜。天馬のやつ、食堂よりも嫁の弁当のほうがうまいって、ここ最近、ずっと言ってるんだよ」
「バカッ。それを今、絃の前で言わなくても……!」
うろたえる天馬を見て、穂積はニヤニヤする。
こんなふうに誰かとじゃれ合う天馬の姿は初めてで、絃の顔にも笑みがこぼれた。
「絃、なにを笑っている」
「いえ、なんでもありません」
新しい天馬の一面を知ることができたこと、実は弁当を喜んでくれていたことを知って、絃はうれしくなった。
「絃さん。ちょうど今、うちの隊が演習場で訓練してるところなんですよ。よかったら見に行きませんか?」
「わたしが行ってもよろしいのですか」
「そうだな。せっかくだから案内しよう」
絃は天馬と穂積に連れられて、國防隊の演習場へとやってきた。そこでは、一対一で、さまざまな異能を使った実戦訓練が行われていた。
模造刀に異能の技をまとわせ攻撃を繰り出したり、身体能力を上げる異能で相手を翻弄したりする。
また、口寄せで呼び出した神使同士の対決は迫力があり、両者一歩も譲らない激しい戦いに絃は息を呑んだ。
「すごいですね、皆さん。こうして、この國の平和が守られているのですね」
「いつ影鬼の通報が入るかもわからないからな。いざというときのために、体が鈍らないよう日々訓練している」
天馬と絃は、少し離れたところから訓練の様子を眺めていた。
ちょうど実戦訓練に決着が着いたところで、穂積が手を叩きながら隊員たちのもとへ向かった。
「お疲れさん! 一旦休憩を挟もうか。それに、みんなに紹介したい人もいるしな」
そうして、ニッと口角を上げた穂積が振り返る。その穂積の視線をたどるように隊員たちも顔を向けた。
軍敷地内において、着物姿の絃はすぐに隊員たちの目に留まった。
「隊長の隣にいるあの人は……」
「……えっ! もしかして!」
隊員たちの反応に、なぜか穂積が満足そうに微笑んでいる。
「そうだ! お前たちの想像の通り、彼女は朝比奈隊長の奥様だ」
その報告に周囲はどよめく。
「朝比奈隊長が結婚したって本当だったんだ! しかも、すっげー美人」
「実はおれ、さっきからずっと気になってたんだよな。隊長が女の人といるところなんて初めて見たから」
一気に注目を浴びた絃は、緊張でその場で固まってしまった。
隊員たちが天馬と絃のところへ駆け寄ってくる。
「い……絃と申します。今日は朝比奈様にお弁当をお届けして……」
「〝朝比奈様〟?」
夫婦にしては不自然な呼び名に、隊員たちは首を傾げた。そばにいた天馬がコホンと咳払いをしたので、絃ははっとして気づく。
「あっ、その……。忘れたお弁当を届けに参りました…! いつも夫がお世話になっております」
なんとかごまかそうとあたふたする絃を見て、天馬は頬を緩めた。
「あれ? 絃さん、指を怪我されていませんか?」
そのとき、ひとりの隊員が絃の右手人差し指の小さな切り傷に気づいた。
「そうなんです。今朝、洗い物をしているときにお皿を落としてしまって、その破片で……」
「ちゃんと手当てはされましたか? よかったら見せてください」
そう言って、隊員が絃の手に触れようとしたとき。
「……やめてください!」
絃は反射的に隊員の手を振り払った。隊員たちの
あっけに取られた視線に気づいて、絃は我に返った。
「ご、ごめんなさい……。その……、本当に大した傷ではないので……」
絃は怪我をした指を包み込むようにしてうつむき、怯えるように小刻みに体を震わせた
それを悟った天馬が優しい声で絃に囁く。
「絃、怖がることはない。大丈夫だ」
「ですが……」
不安げに天馬を見つめた絃だが、天馬に促されてゆっくりと人差し指を包んでいた手を開いた。
傷口には、わずかに黒い血が滲んでいる。
この血のせいで、これまで触れることを拒絶された経験が何度もあった。そんな人々の嫌悪の表情が脳裏に浮かび、絃はとっさに隊員の手を振り払ってしまったのだった。
呪血への反応を恐れた絃だったが、驚いたことに隊員たちの表情は一切変わらなかった。
「まだ少しだけ血が出ていますね。絆創膏を貼ったほうがいいですよ」
「おれ、持ってきますね!」
嫌悪するどころか、心配そうに労ってくれる隊員たちを見て、絃は拍子抜けした。
「あの……、この血が恐ろしくはないのですか?」
「恐ろしい? 呪血が? ただの血じゃないですか〜」
心配をよそに、笑ってみせる隊員たちに、絃は目を丸くした。その顔を見た天馬が静かに頷く。
「俺の言った通りだろ? 軍の者……とくに俺の部下は、血の色で差別するような愚かな者たちではないからな」
呪血で生まれた以上、なるべく目立たぬように生きていくしかないと思い込んでいたが、天馬やその周囲の人々と出会い、自分がこれまで住んでいた世界はちっぽけなものだったことを絃は知った。
「なんだかわたし……、勝手に勘違いしてしまってすみませんでした」
絃は、穂積や他の隊員たちに向かって頭を下げた。
「絃さんが謝ることじゃないよ。それに理不尽に差別される気持ち、オレもちょっとはわかるからさ」
「穂積さんが?」
絃にウインクしてみせる穂積は陽気そうで、悩み事を抱えているような人間には見えない。
「よーし! それじゃあ、だれかオレと勝負してくれ」
そう言って、穂積は部下たちを引き連れていった。
「朝比奈様。穂積さんのさっきの言葉……」
「まあ、見ていたらわかるさ」
天馬は、演習場に入った穂積へ視線を促した。その様子に絃は目を見開く。
さっきまでは一対一で行われていた実戦訓練だが、十人の隊員たちが穂積を取り囲むようにして構えていた。
「もしかして、穂積さんおひとりで十人の相手を?」
隊員たちはそれぞれ神使を口寄せしたので、穂積は十人と十体を相手にすることになる。
どう考えても不利な状況だが、穂積が使うのは模造刀一本だけで口寄せはしない。
「どうして、穂積さんは神使を使われないのですか」
「穂積は〝使わない〟んじゃない。〝使えない〟んだ」
「……え?」
唖然とする絃に天馬は語った。
影鬼の討伐が職務とされる國防隊において、神使は戦闘の重要なパートナーである。しかし口寄せができないとなると、その身ひとつで戦わなければならない。
すなわち自らの体で直接、影鬼に攻撃を与える必要があるため、傷を負わされる危険性も格段に高くなるのだ。
ところが穂積はそんなリスクはものともせず、戦闘では影鬼を次々と斬り裂いてきた。
その活躍が認められ、穂積は神使のいない異能者としては異例中の異例で、今の地位についたのだ。
人並み外れた身体能力に恵まれたことは利点ではあるが、口寄せ以外の異能と戦闘能力は、厳しい修行と努力の積み重ねで獲得したものばかり。
ここまで穂積を強くしたのは、『異能者なのに口寄せができない』と蔑まれた過去があったからだった。
「影鬼討伐において、神使は必要な不可欠な存在だ。だから、神使を扱えない我が身を何度も呪ったそうだ」
「あの穂積さんが……」
「だが、あいつは諦めなかった。副隊長としてふさわしい力を持っていると誰もが認めている」
今の穂積を見る限り、そんなつらい過去があったとは想像もできないが、呪血以外でもそうした差別を受ける者たちはいた。
天馬から穂積の話を聞かされ、絃は自分のことのように胸がぎゅっと締めつけられた。
しかし改めて穂積に目を向けると、十人の部下と十体の神使を相手に痛快に戦っていた。ハンデなどもろともしていない立ち回りだ。
「穂積さん、本当にお強いのですね」
「そうだな。俺の背中を預けることができる唯一の存在だ」
絃は、穂積をまっすぐに見つめる天馬の瞳に見惚れた。
「朝比奈様。菊江さんたちに屋敷のことをお任せしているので、わたしはそろそろ戻ろうと思います」
「そうか。外の大通りで、帰りの車を拾うといい」
「はい。そうさせてもらいます」
絃は天馬に連れられ、正面玄関へと向かう。
しかしその途中、突然、背筋にゾクッと悪寒が走った。
はっとして振り返ると、少し離れた場所に薄暗い建物が見えた。その建物に続いている雑木林の道は、鉄柵の門で固く閉ざされている。
「朝比奈様、あれも軍の建物ですか…?」
その建物が纏う不気味な雰囲気に絃は怯え、声を震わせながら尋ねると、天馬は唇を噛み締め絃から視線をそらして答えた。
「あれは、……病院だ」
「病院? でも、どうしてあんな目立たないところに……」
「地下に隔離施設もあるからだ。影鬼に襲われた人々が収容されている」
それを聞いて、絃は先ほどの悪寒に納得した。
影鬼により傷を負わされ呪印が表れたとしても、すぐに影鬼になるわけではない。個人差はあるが、早くて数日から数ヶ月かけて呪印に体を蝕まれ、いずれ完全な影鬼へと変化する。
呪印が刻まれた人々を放置しては、いつ影鬼になるかもわからないため、治療のため隔離施設のあるこの軍の病院に移されるのだ。
しかし現在、治療法は見つかっていないため、効果のありそうな臨床試験の結果を試しつつ、あの建物で最後のときが訪れるのを待つしかないというのが現状。
「今もあそこで、呪印に苦しまれている方々がいらっしゃるのですね……」
「ああ。患者の様子を見にいくたび、胸が張り裂けそうになる。ここにいては気が滅入るだろう。早く外へ――」
そう言いかけた天馬が、なにかを察して瞬時に振り返った。絃もなにか嫌な気配がしたのがわかった。
天馬は絃を自分の背中に隠し、ゆっくりと腰の刀を引き抜いた。
絃が天馬の背中から恐る恐る顔を覗かせると、鉄柵の門を黒い塊がよじ登ろうとしているのが見えた。
黒い塊は、鋭い爪が伸びた異様に長い手足を使って門から飛び降りると、長い舌を垂らしながらぎこちない二足歩行で天馬と絃のもとへゆっくりと向かってくる。
「ギギギギ……」
歯ぎしりのような声を出し、姿だけでなく禍々しい気配をも纏う〝それ〟は影鬼だった。
「影鬼……!? どうしてこんなところに……」
半鬼化した天馬とは比べものにならないくらいの恐ろしい姿の影鬼を目の当たりにし、絃は恐怖で言葉に詰まる。
「軍の敷地内は結界で囲われていて、外からは入ってこられない。となると、なにかの手違いで隔離施設から患者が脱走したとしか考えられないな」
天馬は刀に雷の異能をまとわせると、目にも留まらぬ速さで影鬼を斬り裂いた。
目の前で灰となって散っていく影鬼を見て、絃は腰が抜けてその場でへたり込んでしまった。
その後、すぐに天馬が応援を呼んで隔離施設に確認に行くと、やはり患者のひとりが突如として影鬼となって逃走したと報告を受けた。
不幸中の幸いで、施設職員に被害はなかった。
「……あの影鬼も、ついさっきまでは普通の人だったのですね」
動揺を隠せない絃をひとりで帰らせるわけにもいかず、天馬はしばらくの間そばに寄り添っていた。
「そうだ。だが、だからといって躊躇してはいけない。大切な家族や友人が次の被害者にならないように、影鬼の討伐は絶対だ」
「……わかっています。わかっていますが……」
絃は頭では理解しているが、心が追いついていなかった。
「それに、影鬼に乗っ取られた体から解放してやらなくては、その人の魂は一生浄化されない」
そう言って、影鬼を斬った刀をじっと見つめる天馬の顔は険しかった。
助けられるものなら助けたい。だが、今は治療法はない。
新たな犠牲者が出る前に斬らなくてはならない。
それが、國防隊に課せられた任務。
自然発生的に生まれた影鬼ならともかく、本来は人であった影鬼を滅することには天馬でさえも葛藤があった。
「だから絃、約束してほしい」
天馬は、まだ足に力が入らずへたり込んでいる絃の前へ、視線を合わせるようにしてしゃがんだ。
「いずれ俺の全身が呪印に蝕まれ、自害する暇もなく影鬼になったそのときは……」
天馬のまっすぐなまなざしが絃を捉える。だが、絃はその瞳を見つめ返すことができなかった。
なぜなら、そのあとに続く言葉がわかってしまったからだ。
「そのときは、躊躇わずに俺を殺してほしい」
天馬は絃の手を握りながら穏やかな表情で見つめるが、絃は直視できずにうつむいてしまう。同時に、絃の頬を涙が伝う。
こんな約束など交わしたくなかった。
偽物の夫婦ではあるが、少なくとも絃は天馬と結婚してから毎日が楽しくて仕方がなかった。
今ある幸せがずっと続くのでは、と錯覚するほどであったが、天馬の命の期限は刻一刻と近づいている。
その天馬の最期の願いが、不測の事態が起こったときは絃の手で葬られることだが――。
「……いやです! そんな約束はできません!」
絃は天馬の手を振り払い、腕を伸ばすと、ぎゅっと天馬を抱きしめた。
「生きてください……! わたしは嘘でも偽りでも構いませんので、これからも朝比奈様のおそばにいたいのです……!」
絃の心の叫びに、天馬は深く驚いていた。
いつ影鬼になるかもわからない自分は、もはや人間とは言い難く、絃に恐れられていると思っていたからだ。
天馬は、自分の胸板に顔を埋めて泣きじゃくる絃の姿に胸を打たれ、気づくとそっと抱きしめていたのだった。
絃は目覚めた後、朝食の支度までの間の時間で身なりを整えていた。
櫛で髪をといて結び、菊江からもらった化粧道具で化粧を楽しむのが日課となっている。
もう西条家の長女兼使用人ではない。かの有名な朝比奈家当主の妻として、天馬が恥じないような妻になろうと自分を磨く絃は、この短期間で見違えるほど美しい女性へと成長していた。
天馬と夫婦になってから半月ほどが過ぎたが、これといって夫婦らしいことはなにもしていない。
朝夕の食事の時間をともに過ごすくらいで、部屋は別々のため、自室にこもってしまえばお互いの行動は一切わからない。
絃は朝起きてから天馬が帰ってくるまでの間、進んで使用人の手伝いをしていた。
「絃様。洗い物は菊江に任せて、お部屋でお寛ぎください」
「いえ。ご迷惑でなければ、わたしにもお手伝いさせてください」
今までがそうだったから、なにかしていないと落ち着かないのだ。
そのため、天馬との会話よりも、菊江やその他使用人と話す機会のほうが多かった。
もはや、自分はただの居候か朝比奈家の住み込み使用人ではないかと錯覚するときもある。
しかし、周囲から『奥様』と呼ばれるたび気恥ずかしくなり、一応は天馬の妻であることを自覚させられる。
西条家と違って、天馬や朝比奈家の使用人は呪血だからと絃を差別することなく接してくれる。その温かさに触れ、絃は徐々に気を許し、今ではピーちゃんも屋敷の敷地内であれば、自由に飛び回るようになっている。
「今日もピーちゃん、かわいいですね」
「ありがとうございます」
使用人にピーちゃんを褒められ、絃ははにかむ。
すっかり使用人たちとも顔なじみになったが、未だに会えていない人物がいる。
それは、朝比奈家前当主の妻――つまり天馬の母・静香だ。
「あの、朝比奈様のお母様はまだお帰りになられないのでしょうか」
「ええ。今回はいつもよりお戻りが遅いですが、大奥様はお忙しい方ですから」
使用人は絃に軽く説明すると去っていった。
天馬の襲名式にも参加予定だったが、治癒の異能を得意とする静香は、ひと月ほど前に地方で起こった地震の災害現場に向かってしまい、直前で急遽、欠席となり家を空けていた。
治癒の異能が必要とされる事件や事故が起こったと聞けば、後先など考えずに飛んで駆けつけるため、今も静香がいつ帰ってくるか、天馬ですらもわからないのだ。
菊江たち使用人からは、『静香はやさしい方』とは聞いてはいるが、帰ってきたら見ず知らずの女が屋敷に入り込んでいるという状況を、快くは思わないのでは、と絃は内心不安に思っていた。
「朝比奈様、お気をつけていってらっしゃいませ」
「ああ、いってくる」
今日も絃は天馬を見送ったあと、脱水済みの洗濯物を詰め込んだカゴを持って庭へとやってきた。
「ピピー!」
現れたピーちゃんは、絃が抱えていた真っ白いシーツの端をくちばしでくわえると、物干し竿を跨ぐようにして飛んでシーツをかけた。
「ピーちゃん、いつも手伝ってくれてありがとう」
絃は、肩に留まったピーちゃんの頬を指先でなでる。
気持ちよさそうに身を委ねるピーちゃんを見つめながら、絃は困ったように眉尻を下げた。
というのも、絃はここ最近、あることでずっと頭を悩ませていた。
それは、ピーちゃんの本当の名前について――。
ピーちゃんが四神・朱雀の姿に変化するには、絃が本当の名前を思い出す必要があるのだという。
朝比奈家の麒麟〝雷蹄〟のように、神使には一体一体に名前があり、契約した呪式と名前の一致で、口寄せにて具現化する。
しかし〝ピーちゃん〟とは、物心ついたときから絃が呼んでいる愛称であり、他にれっきとした名前があり、本来の姿もあるのだった。
そのため、絃はどうしても災厄の日までにピーちゃんの名前を思い出す必要があったが、母から教えられたであろう当時の記憶は失ったままだった。
「朱雀も加われば相当な戦力にはなるが、そもそもの絃の務めは俺の妻役だ。無理に思い出さなくてもいい。それが絃の精神的負担になってはいけないからな」
以前、母の死の話を聞いた天馬は絃にそう告げていた。
西条家であればなんとかその力を利用しようとするところ、天馬の優しさに甘え、絃は頭の片隅に入れつつも、いつもと変わらない生活を過ごしていた。
珍しい四神の神使か物心ついたときからそばにいて、自分が他とは違うことをここへきて知った絃だったが、それだけではなかった。
他の異能者のように血で呪式を書く手順を踏まずとも、ピーちゃんが好きなときに現れることができる口寄せは、絃にしかできない。
そんな特殊な口寄せを可能にしているのは、絃の体に施された呪式だった。
その呪式というのが、以前、絃が菊江に話した〝背中にある大きなアザ〟。
『……あの、わたし……背中に大きなアザがありまして……』
『かしこまりました。なるべく見ないようにいたしますね』
絃が長年アザだと思っていたものは、なんと特別な呪式だったのだ。
天馬の見立てとしては、両親が絃を守るようにとの思いを込めて、絃自身の体に封印したのだろうと。
また、四神の朱雀をそのまま託すと負荷がかかりすぎるため、仮の姿のピーちゃんにした。
西条家にいた頃は、佳代子や璃々子に奇妙なアザで気持ち悪いと罵られ、背中を隠すようにして生きてきた。
しかし、それが両親からの愛情の証だとわかった今は、鏡で背中が見えると絃は柔らかい微笑みをこぼすようになっていた。
「あらまあ、大変! どうしましょう」
そんな菊江の声が聞こえたので絃が目を向けると、庭の端で菊江ともうひとりの使用人が話している姿が見えた。
「どうかしましたか」
絃が駆け寄ると、菊江が困ったような顔を見せていた。
「ぼっちゃま、お弁当をお忘れになったようなのです」
玄関を掃除しようとした使用人が、下駄箱の上に弁当が置き忘れられているのを見つけて菊江に報告しにきたようだ。
「急に招集がかかって急いでお出になられましたし、仕方ありませんよ」
「それはそうですが……。ぼっちゃま、昔からお忘れ物が多いところがありまして」
菊江は、あきれたようにため息をつく。
「そうなのですか? わたしには、とてもしっかりされているように見えますが」
「今は随分とご成長なされましたが、子どもの頃は遠足の日にお弁当を忘れられることもありました。あとは、試験日に筆記用具を忘れられたり」
あのそつなくなんでもこなすと思っていた天馬が、実は抜けているところがあるというのは意外で、次から次へと出てくる天馬の忘れ物話に絃は唖然とした。
「確か、軍には食堂もあるのですよね? 今日はそちらで食事を済まされるでしょうし、よろしければお弁当はわたしがお昼にいただきますから」
絃がそう言うや否や、菊江は目をカッと見開く。
「いけません! 絃様が毎朝、早起きをして、丹精込めて作られているお弁当だというのに。それを忘れられるなんて、ぼっちゃまったらなんて罰当たりな!」
天馬が弁当を持参していると聞いてから、絃はせめてもの妻の働きとして菊江に代わって作るようになった。
料理は得意であるため、ただ好きで作っているだけで、天馬が屋敷に置き忘れようと絃はとくに思うことはなかったが、菊江が納得していない。
「菊江がお届けできたらいいのですが、お昼前に静香様のお客様がいらっしゃるので、代理でご対応を任されておりまして。他の者に任せるしか……」
菊江は頬杖をつきながらため息を漏らす。
すると、それを聞いた絃が遠慮がちに手を上げた。
「でしたら、わたしが直接、朝比奈様にお届けいたしましょうか?」
絃の提案に、菊江はきょとんとした。
「絃様が? よろしいのでしょうか」
「はい。その間、お屋敷のことは菊江さんたちにお願いすることにはなりますが……」
「それはもう、私どもにお任せください」
菊江はにっこりと微笑むと、絃に天馬の弁当箱を託した。
「で……でも、わたしなんかが軍に顔を出したらご迷惑でしょうか。やっぱり他の方のほうが……」
絃が自信なさそうに眉尻を下げと、その手を菊江ががっちりと握った。
「なにをおっしゃいますか。新妻の絃様が届けてくださるほうが、ぼっちゃまも喜ばれますよ」
――〝新妻〟。
その言葉に、絃はぽっと頬を赤く染めた。
こうして残りの家事は菊江たちに任せ、絃は軍の総本部がある帝都へ向かう支度をした。
迎えの車がやってくるとすぐに乗り込んだ絃の膝の上には、天馬の弁当が置かれている。
車に揺られること小一時間。
絃を乗せた車は、レンガがアーチ状に組まれた重厚な門の前で止まった。ここが軍の総本部。
帝都にくるのも初めてだというのに、門の向こう側に見える軍総本部の敷地は想像よりも遥かに広く、絃は息を呑んで佇んでいた。
「なにかご用ですか」
絃の姿を見つけた衛兵がすぐに声をかける。
「えっと、その……。お、夫にお弁当を届けに……」
〝夫〟という言葉を口にすると思いのほか恥ずかしく、絃はほんのり頬を赤くしてうつむく。
「それではこちらでお預かりしますので、所属部隊と氏名をお伝えいただけますか」
「はい。國防隊隊長――」
と、絃が言いかけたときだった。
「絃……!?」
名前が呼ばれて顔を上げると、そこには驚いた顔をした天馬が立っていた。
天馬に気づいた衛兵が慌てて敬礼をする。
「絃、もしかしてわざわざ弁当を……?」
「あ、はい。玄関にお忘れになっていたので、先ほど車で」
絃は天馬に弁当を差し出すと、にこりと微笑んだ。
「お〜い! ちょっと待てって〜!」
すると、どこからともなくそんな声が聞こえてきた。
絃が声のするほうを見ると、門の向こう側から天馬と同じ軍服を着た男が駆け足でやってきた。
高身長の天馬よりもさらに頭半分ほど高く、柔らかそうな赤みがかった茶色い長髪が特徴的だ。
「天馬、速すぎだって……」
「お前が遅いだけだ」
茶髪の男を見て天馬は小さく笑う。
息を整えた茶髪の男は、天馬のそばに立っていた絃の存在に気づいた。
「あれ? そちらの方は?」
「あ……、わたしは――」
「俺の妻の絃だ」
そう言って、天馬は絃の肩に手を回しそっと抱き寄せた。突然のことに、絃は顔がカッと熱くなった。
「……えっ! この人が天馬のお嫁さん!?」
絃は赤べこのように、黙って首をこくんこくんと振る。
すると、茶髪の男が絃の手を取った。
「わー! うれしいな。一度お会いしたかったんですよ。オレの名前は、穂積拓郎。天馬の部下です」
「朝比奈様の部下の方……」
初対面とは思えない距離の詰め方の穂積にドギマギする絃。
それを見て、天馬は絃の手を握る穂積の手を振り払った。
「部下は部下だが、國防隊副隊長だ。おちゃらけてはいるが、俺の次に力ある異能者だ」
天馬の紹介に、穂積は絃にピースしてみせる。
「……あと、子供っぽいところもあるが、俺よりも三つ年上のいい歳をしたおじさんだ」
「おいっ、おじさんって! まだ二十六だからな」
ふたりのやり取りを見て、絃は思わずクスッと笑った。
天馬と穂積は同期で、入隊当時から共に切磋琢磨してきた仲。穂積は天馬と兄弟のように親しくしている一方、隊長として尊敬もしている。
「とりあえず、こんなやつだが使えることは使える」
「なんだよ、その言い方。オレにすっげー信頼置いてるくせに」
「自分で言うな」
穂積のほうが三つも上のはずだが、これだとどちらが年上かわからない。
「絃さん。天馬って、家でもこんな感じですましてるの?」
「そうですね、すましているというか……」
「今日だってね、弁当忘れたことに気づいて朝からパニック。ようやく時間見つけて、今から取りに戻るんだって言ってたところだったんだよ」
「わざわざ、お弁当を取りに……?」
絃が目を向けると、天馬は恥ずかしそうに顔を背けた。
「……弁当がないと、俺の昼飯がないだろう。俺の神使のハヤブサなら、屋敷まですぐに運んでくれるからな」
天馬が、聞こえるか聞こえないかの声でもごもごと話していると、その天馬の背中を思いきり穂積が叩いた。
「そんなこと言っちゃって〜。天馬のやつ、食堂よりも嫁の弁当のほうがうまいって、ここ最近、ずっと言ってるんだよ」
「バカッ。それを今、絃の前で言わなくても……!」
うろたえる天馬を見て、穂積はニヤニヤする。
こんなふうに誰かとじゃれ合う天馬の姿は初めてで、絃の顔にも笑みがこぼれた。
「絃、なにを笑っている」
「いえ、なんでもありません」
新しい天馬の一面を知ることができたこと、実は弁当を喜んでくれていたことを知って、絃はうれしくなった。
「絃さん。ちょうど今、うちの隊が演習場で訓練してるところなんですよ。よかったら見に行きませんか?」
「わたしが行ってもよろしいのですか」
「そうだな。せっかくだから案内しよう」
絃は天馬と穂積に連れられて、國防隊の演習場へとやってきた。そこでは、一対一で、さまざまな異能を使った実戦訓練が行われていた。
模造刀に異能の技をまとわせ攻撃を繰り出したり、身体能力を上げる異能で相手を翻弄したりする。
また、口寄せで呼び出した神使同士の対決は迫力があり、両者一歩も譲らない激しい戦いに絃は息を呑んだ。
「すごいですね、皆さん。こうして、この國の平和が守られているのですね」
「いつ影鬼の通報が入るかもわからないからな。いざというときのために、体が鈍らないよう日々訓練している」
天馬と絃は、少し離れたところから訓練の様子を眺めていた。
ちょうど実戦訓練に決着が着いたところで、穂積が手を叩きながら隊員たちのもとへ向かった。
「お疲れさん! 一旦休憩を挟もうか。それに、みんなに紹介したい人もいるしな」
そうして、ニッと口角を上げた穂積が振り返る。その穂積の視線をたどるように隊員たちも顔を向けた。
軍敷地内において、着物姿の絃はすぐに隊員たちの目に留まった。
「隊長の隣にいるあの人は……」
「……えっ! もしかして!」
隊員たちの反応に、なぜか穂積が満足そうに微笑んでいる。
「そうだ! お前たちの想像の通り、彼女は朝比奈隊長の奥様だ」
その報告に周囲はどよめく。
「朝比奈隊長が結婚したって本当だったんだ! しかも、すっげー美人」
「実はおれ、さっきからずっと気になってたんだよな。隊長が女の人といるところなんて初めて見たから」
一気に注目を浴びた絃は、緊張でその場で固まってしまった。
隊員たちが天馬と絃のところへ駆け寄ってくる。
「い……絃と申します。今日は朝比奈様にお弁当をお届けして……」
「〝朝比奈様〟?」
夫婦にしては不自然な呼び名に、隊員たちは首を傾げた。そばにいた天馬がコホンと咳払いをしたので、絃ははっとして気づく。
「あっ、その……。忘れたお弁当を届けに参りました…! いつも夫がお世話になっております」
なんとかごまかそうとあたふたする絃を見て、天馬は頬を緩めた。
「あれ? 絃さん、指を怪我されていませんか?」
そのとき、ひとりの隊員が絃の右手人差し指の小さな切り傷に気づいた。
「そうなんです。今朝、洗い物をしているときにお皿を落としてしまって、その破片で……」
「ちゃんと手当てはされましたか? よかったら見せてください」
そう言って、隊員が絃の手に触れようとしたとき。
「……やめてください!」
絃は反射的に隊員の手を振り払った。隊員たちの
あっけに取られた視線に気づいて、絃は我に返った。
「ご、ごめんなさい……。その……、本当に大した傷ではないので……」
絃は怪我をした指を包み込むようにしてうつむき、怯えるように小刻みに体を震わせた
それを悟った天馬が優しい声で絃に囁く。
「絃、怖がることはない。大丈夫だ」
「ですが……」
不安げに天馬を見つめた絃だが、天馬に促されてゆっくりと人差し指を包んでいた手を開いた。
傷口には、わずかに黒い血が滲んでいる。
この血のせいで、これまで触れることを拒絶された経験が何度もあった。そんな人々の嫌悪の表情が脳裏に浮かび、絃はとっさに隊員の手を振り払ってしまったのだった。
呪血への反応を恐れた絃だったが、驚いたことに隊員たちの表情は一切変わらなかった。
「まだ少しだけ血が出ていますね。絆創膏を貼ったほうがいいですよ」
「おれ、持ってきますね!」
嫌悪するどころか、心配そうに労ってくれる隊員たちを見て、絃は拍子抜けした。
「あの……、この血が恐ろしくはないのですか?」
「恐ろしい? 呪血が? ただの血じゃないですか〜」
心配をよそに、笑ってみせる隊員たちに、絃は目を丸くした。その顔を見た天馬が静かに頷く。
「俺の言った通りだろ? 軍の者……とくに俺の部下は、血の色で差別するような愚かな者たちではないからな」
呪血で生まれた以上、なるべく目立たぬように生きていくしかないと思い込んでいたが、天馬やその周囲の人々と出会い、自分がこれまで住んでいた世界はちっぽけなものだったことを絃は知った。
「なんだかわたし……、勝手に勘違いしてしまってすみませんでした」
絃は、穂積や他の隊員たちに向かって頭を下げた。
「絃さんが謝ることじゃないよ。それに理不尽に差別される気持ち、オレもちょっとはわかるからさ」
「穂積さんが?」
絃にウインクしてみせる穂積は陽気そうで、悩み事を抱えているような人間には見えない。
「よーし! それじゃあ、だれかオレと勝負してくれ」
そう言って、穂積は部下たちを引き連れていった。
「朝比奈様。穂積さんのさっきの言葉……」
「まあ、見ていたらわかるさ」
天馬は、演習場に入った穂積へ視線を促した。その様子に絃は目を見開く。
さっきまでは一対一で行われていた実戦訓練だが、十人の隊員たちが穂積を取り囲むようにして構えていた。
「もしかして、穂積さんおひとりで十人の相手を?」
隊員たちはそれぞれ神使を口寄せしたので、穂積は十人と十体を相手にすることになる。
どう考えても不利な状況だが、穂積が使うのは模造刀一本だけで口寄せはしない。
「どうして、穂積さんは神使を使われないのですか」
「穂積は〝使わない〟んじゃない。〝使えない〟んだ」
「……え?」
唖然とする絃に天馬は語った。
影鬼の討伐が職務とされる國防隊において、神使は戦闘の重要なパートナーである。しかし口寄せができないとなると、その身ひとつで戦わなければならない。
すなわち自らの体で直接、影鬼に攻撃を与える必要があるため、傷を負わされる危険性も格段に高くなるのだ。
ところが穂積はそんなリスクはものともせず、戦闘では影鬼を次々と斬り裂いてきた。
その活躍が認められ、穂積は神使のいない異能者としては異例中の異例で、今の地位についたのだ。
人並み外れた身体能力に恵まれたことは利点ではあるが、口寄せ以外の異能と戦闘能力は、厳しい修行と努力の積み重ねで獲得したものばかり。
ここまで穂積を強くしたのは、『異能者なのに口寄せができない』と蔑まれた過去があったからだった。
「影鬼討伐において、神使は必要な不可欠な存在だ。だから、神使を扱えない我が身を何度も呪ったそうだ」
「あの穂積さんが……」
「だが、あいつは諦めなかった。副隊長としてふさわしい力を持っていると誰もが認めている」
今の穂積を見る限り、そんなつらい過去があったとは想像もできないが、呪血以外でもそうした差別を受ける者たちはいた。
天馬から穂積の話を聞かされ、絃は自分のことのように胸がぎゅっと締めつけられた。
しかし改めて穂積に目を向けると、十人の部下と十体の神使を相手に痛快に戦っていた。ハンデなどもろともしていない立ち回りだ。
「穂積さん、本当にお強いのですね」
「そうだな。俺の背中を預けることができる唯一の存在だ」
絃は、穂積をまっすぐに見つめる天馬の瞳に見惚れた。
「朝比奈様。菊江さんたちに屋敷のことをお任せしているので、わたしはそろそろ戻ろうと思います」
「そうか。外の大通りで、帰りの車を拾うといい」
「はい。そうさせてもらいます」
絃は天馬に連れられ、正面玄関へと向かう。
しかしその途中、突然、背筋にゾクッと悪寒が走った。
はっとして振り返ると、少し離れた場所に薄暗い建物が見えた。その建物に続いている雑木林の道は、鉄柵の門で固く閉ざされている。
「朝比奈様、あれも軍の建物ですか…?」
その建物が纏う不気味な雰囲気に絃は怯え、声を震わせながら尋ねると、天馬は唇を噛み締め絃から視線をそらして答えた。
「あれは、……病院だ」
「病院? でも、どうしてあんな目立たないところに……」
「地下に隔離施設もあるからだ。影鬼に襲われた人々が収容されている」
それを聞いて、絃は先ほどの悪寒に納得した。
影鬼により傷を負わされ呪印が表れたとしても、すぐに影鬼になるわけではない。個人差はあるが、早くて数日から数ヶ月かけて呪印に体を蝕まれ、いずれ完全な影鬼へと変化する。
呪印が刻まれた人々を放置しては、いつ影鬼になるかもわからないため、治療のため隔離施設のあるこの軍の病院に移されるのだ。
しかし現在、治療法は見つかっていないため、効果のありそうな臨床試験の結果を試しつつ、あの建物で最後のときが訪れるのを待つしかないというのが現状。
「今もあそこで、呪印に苦しまれている方々がいらっしゃるのですね……」
「ああ。患者の様子を見にいくたび、胸が張り裂けそうになる。ここにいては気が滅入るだろう。早く外へ――」
そう言いかけた天馬が、なにかを察して瞬時に振り返った。絃もなにか嫌な気配がしたのがわかった。
天馬は絃を自分の背中に隠し、ゆっくりと腰の刀を引き抜いた。
絃が天馬の背中から恐る恐る顔を覗かせると、鉄柵の門を黒い塊がよじ登ろうとしているのが見えた。
黒い塊は、鋭い爪が伸びた異様に長い手足を使って門から飛び降りると、長い舌を垂らしながらぎこちない二足歩行で天馬と絃のもとへゆっくりと向かってくる。
「ギギギギ……」
歯ぎしりのような声を出し、姿だけでなく禍々しい気配をも纏う〝それ〟は影鬼だった。
「影鬼……!? どうしてこんなところに……」
半鬼化した天馬とは比べものにならないくらいの恐ろしい姿の影鬼を目の当たりにし、絃は恐怖で言葉に詰まる。
「軍の敷地内は結界で囲われていて、外からは入ってこられない。となると、なにかの手違いで隔離施設から患者が脱走したとしか考えられないな」
天馬は刀に雷の異能をまとわせると、目にも留まらぬ速さで影鬼を斬り裂いた。
目の前で灰となって散っていく影鬼を見て、絃は腰が抜けてその場でへたり込んでしまった。
その後、すぐに天馬が応援を呼んで隔離施設に確認に行くと、やはり患者のひとりが突如として影鬼となって逃走したと報告を受けた。
不幸中の幸いで、施設職員に被害はなかった。
「……あの影鬼も、ついさっきまでは普通の人だったのですね」
動揺を隠せない絃をひとりで帰らせるわけにもいかず、天馬はしばらくの間そばに寄り添っていた。
「そうだ。だが、だからといって躊躇してはいけない。大切な家族や友人が次の被害者にならないように、影鬼の討伐は絶対だ」
「……わかっています。わかっていますが……」
絃は頭では理解しているが、心が追いついていなかった。
「それに、影鬼に乗っ取られた体から解放してやらなくては、その人の魂は一生浄化されない」
そう言って、影鬼を斬った刀をじっと見つめる天馬の顔は険しかった。
助けられるものなら助けたい。だが、今は治療法はない。
新たな犠牲者が出る前に斬らなくてはならない。
それが、國防隊に課せられた任務。
自然発生的に生まれた影鬼ならともかく、本来は人であった影鬼を滅することには天馬でさえも葛藤があった。
「だから絃、約束してほしい」
天馬は、まだ足に力が入らずへたり込んでいる絃の前へ、視線を合わせるようにしてしゃがんだ。
「いずれ俺の全身が呪印に蝕まれ、自害する暇もなく影鬼になったそのときは……」
天馬のまっすぐなまなざしが絃を捉える。だが、絃はその瞳を見つめ返すことができなかった。
なぜなら、そのあとに続く言葉がわかってしまったからだ。
「そのときは、躊躇わずに俺を殺してほしい」
天馬は絃の手を握りながら穏やかな表情で見つめるが、絃は直視できずにうつむいてしまう。同時に、絃の頬を涙が伝う。
こんな約束など交わしたくなかった。
偽物の夫婦ではあるが、少なくとも絃は天馬と結婚してから毎日が楽しくて仕方がなかった。
今ある幸せがずっと続くのでは、と錯覚するほどであったが、天馬の命の期限は刻一刻と近づいている。
その天馬の最期の願いが、不測の事態が起こったときは絃の手で葬られることだが――。
「……いやです! そんな約束はできません!」
絃は天馬の手を振り払い、腕を伸ばすと、ぎゅっと天馬を抱きしめた。
「生きてください……! わたしは嘘でも偽りでも構いませんので、これからも朝比奈様のおそばにいたいのです……!」
絃の心の叫びに、天馬は深く驚いていた。
いつ影鬼になるかもわからない自分は、もはや人間とは言い難く、絃に恐れられていると思っていたからだ。
天馬は、自分の胸板に顔を埋めて泣きじゃくる絃の姿に胸を打たれ、気づくとそっと抱きしめていたのだった。



