【長編書籍化】呪血の花嫁

 朝比奈家の屋敷の一室に案内された絃は、そこで手当てを受けていた。
 着物で隠れていた蜂の刺し傷に、天馬がひとつひとつ薬を塗っていく。
 絃は戸惑いながら、天馬の顔を覗き込む。
「……あの、どうしてわたしが怪我をしているとわかったのですか」
「俺を誰だと思っている。どちらが重症者かくらい、ひと目でわかる。それに、だいたいの状況も把握しているしな」
 黙々と薬を塗る天馬の美しい横顔に、絃は思わず息を呑んだ。
「それにしてもひどいな……。これが妹のすることか」
「……妹といっても本当の姉妹ではありませんし、そもそもわたしは呪血なので。ですので、血が出ている箇所はわたしが塗ります」
 絃はテーブルに置かれた塗り薬に手を伸ばそうとしたが、それよりも先に天馬が取り上げた。
「呪血だからといって卑下する必要はない。いいから俺に任せておけ」
 そうは言いつつ、結局、血に触れたがらない者たちを、絃はこれまで何人も見てきた。
 しかし、バラ園のとき同様、黒い血にも躊躇わない天馬の姿に絃は驚いた。そして、今ならできるような気がして勇気を振り絞った。
「あ、朝比奈……様」
「なんだ?」
「あの、これ……。以前、お借りしたもので……」
 着物の懐からそっとハンカチを取り出すと、震える手で天馬へと差し出した。
 すると、それを見た天馬が頬を緩めた。
「わざわざ持っていてくれたのか。ありがとう」
 断られることも覚悟していたが、天馬はうれしそうに絃からハンカチを受け取った。
「このハンカチは、祖母の形見なんだ」
「おばあ様の!? そんな大事なものをわたしなんかの血で……」
「なにを言う。真っ白に洗濯するのは大変だっただろう。前につけてしまったケチャップのシミまで消えている」
「えっ、ケチャップ?」
 絃に聞き返され、天馬ははにかみながら頷く。
「ああ、丁寧に洗ってくれたんだな。本当にありがとう」
 天馬の笑みに、絃は思い切って行動してよかったと思えた。
「さて。俺にできる限りの手当てはしたが、まだ見えないところも刺されているだろう」
「見えないところ……?」
「そうだ。べつに、俺が着物を脱がせてやってもいいが」
 天馬の言葉に、絃は顔を真っ赤にして胸元を押さえた。
 それを見た天馬はクスクスと笑う。
「冗談だ。そんな目で見るな。あとのことは、この者に任せるから」
 天馬がそう言うと、部屋にノックの音が響き、ドアを開けて入ってきたのは小柄な年配女性だった。
「彼女は菊江(きくえ)。幼い頃から俺の身の回りの世話をしてくれている朝比奈家の使用人だ」
 紹介された菊江はゆっくりとお辞儀をする。
「はじめまして、絃様。菊江と申します。この場はどうぞ私めにお任せください」
 柔らかい表情の菊江に、絃の緊張で張り詰めていた心の糸が徐々に緩んでいった。
「よろしくお願いします」
「かしこまりました。そうと決まりましたら、ぼっちゃまはさっさと出ていってくださいませ」
「わかってる、わかってる。俺は、パーティーの締めの挨拶でもしてくるか」
 菊江は天馬の背中を押して部屋から追い出すと、内側からドアに鍵をかけた。
「絃様、お着物をお脱ぎください」
「は、はい」
 絃はぎこちなく頷くと帯に手をかけた。
「……あの、わたし……背中に大きなアザがありまして……」
「かしこまりました。なるべく見ないようにいたしますね」
 菊江は優しく声をかけると、背中に薬を塗っていく。労るように触れる菊江の手に、絃は母のぬくもりを感じていた。
 治療が終わり、再び着替えようとした絃だったが、なぜかさっきまで着ていた着物が見当たらなかった。
「あれ……。わたしの着物は……」
「勝手に申し訳ございません。絃様がお召しになられていたお着物は、こちらでお預かりしてお洗濯いたします」
「わざわざそんなことしていただかなくても……! それに、あれがないとわたし……」
 戸惑う絃に、菊江はにっこりと笑ってみせる。
「ですので、そのお詫びとして、こちらのお着物にお着替えください」
 そう言って、菊江が絃に羽織らせたのは、百合の花があしらわれた美しい着物だった。
 見るからに高価なものだということは、絃でもすぐにわかった。
「……よいのでしょうか。このようなものをわたしが着ても」
「こちらはぼっちゃまから託されたお着物ですので、ぜひ着て差し上げてくださいまし」
「……朝比奈様が?」
 絃はあれよあれよと着替えを手伝われ、せっかくだからと化粧も施された。
「実にお綺麗ですよ、絃様」
「そ、そうでしょうか……」
「ええ、とっても」
 絃は菊江に促され、おずおずと化粧台の姿見を覗き込む。
「あとは髪ですが、少々整えさせていただいてもよろしいでしょうか。菊江、ハサミの腕には自信がありますので」
 菊江はにっこりと微笑みながら、着物の袖を腕まくりする。気合いが入る菊江に、絃は思わず苦笑する。
 だめと言っても聞かなそうなのはこれまでのやり取りでなんとなくわかったので、絃は菊江に任せることにした。
 伸びっぱなしだった毛先を切り揃え、鬱蒼としていた髪に梳きバサミが入る。
 そうして髪を結って、髪飾りもつけてもらうと、まるで別人のような姿の絃が鏡の中に映っていた。
「これが……、わたし?」
「そうでございますよ。絃様はもともとのお顔がよろしいので、少しお化粧をされて髪を整えられるだけで、こんなにも華やかになられます」
 毎日璃々子に化粧はするが、自分自身にしたことはなかった。髪も掃除に邪魔にならないように結ぶだけで、他の髪型を試そうと思ったこともない。
 鏡の自分に見入っている絃を見て菊江は満足そうに微笑み、そっと退室した。
「ピピー!」
 菊江がいなくなったタイミングを見計らって、ピーちゃんが出てきた。
 ピーちゃんもうれしいのか、絃の周りを飛んで回る。
「どうだ、絃。菊江から支度が終わったと聞いたが……」
 パーティーを終えて帰ってきた天馬が突然部屋のドアを開けて入ってきたため、驚いた絃とピーちゃんは一瞬その場で固まってしまった。
 目が点の絃を見て、天馬は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すまない、ノックをすればよかったな。それにしても、その鳥……」
 天馬は絃のそばにいたピーちゃんに気づき、何度も瞬きをして凝視する。
 天馬と目が合い、我に返ったピーちゃんは慌てて姿を消した。
「絃……、今のは……」
「な、なんのことでしょうか?」
 絃は、しどろもどろになりながらごまかす。
 それを見た天馬は、思わず笑ってしまった。
「隠さなくてもいい。なんとなくはわかっていた。でもまさか、四神(しじん)を扱うとは思ってもみなかったが」
「え……?」
 絃はその言葉の意味がわからず、きょとんとした。
「……あの、朝比奈様。わたし、いろいろと状況が飲み込めていないのですが、先ほどおっしゃられたことは本当なのでしょうか」
「先ほど?」
「はい。わたしを……花嫁にと」
 自分で口にするだけで恥ずかしく、絃は頬を赤くしてうつむいた。
「どうしてわたしが選ばれたのか、未だに理解できません。どなたかと間違われてはいませんか」
「心配しなくとも、なにも間違ってなどいない。俺は絃を花嫁にしようと思い、今日ここへ招待したんだ」
 改めて天馬の口から告げられ、絃は事の重大さに血の気が引いた。
「そ、そんな……わたしには務まりません! お恥ずかしながら知識も教養もないですし、わたしなんて――」
 すると、天馬はそっと絃の唇に人差し指を添えた。
「身構える必要はない。これは、契約結婚の提案だ」
 聞き慣れない言葉に、絃は首を傾げる。
 ――そうして天馬は、契約結婚について語りだした。
 朝比奈家では、当主となり妻を迎えて初めて一人前の男と見なされ、朝比奈家に代々継がれる神使と契約することを許される。
 その神使は〝雷蹄(らいてい)〟という名の麒麟で、雷の力により瞬時に百体もの影鬼を滅する力があるとされている。
 神使は契約者が亡くなると、契約前に封印されていた場所へと還る。
 前当主が亡くなって以降、雷蹄は朝比奈家で祀られている封印石(ふういんせき)に入ったまま次期当主との契約を待っている状態なのだ。
「つまり雷蹄と契約するには、結婚することが朝比奈家での条件だと……」
 絃の問いに、天馬は静かに頷く。
「それに今年は、〝災厄の日〟が訪れる年。来たる影鬼との戦闘に向けて、雷蹄の力は絶対に必要だ」
 災厄の日とは、百年に一度の周期で巡ってくる、太陽も月も顔を出さない奇っ怪な日のことを指す。
 暗闇から生まれるとされる影鬼にとっては、この上ない絶好の日で、各地で大量発生が予想される。
 國の歴史上、過去に四度、厄災の日が訪れたが、同時多発した影鬼が人々を喰らい、討伐に挑んだ異能者さえも餌食となり、國全体に甚大な被害を及ぼしたと記録がある。
 そして、長年の太陽と月の位置関係の研究により、その日があと三ヶ月以内に訪れる可能性が高いということがわかった。
「だから、それまでに雷蹄を使いこなせるようになるのが、國防隊隊長としての俺の使命だと思っている」
 険しい表情で語る天馬を見て、絃はごくりと唾を飲み込んだ。
 國民たちは厄災の日への通達にも、異能者がなんとかしてくれるだろうと緊張感が薄い印象だったが、絃はこの國に深刻な危機が迫っていることを肌で感じた。
「そういうことであれば、お話はわかりましたが……」
 ポツリと呟くが、絃は未だにどこか浮かない顔をしている。
「仮の結婚とはいえ、災厄の日のことも考えると、異能力に乏しいわたしでは、朝比奈様のお力にはなれません」
 絃は苦しそうに言葉を漏らす。
 異能者として優秀だった母の血を受け継いでいるというのに、その才には恵まれなかった。
 ピーちゃんという神使はいるが、異能力を引き出して口寄せを発動しているという自覚もない。
 璃々子も含め、名だたる異能者の令嬢は何人もいるというのに、どうして自分が選ばれたのかがわからなかった。
 すると、うつむく絃の肩に天馬が手を添える。
「顔を上げてほしい。だからこそ、絃でなければならないんだ。いや、絃しかいない」
 天馬は絃の手を取ると、まるでガラス細工を扱うように優しく握った。
「絃は気づいていないのか? 自分の中にある秘められた力に」
「……え?」
「俺は、バラ園のときに感じた。手と手が重り合った、そのときに」
 バラ園での出来事を思い出した絃は耳まで赤くなってしまった。
 触れ合う手から、心臓の音が天馬に伝わってしまうのではと思うくらいに胸が高鳴っている。
「ですが、わたしに秘められた力とは一体――」
 絃が言葉を漏らしたとき、ちょうどドアがノックされ音が響いた。はっとしたふたりは慌てて手を離す。
「失礼いたします」
 部屋に入ってきたのは菊江だった。
「どうした、菊江」
「ぼっちゃま、西条家の皆様がなかなかお帰りになられないようで。絃様を返すようにと申されています」
 それを聞いた天馬はため息をつく。
「……返すとは。絃は物じゃないのだから――」
「その通りです! 絃は、我が娘にございます」
 そのとき、菊江を押しのけるように部屋にだれかがなだれ込んできた。
「困ります! 勝手に入ってこられては……!」
 菊江の制止も聞かずに、部屋のソファに腰掛ける天馬のもとへ鼻息を荒くしてやってきたのは秀徳だった。
 そのあとに、佳代子と璃々子も続く。
「なんだ、その格好は……!」
 先ほどまでとは見違えた絃の美しい姿に、三人は思わず呆然として突っ立った。
 しかし、佳代子から肘で小突かれ、秀徳は我に返る。
「朝比奈殿、絃を嫁にするとはどういうことでしょうか! 正直、外に出すのも恥ずかしいほどの出来損ないだというに」
「朝比奈様も、なにか勘違いをされているのではないでしょうか? 間違いなく、花嫁にふさわしいのは、異能の才に恵まれた次女の璃々子ですわ!」
「天馬様、一体どうされたというのですか! さては、姉が無理やり言い寄ったのですね!?」
 なんとしてでも絃を花嫁候補から外したいあまりに、三人は見苦しいほどに喚き散らす。
「おっしゃる通り、確かにそちらのお嬢さんも強い異能力をお持ちのようで」
 天馬の碧色の瞳に見つめられた璃々子は思わずドキッとして頬を染め、色っぽく髪の毛をくるくると遊ばせる。
 そんな璃々子の仕草など気にも留めず、天馬は淡々と語る。
「しかしながら、絃と比べたら雲泥の差だ」
 それを聞いた璃々子の表情から笑みがすっと消える。
 そして、これまでに味わったことのない屈辱に、璃々子の中でなにかがプツンと切れた。
「わたくしが、ドブ女よりも下ですって!?」
 途端に鬼の形相に変わり、我を忘れて声を荒らげる。
「り……璃々子!」
「パパは黙ってて! なにがそのドブ女よりも劣っているというの!? 口寄せの神使だって、わたくしは四体も扱えるのよ!?」
 璃々子はこれ見よがしに、四体の神使を呼び出す。
 白銀に輝く雄鹿、華麗に舞う白鳥、恐ろしくも美しい白い大蛇、雪のように白い無数の蜂。
 どれも清く気高く、習得が難しいとされる神使たちだ。
「それに比べて、ドブ女の神使はあの醜い団子鳥一羽だけじゃない!」
 指さす璃々子の視線をたどって、秀徳と佳代子も絃に顔を向ける。
「なに、絃が神使を?」
「絃! あなた、口寄せができたの!?」
 ピーちゃんの存在は璃々子に見られるまでずっと秘密にしてきたため、秀徳たちも寝耳に水だった。
「ほら、出してみなさいよ。あのブサイクな鳥を!」
 璃々子は馬鹿にするよう(あお)ってくる。
「絃、出してみろ」
「ですが……」
 母との約束もあり、絃は一瞬迷った。しかし、見上げると天馬が微笑んでいて、その表情に背中を押された。
「ピーちゃん、出てきて」
 絃が優しく声をかけると、胸の前に合わせた両手の上にポンッとピーちゃんが姿を現した。
 あまりにも丸々としたピーちゃんの姿を見て、秀徳はプッと吹き出してしまう。
「なんだ、この不恰好な紅い鳥は……」
 そうつぶやいたが、すぐに何かを悟り、驚いて口をあんぐりと開けた。
 佳代子もなにかを察してか、同じような間抜けな顔をしている。
 そんなふたりを見て、璃々子は首を傾げた。
「パパ、ママ……、どうしたの?」
 なにもわかっていない様子の璃々子の発言に、秀徳たちは驚いて振り返る。
「璃々子。あなた、あの神使がなにかわからないの……?」
「は? ただの団子みたいな鳥でしょう?」
 璃々子は眉間にシワを寄せながら不服そうに答える。
「それに絃のやつ……、呪式なしでどうやって口寄せを……」
「そんなの、初めから出現させて隠しておいただけでしょ? ふたりとも、なにをそんなに驚いてるの?」
 本当にこの場の状況を理解していない娘の璃々子に、秀徳と佳代子は驚愕していた。
「そういうことです、西条さん。そちらの娘さんは高度な口寄せができるかもしれないが、最低限の能力も感じ取れないようにお見受けします。それのどこが、朝比奈家の妻にふさわしいというのでしょうか」
 再び天馬に馬鹿にされ、璃々子は唇を噛む。
「……だから、わたくしのどこがいけないのかちゃんと説明しな――」
「黙りなさい、璃々子! それ以上、失態をさらすんじゃない!」
 突如として発せられた秀徳の声に、驚いた璃々子は目をまん丸にした。秀徳に怒鳴られるなど生まれて初めてで、ぐすんと鼻を鳴らして涙ぐむ。
「とはいっても、決めるのは絃です。俺との結婚よりも、西条家に戻りたいというのなら無理に引き止めるつもりはありません」
 そう言って、天馬は絃に視線を移す。
 天馬の言う〝結婚〟は、〝契約結婚〟だということはわかっている。
 災厄の日に備えて、雷蹄の封印を解くために結婚する必要がある。その妻役に、秘められた力があるらしい絃が選ばれた。
 この結婚に愛などない。朝比奈家にきたからといって、幸せになれる保障もない。
 ただ天馬は、実の両親を除いて、絃をひとりの人間として見てくれた唯一の存在だ。
 もうそれだけで、絃の答えは決まっていた。
「わたしは、朝比奈様の妻になります。家族などと一度も思ったこともないあなたたちのところへは戻りません」
 秀徳たちにそう言い放った絃の瞳には光が宿り、迷いは一切なかった。
 これまではペコペコと頭を下げて付き従うだけだった絃が、今では別人のようにどこか自信に溢れた佇まいに西条家の三人は息を呑む。
「と、いうことです。その代わりと言ってはなんですが、結納金は望む額でご用意いたします」
 余裕のある笑みを見せる天馬に、秀徳は奥歯を噛み締めた。
 呪血で絶対にもらい手のない西条家のお荷物の絃が嫁に行く。これで、絃の母が残した呪いに怯えることもない。
 本来なら喜ぶべきはずなのに、秀徳たちの胸の中は様々な感情が入り混じり渾沌としていた。
 西条家の誇りと自慢でもある璃々子が侮辱された。
 しかも朝比奈家の妻に選ばれたのは、役立たずの絃。
 ところが、この胸のざわめきはそれに対する嫉妬や怒りではない。
『家族などと一度も思ったこともないあなたたちのところへは戻りません』
 初めて絃が見せた意思、そして強い覚悟に圧倒され、蔑んでいた絃に対して一瞬でも敗北感を抱いてしまったことに気づいたのだ。
 だが秀徳は、素直には引き下がらない。あの絃の反抗的な目を思い出すだけで虫酸が走った。
「ええい!! 黙れ、黙れ! 呪血のお前をここまで誰が育ててやったと思っている! お前は、これからも親の言うことだけ聞いていれば――」
 そのとき、天馬が秀徳に向かって無言で手を振り払った。すると、秀徳の頬を突風が掠め、風圧によって背後にあったドアが勢いよく開け放たれた。
 秀徳がはっとして正気に戻ると、ゆっくりと顔を上げた天馬の鋭い瞳に捉えられた。
「西条家の皆さん、お帰りはあちらです」
 天馬はドアの方を指し示す。
 静かだが重圧のこもった天馬の異能に、秀徳たちはごくりと唾を飲んだ。
 そうして三人は渋々、絃と天馬の前から姿を消した。
 菊江も退室し、ふたりだけになった部屋は再び静けさを取り戻した。
 しかし、沈黙を破るようにどちらからともなく笑い声が漏れた。
「おとなしい娘だと思っていたが……。絃、なかなか言うじゃないか」
「すみません、つい……。ですが、朝比奈様も同じかと」
「ああ。俺たち、気が合いそうだ」
 ふたりは同時に見つめ合うと、にっこりと微笑んだ。
「だが、もし断るなら今だぞ。さっきは、西条家を前にしてああ言うしかなかったかもしれないが」
「いいえ、わたしの答えは変わりません。朝比奈様のお気持ちもお変わりないのであれば……」
 絃は一旦うつむき大きく深呼吸をすると、天馬を見上げて言った。
「この契約結婚、喜んでお受けします」

 次の日。
 絃は目覚めると、知らない部屋のベッドの上にいて驚いて飛び起きた。
 しかしすぐに、目まぐるしく過ぎ去った昨夜の出来事を思い出す。
「……わたし、本当に朝比奈様の妻になったんだ」
 確認するように、姿見に移った自分に向かって呟いた。
 ところが、ふと視界の端に入った時計に目をやった絃はぎょっとする。
 なんと、すでに朝の七時を回っていた。普段よりも二時間以上も寝過ごしてしまっている。
 適当に身支度を整え、慌てて部屋から出ようとすると、絃がノブを握るタイミングでドアが開いた。
 現れたのは、菊江だった。
「おはようございます。ゆっくりお休みになられましたでしょうか」
「は、はい。わたし、寝すぎてしまいましたよね……」
「気にする必要などございませんよ。昨晩、お眠りになられるのが遅かったですから。それに、安心して眠っていただけてよかったです」
 西条家では寝坊したらこっ酷く叱られるというのに、菊江は怒るどころか柔らかく微笑んだ。
「絃様、朝食のご準備ができましたのでお呼びしにきました」
 食事だって、秀徳たちの好き嫌いをすべて把握した上で作り、時間がなくて食べ損ねるときは頻繁にあった。
 だから、自分が作らなくとも食事が出てくることが絃にとっては違和感だった。
 ひとりでの朝食を済ませた絃は、天馬に部屋に呼ばれた。
「おはよう、絃」
「お、おはようございます」
 絃は、天馬に言われて部屋のソファに腰を下ろす。
「ピピー!」
 すると、元気よくピーちゃんが現れた。天馬もいるというのに、絃は慌ててピーちゃんを背中に隠す。
 そんな絃を見て、天馬は笑みをこぼす。
「おいで」
 天馬が手を伸ばすと、吸い込まれるようにしてピーちゃんが跳んでいった。
 そして、天馬の肩に留まると顔を擦り寄せて甘えている。
「……すごい。ピーちゃんがなついてる」
「かわいいものだな。それにしても、これが四神の仮の姿とは」
「あの、昨日もおっしゃっていた四神とはなんなのでしょうか。ピーちゃんは、他の神使とは違うのですか」
 絃は食い入るように、天馬の顔をうかがった。
 四神とは方角を司る神使で、東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武の全四体。
 神使の中でも最上位に位置する特別な存在であり、それを扱える異能者もまた稀に見る逸材なのだ。
 そして、ずんぐりむっくりな団子のような形のピーちゃんは仮の姿で、本来は南を司る紅き大鳥〝朱雀〟だったのだ。
 朱雀は一度の羽ばたきで千もの影鬼を消滅させる力があるともいわれていて、雷蹄同様、災厄の日には十分な戦力となるのが予想される。
 天馬は昨晩ひと目見た瞬間、ピーちゃんの正体に気づいた。
 そして、パーティー後に乱入してきた秀徳と佳代子もピーちゃんを見て悟り、なにも感じ取れていなかったのは璃々子だけだった。
「絃は異能者として、他の誰よりも秀でた力を持っている。これが、絃を妻にした理由だ」
 天馬は、朱雀を神使に持つ絃を仮の妻にするために。
 絃は、檻のような西条家から逃げ出すために。
 互いの利害の一致により、ふたりは異能者の特殊な婚姻状にそれぞれの血で名前を記入し、こうして夫婦となったのだった。
「契約結婚の期限は災厄の日を迎え、影鬼との戦いが落ち着くまでだ」
「かしこまりました。それまで、こちらでお世話になります」
 絃は深々と頭を下げる。そんな絃の丁寧に揃えられた両手が、乾燥の時期でもないのにささくれだらけなことに天馬は気づいていた。
 名家のご令嬢とは思えぬ手に、西条家では毎日使用人同然に水仕事をさせられていたのだろうと容易に想像がついた。
「それまでとは、寂しいことを言うな。もうあんな家に帰る義理もないだろう。もし絃が嫌でなければ、ずっとこの屋敷にいるといい」
「ですが、契約結婚の期限もありますし、さすがにずっとというわけには……」
「契約結婚はふたりだけの口約束だ。婚姻状を交わした以上、誰がどう言おうと絃は俺の妻だ。俺がいなくなったあとは、好きにすればいい」
 淡々と話す天馬だったが、絃はその言葉に引っかかった。
「朝比奈様がいなくなったあと、とはどういうことでしょうか。お仕事の関係で、どこか遠くに住まわれるのですか?」
 純真無垢な目をした絃の質問に、天馬は自然と頬を緩める。
「これは、軍にも家族にもまだ知らせていないが……。俺の命はもう長くはない」
 穏やかな表情からは想像できなかった衝撃の告白に、絃は呆然とした。
「い……命が長くないとは、それは一体どういう……」
 返す言葉が見つからず、戸惑ってしまう。
 動揺する絃の前で、天馬はおもむろに上の服を脱ぎだした。
「きゃっ……。朝比奈様、いきなりなにを……」
 絃は手で顔を覆い、天馬から目を背ける。
「見てくれ。妻である絃には知っておいてほしい」
 天馬がそう言うものだから、絃は指の隙間から天馬の体を見てはっと息を呑んだ。
 天馬の左の脇腹から上半身を這うように、禍々しい黒い紋様が現れていたのだ。
「それは……」
「影鬼の呪印だ。討伐の際、脇腹を影鬼の爪がかすめたんだ。怪我は大したことはなかったが、そこから広がる呪印が体全体を覆い尽くし、いずれ俺は影鬼となる」
 絃は、影鬼の攻撃により新たな影鬼が生まれるということを聞いて知ってはいたが、実際にそんな人間に出会ったのは初めてだった。
「どうやら俺は人よりも進行が遅いようで、災厄の日まではまだ人間でいられることが幸いだ」
 國防隊隊長として、災厄の日の影鬼討伐を務めることは天馬の悲願だった。そして、どうにかその日までは間に合うということへの安堵感から、命のリミットが迫っているというのに天馬の顔は晴れやかだった。
「だから、それまではこのことは黙っていてほしい。頼む。災厄の日さえ過ぎれば、その後はどんな処分でも受けるつもりでいる」
 そう言って深々と頭を下げる天馬に絃は戸惑う。
「……顔をお上げください! 朝比奈様の妻になった以上、夫に従うのは当然のこと。誰にも話しません、お約束します」
 絃の言葉を聞いて、天馬は安心したように頬を緩めた。
「それよりも、治す方法は……!?」
「それは絃でも知っているだろう。治療法はない」
「……そんなっ」
「安心しろ、まだ理性は保っている。だが、無性に血を欲する衝動に駆られるときがある……」
 そう言って、天馬がゆっくりと振り返る。
 その左半身は、指先からは黒々とした長い爪が生え、唇の隙間からは鋭い牙が伸びている。
 まるで、人間の皮一枚隔てたそのすぐ下に鬼が潜んでいるような、そんな姿になりつつあった。
 美しい碧色であった左目の瞳は赤く染まり、鋭い眼差しで絃を捉える。
 それを見た瞬間、絃は背筋が凍って動けなくなってしまった。
 影鬼を見たことがなかった絃だったが、実際に目の当たりにした半鬼化した天馬の姿は恐ろしく、目が合うだけで食い殺される自分の姿が脳裏をよぎって、恐怖に駆られた。
 なんとか平常心を保つよう心がけた絃だったが、天馬はわずかな変化を見逃さなかった。
「すまない。絃には現状を理解してほしかっただけで、怖がらせるつもりはなかったのだが…」
 はっとした天馬は慌てて半鬼化を解く。
 すると、すぐに左半身はもとに戻り、赤黒かった瞳も碧色へと変わった。
「まあ、こんな人間のかたちを失った体なんて気味悪いに決まっているか」
 そう自嘲しながら絃に背を向けた天馬だったが、窓ガラスにはあまりにも悲しげな表情が映っていた。
 それに気づいた瞬間、絃は胸をぎゅっと締めつけられた。
 何度も絃を救い出した頼もしかった天馬の後ろ姿は今となっては脆く儚げで、放っておいたら崩れてなくなってしまうのではないかと思えてならなかった。
「あの……朝比奈様――」
 手を伸ばした絃だったが、振り返った天馬は絃の手を取ると首を横に振った。まるで、それ以上話さなくてもいいといっているかのようだ。
「大丈夫。もし完全に理性を失いそうになっても、そうなる前にこの腰の刀で自害する。絃は絶対に傷つけない、約束する」
 天馬は、いつ影鬼になるかもわからないという、とてつもない恐怖と孤独にひとりで戦っている。それなのに、その不安を微塵も感じさせない微笑みを絃に向けた。
 天馬の精一杯の気遣いに、絃はたった一瞬でも半鬼化した天馬を恐れてしまった自分を責めた。
 ふと視線を下に向けると、天馬の服の袖から小刻みに震える手が見てとれた。
 せめてその手を取って、『大丈夫』と言って安心させたい。
 そう思って、絃が手を伸ばそうとしたときだった。
「こんな俺といっしょにいても恐ろしいだけだろう」
 天馬がため息混じりにつぶやいた。
「……いえ、そんな。わたしは……」
「無理しなくていい。なるべく絃には近づかないようにする。必要なときだけ夫婦を演じてくれれば十分だ」
 この言葉は、絃に対する天馬なりの思いやりだった。
 利害の一致とはいえ、好きでもない男と無理やり契約結婚させられ、しかもその相手はいずれ影鬼となる人間の皮を被ったバケモノ。
 絃が西条家でひどい扱いを受けてきたのは、あの三人の言動から安易に察することができる。これ以上、不憫な思いはさせられない。
 だから、最低限、妻の振る舞いをしてくれるだけでいいと思って出た言葉だったが、残念ながら、天馬の意図は伝わってはいなかった。
「それは、かりそめであるから、本当の夫婦のように愛し合う必要はない。あくまで他人。……ということでしょうか」
 絃は、天馬には聞こえないくらいの声量で切なげに呟く。
「……かしこまりました。朝比奈様のお邪魔にならないようにいたしますね」
 素直に頷いてみせる絃だが、その表情はぎこちない。
 こんなに近くにいるというのに、絃は天馬の存在を遠くに感じた。