バラ園から戻った絃は、男から渡された白いハンカチを洗濯していた。
握り締めたまま、あの場で返すのをすっかり忘れていて持ち帰ってきてしまった。
洗濯したところで、こんな黒い血で汚れたハンカチを返されても迷惑に思われるかもしれない。
そう自分に言い聞かせてはみるが、男が別れ際に告げたあの言葉が忘れられなかった。
『また会おう、絃』
どういう意味で言ったのかはわからない。
それにこちらから訪ねようにも、相手の名前さえ知らない。
どうやら軍の隊長のようだが、身分が違いすぎて本来であれば二度と顔を合わすこともないはず。
ただ絃は、どうしてもあの言葉が引っかかっていた。
もしなにかの偶然で再会できたら、直接本人にお返しできますように。
絃はそんな願いも込めて、白いシルクのハンカチを丁寧に丁寧に手洗いするのだった。
それから一ヶ月ほどがたった頃、西条家はとある場所へと招かれていた。
そこは、この國で五本の指に入るほどの力を持つ異能家系、朝比奈家の屋敷だ。
「パパ、ママ、見て! すごいお屋敷!」
高い塀で囲われた広大な敷地内に佇む異国風のモダンなデザインの豪邸が車の窓から見え、璃々子は声を弾ませる。
先日、朝比奈家当主が急な病で亡くなり、急遽、息子の天馬へと当主の座が引き継がれた。今日はその襲名式で、各地域から有名な異能家系の当主が呼ばれていた。
招待状などの軽い文は異能により各家へ届けるのが一般的だが、なぜか西条家だけは朝比奈家の使いの者が直接やってきた。
噂によれば、襲名式後のパーティーは、天馬の配偶者探しのための見合いも兼ねているとの情報もあった。
直々に招待状を手渡されるという特別感に、もしや璃々子が花嫁候補ではと秀徳たちはほくそ笑んでいた。
新たに朝比奈家の当主となった天馬は、二十三歳という若さでありながら、影鬼の討伐に不可欠な軍の國防隊隊長を務め、この國の中枢を担う重要な異能者だ。
名の知れた朝比奈家の当主で、軍隊長。
さらに、女性ならば思わず振り返るほどの申し分ない容姿まで持ち合わせているため、招かれた異能家系の令嬢たちは天馬の妻の座を狙うため、静かな火花を散らしていた。
西条家は、絃と璃々子それぞれが招待されていたが、もちろん秀徳たちは絃の出席は認めなかった。
そのため留守番の予定だったはずが、なぜか行きの車の中には絃の姿もあった。
璃々子が、ああでもないこうでもない、と世話係の絃に文句をつけ、身支度が大幅に遅れてしまった。そのせいで、仕方なく絃も迎えの車に乗り込み、到着直前まで璃々子に化粧を施していたのだった。
「これだから、グズのドブ女はっ。今日の主役はアタシなんだから、ちゃんとしてよね」
なんとか間に合わせた絃に向かって、璃々子は容赦なく吐き捨てる。
「本当にこのドブ女、もう少し要領よくできないものかしら」
佳代子も絃に舌打ちをするが、すぐに表情を緩めて璃々子を見つめる。
「それにしても璃々子、とっても綺麗よ」
「ああ。朝比奈殿も璃々子のあまりの美しさに釘付けになること間違いなしだな」
佳代子と秀徳の褒め言葉に、璃々子は満足げに微笑む。
「天馬様って國防隊の隊長ということは、和久様より格上よね? どうしましょ〜! そんな方に見初められてしまうなんてっ」
ついこの間までは、和久とのやり取りを絃に自慢していた璃々子だったが、天馬の花嫁候補かもしれないと秀徳たちに言われてからは、そのことで頭の中がいっぱいだった。
浮かれる璃々子を微笑んで見ていた秀徳は、表情を一変して冷たい視線を絃に向ける。
「いいな、絃。パーティーが終わるまで、お前は外で待っているんだぞ」
「……はい、お父様」
車から降りる際、秀徳は絃にきつく言って聞かせた。
出席者たちを横目に見ながら、地味な普段着姿の絃は、そそくさと屋敷の敷地外へと出た。
三時間後にパーティーが終わり、そのときにまた迎えの車が来る。それまで絃は、外でひとり待ちぼうけだ。
朝比奈家の当主が軍の隊長だと聞いて、絃は着物の懐にあの白いハンカチを忍ばせてきた。
だが、軍にもいくつかの部隊があり、朝比奈天馬という人物が、あのハンカチの持ち主かはわからない。
別人の可能性は十分にあるし、もし同一人物だったとしても、秀徳から中に入ることを許されていない以上、顔を合わせることはできない。
「せめて、お名前だけでもお聞きしておけばよかった……」
絃はため息をついて、あのときの颯爽と駆けつけてきた男の姿を思い浮かべながら、ハンカチを挟んでいる着物の懐にそっと手を当てた。
そのとき、なにか違和感を覚えた。懐にハンカチ以外の硬い感触があった。
それを慌てて引き抜くと、蝶と花がデザインされた璃々子の一番お気に入りの簪が出てきた。
そういえば、車内で髪もやり直しさせられ、璃々子の頭についていた髪飾りもひとつずつ外していくハメになった。
そしてこの簪の置き場に困り、絃はやむを得ず、一旦、自分の着物の懐に挿し込んだのだった。
璃々子に「早くしろ」と急かされていたこともあり、挿し直すのをすっかり忘れていた。
「どうしよう……」
簪を握った絃の手が震え、額からは汗が流れ落ちる。
もしかしたら、このまま気づかれずに済むかもしれない。だが、万が一、このお気に入りの簪がないとわかったら――。
秀徳たちが中に入ってから、一時間近くが経過していた。
襲名式の最中は入れないが、そのあとに懇親会として立食パーティーが予定されている。そのときに璃々子に訳を話して簪をつけるのが、一番、被害を最小限に抑えられるはずだ。
そう考えた絃は、ごくりと唾を飲み込んだ。
屋敷の門をくぐり正面扉に向かうと、すかさず警備の者たちが行く手を阻むようにして立ち塞がった。
「どなた様でしょうか」
とても招待客とは思えない質素な格好の絃を見て、彼らは怪訝な表情を浮かべる。
「あ、あの……、わたしは……」
『忘れ物を届けに来ただけ』と言ったところで、簡単には通してくれなそうだ。
本当は抵抗があったが、今は早く璃々子に届けるべきだと考え、絃は仕方なくこう口にした。
「わたしは、西条家長女の絃です」
それを聞くと、警備の者たちはすぐさま頭を下げた。
「これは、西条家のご令嬢に対して大変失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
西条家からは長女として認めてもらえていないというのに、自分で名乗るのは精神が削がれる思いだった。
絃は複雑な心境のまま会釈をして、屋敷の中へと入っていった。
襲名式が行われていた会場は、ダンスホールのように広く、天井からはシャンデリアが吊り下げられ、そのきらびやかな光景に絃は思わず目を見張った。
絃の予想通り、少し前に襲名式が終わったようで、会場から開け放たれたフレンチドアの先にある広々とした庭も含めての立食パーティーが開かれていた。
大勢の招待客がドリンク片手に談笑しており、この中から璃々子を探し出すのは苦労しそうだった。
なるべく人目に触れず、そっと璃々子を探したかったが、この場に似つかわしくない身なりの絃は逆に目立ってしまっていた。
「……ちょっと見て、あれ」
「あの娘、もう少しマシな格好はできなかったのか」
「間違って、使用人が迷い込んだんじゃない?」
人々は絃を冷ややかな目で見つめる。
絃はうつむきながら人と人の間を縫うようにして璃々子を探した。
すると、会場の中央付近に若い娘たちが団子のように密集している場があった。
「噂で聞いていたよりも、実物のほうがなんて素敵なの〜」
「どうしましょう! お手が触れてしまったわ」
そこに集まった娘たちが皆、目を輝かせているので、人だかりの中心に主役の朝比奈天馬がいるのだろうと察することができる。しかし、あまりに人が多すぎて、その姿を確認することはできない。
その代わりに、人だかりから一歩引いた位置で、他の令嬢よりも一際、派手な着物を着て、人一倍めかし込んでいる璃々子を見つけた。
璃々子は、天馬に集る娘たちを刺し殺すような勢いで睨んでいる。
「なんなの、あいつらっ。適当に招待されただけの脇役の分際で、本命のアタシを差し置いて天馬様に近づくだなんて」
舌打ちを繰り返す璃々子のそばには、ご機嫌を取ろうと秀徳と佳代子も揃っていた。
「気にすることないわよ、璃々子。あんなふうに、しつこい女はモテないものよ」
「ママの言う通りだ。それに、うちは朝比奈家から直々に招待されたんだ。落ち着いたら、朝比奈殿自ら璃々子のところへきてくれるだろう」
秀徳の言葉に、璃々子は目を輝かせる。
「ほんと!? じゃあ、それまでお食事を楽しもうかしら」
「そうしようとするか。パパとママが料理を取ってくるから、璃々子は庭のベンチで休んでいるといい」
秀徳にそう言われ、璃々子はひとり庭へと移動する。見失わないようにと、絃はあとを追う。
ところが、設けられたテーブル付きのベンチにはすでに人がいっぱいだった。
「……チッ。西条家より下の凡人どものくせに、占領してんじゃないわよ」
会場内にはオードブル、庭にはスイーツが並べられていた。
苛立っていた璃々子は、ひと口サイズのショートケーキに荒々しくフォークを突き刺すと、そのまま口へと運んだ。
「あら、意外とおいしいじゃない」
璃々子はペロリと口の端についたクリームを舐め取る。
「璃々子……」
そこへ、身を低くして近づいた絃が声をかける。
振り返った璃々子は、絃の姿を見て驚いて目を丸くした。
「……は? なんでドブ女がここに?」
「璃々子、ごめんなさい。実は――」
絃がそう言いかけたときだった。
眉間にシワを寄せた璃々子の険しい表情が一瞬にして緩み、大きく目を見開いて絃の後ろを見た。
何事かと絃がゆっくりと背後を振り返ると、そこには軍の儀礼服に身を包んだ長身の男が立っていた。
「お話し中、失礼する。もしかして、キミは……」
透き通るような碧色の瞳に絃ははっとした。
「あなたは……!」
絃が呟いた途端、思いきり着物が引っ張られた。そうして、絃の前に出しゃばるようにして進み出たのは璃々子だった。
「天馬様! わたくしに会いに来てくださったのですね!」
璃々子は猫撫で声で天馬を見つめる。
絃はその璃々子の言葉に、この男が朝比奈家当主で國防隊隊長――そして、あのときハンカチを渡してくれた男だと知った。
秀徳の言ったように、自らやってきた天馬を見て、璃々子はうれしさのあまり、その場で弾んでいる。
「天馬様、お待ちしておりましたわ! なかなか来てくださらなかったので、わたくし寂しくて――」
「すまない。そこのキミは、少し静かにしていてくれないか」
思い描いていた態度とは違う天馬に、璃々子は状況が飲み込めずぽかんと突っ立っている。
声をかけられたのが自分だと気づいた絃は我に返った。
「あのっ。先日は助けていただき、ありがとうございました……!」
「絃、やはりキミだったか。さっき、似ている女性を見かけたような気がして、とっさに追いかけてきてしまった」
深く頭を下げる絃を見て、天馬は優しく微笑む。
そんなふたりのやり取りを見て、璃々子は口をあんぐりと開ける。
「……はっ!? 追いかけた!? なんで天馬様がドブ女をっ。それに〝絃〟って……、ふたりはどうして顔見知りなの」
周囲のざわめきにかき消されたが、璃々子は心の中で呟いたつもりだった声が漏れていた。
「もう傷は大丈夫か」
「はい、たいしたことはございません。お気遣いいただきありがとうございます」
「それならよかった」
天馬は安心したように目を細め、表情を緩ませる。
「……あっ。それで、実は今日――」
絃は一旦、ハンカチを忍ばせている着物の懐に手をやった。しかし、そこで表情を曇らせ、その手をゆっくりと下ろした。
もし、次に会うことがあったらと思って、洗濯したハンカチをいつも持ち歩いていたが、いざ本人を目の前にすると躊躇してしまった。
一度は呪血で汚れたハンカチを返されたところで、誰が喜ぶだろうか。
「……すみません、なんでもございません」
急に元気のなくなった声に気づき、天馬は首を傾げる。
「それにしても、今日は本当によく来てくれた。並んでいる料理は、この日のために代々朝比奈家に仕える料理人たちが腕によりをかけて作ったものばかりだ。存分に楽しんでいってほしい」
そう言って優しげな表情で語りかけてくる天馬に、絃はぎこちなく微笑む。
自分はこの場に招待されたわけではなく紛れ込んだだけ、とは言えなかった。
そこへ璃々子が割って入る。
「天馬様。姉への挨拶はもう十分ですので、そろそろふたりきりでお話したいですわ!」
璃々子は天馬の腕に抱きつこうと手を伸ばしたが、天馬は易々とかわした。
そして、訝しげな表情を浮かべながら首を傾げる。
「さっきから、ところどころ視界の端に入って気にはなっていたが、キミは一体誰だろうか」
想像もしていなかった一言に、璃々子は思わず顔を引きつらせた。
「……まあ、天馬様ったらご冗談を〜。わたくしですよ、わ・た・く・し! 西条璃々子です!」
「ああ、そうか。キミも西条家のご令嬢だったか」
キミ〝も〟という言葉に反応し、微笑みながらも璃々子の目尻がピクリと動く。
「西条家は優秀な異能者が多いから、影鬼討伐時には我々國防隊もつい頼ってしまう」
「そうですよね! ですから、花嫁候補は西条家を選んでくださったのですよね」
すると、それを聞いた天馬はわずかに目を見開く。
「そうとわかっているのなら、話が早い。その件については、あとでゆっくり時間がほしい」
わずかに白い歯を見せて微笑む天馬に、璃々子はうっとりとした表情を見せていた。
「すまない。呼ばれているから一旦失礼する」
天馬はふたりに断りを入れると、会場内へと戻っていった。璃々子は、そんな天馬の後ろ姿に目を奪われていた。
そして、天馬の姿が見えなくなると、夢から覚めたように我に返り、侮蔑のこもった眼差しをそばにいた絃に向けた。
「なんでドブ女が、軽々しく天馬様と口を利いてるわけ? 自分の身分わかってる?」
「ち……違うの。バラ園でお会いしたことがあったから、つい……」
「は? バラ園? それに、そもそもこの場にドブ女がいるのがおかしいんじゃないの?」
「そう……なんだけど……」
息つく暇もない質問攻めに絃は言いよどむ。
「実は、璃々子に簪を挿し忘れたのに気がついて、それで……」
「簪?」
絃が恐る恐る着物の懐から簪を取り出すと、それを見た璃々子は鬼の形相になった。
「返して!! どうしてドブ女が持ってるのよ!」
「だ、だから、車で璃々子の髪を整えるときに外して――」
「まさか盗んだの!?」
璃々子の金切り声が庭に響き、驚いた他の招待客たちは一斉に目を向けた。
「璃々子、一体、何事だ」
「どうしたの、璃々子」
そこへ、料理を盛った皿を両手に抱えた秀徳と佳代子が戻ってきた。
そして、璃々子のそばにいた絃を見て顔をしかめる。
「……絃!? どうしてここに……!」
ここに本来いるはずのない絃の姿に、佳代子は小さく悲鳴に近い叫び声を上げ、秀徳は荒々しく絃の手首を掴んだ。
「絃、こい! ひとまず、お前たちも」
西条家は人目を避けるようにして、庭の隅へと場を移した。
「絃、なぜ言いつけのひとつも守れない!?」
秀徳の怒号を受けながら、絃はただひたすら頭を下げる。
「……申し訳ございません。でも、璃々子に――」
「ドブ女の分際で言い訳するつもり!? なんて見苦しい!」
佳代子は右手を大きく振り上げると、思いきり絃の頬を引っ叩いた。
「やめんか、佳代子。誰が見ているともわからないというのに。帰ってからでもいいだろう」
「だけど、あなた……!」
「それに、こんなみすぼらしい格好の絃を見られるだけで西条家の恥だ。今は一刻も早く、絃をここから追い出すことが先決だ」
秀徳は、顎を使って絃の後方を指し示す。
「絃、その茂みを越えて塀を伝うようにして行けば、門まで辿り着くはずだ。さっさと行きなさい。間違っても、屋敷の中へ入ろうなどと考えるな」
「は……、はい」
絃は声を震わせながら、きゅっと唇を噛んで頷いた。
「それよりも聞いて!さっき、天馬様がアタシのところへ来てくださったの」
「よかったじゃない、璃々子! 花嫁候補なのだから当然よね」
「そのことについても、あとでゆっくり時間がほしいですって!」
「そうか、そうか。花嫁は璃々子で決まりだというのに、朝比奈殿に必死に集る他の娘たちが滑稽に見えて仕方ないな」
「ええ、本当に」
秀徳と佳代子は、顔を見合わせながら冷笑を浮かべる。
「ひとまず、璃々子はお腹が空いただろう。パパたちは他の方々に挨拶してくるから、璃々子はひとりで食べていてくれるか?」
「平気よ、パパ」
「璃々子はえらいわね。待つことすらできないドブ女とは大違いだわ」
ふたりからなじられる絃を見て、璃々子はうれしそうに微笑む。
しかし、璃々子の溜まったうっぷんはそれくらいでは晴れない。
秀徳と佳代子が行ったのを横目で確認すると、おぼつかない足取りで茂みの中へと分け入っていく絃を見て、唇を噛んだ。
親しげに天馬と話す、さっきの絃の幸せそうな表情が目に焼きついて離れなかったのだ。
「なんで、あのドブ女なんかがっ」
舌打ちをした璃々子は、右手の小指の腹を噛み切ると、その血で、左の手のひらに呪式を書いた。
すると、そこから無数の蜂が現れた。
「ドブ女にちょっとイタズラしちゃって」
璃々子の口寄せによって出現した神使の蜂たちは、一斉に絃の背後から攻撃を仕掛けた。
「痛っ! なに……?」
突然の痛みに顔をしかめると、絃を取り囲むようにして蜂の大群が羽音を立てている。その状況に、絃は顔が真っ青になった。
すぐに璃々子の口寄せだとわかったが、声を上げる間もなく、無防備な絃を容赦なく蜂たちが襲う。
「見えるところはだめよ〜? 髪や着物で隠れているところを狙うのよ」
璃々子の命令に蜂たちは従う。
「や、やめて……璃々子!」
「フフフ、いい気味。目障りなあんたが悪いんだから」
しつこく追いかけてくる蜂に慌てる絃を見て、璃々子は笑いが堪えられなかった。
絃はパニックに陥り、必死に振り払ううちに、いつの間にか招待客たちの方へ向かって逃げてしまっていた。
「あらら〜、そっちに行っちゃだめじゃない」
仕方なく璃々子が口寄せを解くと、一瞬にして大量の蜂たちは煙のように姿を消した。
しかし、冷静さを失っていた絃は、未だに蜂に追いかけられていると思い込み逃げ惑う。
「なに……この子!?」
突然、奇妙な動きをして飛び込んできた絃に、周囲の人々は騒然となった。
「いいの? こっちに来たらまたパパとママに叱られるわよ〜?」
足がもつれて転倒した絃に、クスクスと笑いながら璃々子が顔を近づけてくる。
絃は、蜂に襲われた恐怖のあまり目に涙を浮かべていて、その顔に璃々子は最高の快感を覚える。
すると、そんな璃々子の頬をなにかが突ついた。
「痛っ!」
璃々子が振り払うと、手の甲に当たったものがボールのようにして弾んだ。
なにかと思い顔をしかめる璃々子を、つぶらな瞳で睨みつける丸いものがいた。
絃の神使のピーちゃんだった。
「は? なにこの団子?」
「ピー!」
怒ったピーちゃんが、璃々子のスネを突つく。
「だめ! ピーちゃん!」
人前には姿を見せてはいけない約束のため、絃は慌ててピーちゃんを抱きかかえる。
だが、ピーちゃんは絃を傷つけられて我慢できなかったようだ。
「もしかして、あんたの神使? 口寄せが使えたの?」
璃々子は驚いて瞬きを繰り返しながら、半信半疑で絃の腕の中にいるピーちゃんを覗き込んだ。
「てっきり無能とばかり思ってたけど。まあ、血筋的には異能が使えても不思議じゃないものね」
突然のピーちゃんの出現に、璃々子は顎に手を添えながら独り言を漏らす。
「それにしても、ドブ女にふさわしいみっともない鳥ね! こんな団子みたいなブサイクな鳥、見たことないわ!」
上から目線で不気味な笑みを見せると、璃々子は絃からピーちゃんを奪い取り、仕返しに何度も指で弾いて弄ぶ。
「やめて! ピーちゃんを返して!」
絃が必死に手を伸ばし、なんとか無事にピーちゃんを奪還できたが、そのとき、絃の視界にふらりとよろける璃々子の姿が映った。
次の瞬間、なぜか璃々子は食事が並ぶテーブルに思いきり体を打ちつけた。
ガッシャーン!!
取り分け用に積まれていた皿が地面に落ち、けたたましい音が庭に響き渡る。
その音に驚いた招待客たちは一斉に目を向けた。
璃々子は一瞬、絃にニヤリと微笑んだあと、すぐに顔を引きつらせた。
「……誰か、助けて! お姉ちゃんに突き飛ばされたの!」
周囲に訴えかけるように泣き叫ぶ璃々子を見ながら、絃は呆然と立ち尽くしていた。
ピーちゃんを取り返す際、璃々子には少し触れはしたが、突き飛ばすようなことは一切していない。
それに璃々子が自らテーブルに倒れ込んだのは、さっきの微笑みからでも明らかだった。
近くにいた招待客たちは、口元に手を添え小声で話し合う。
「あれって、西条家の娘さんよね?」
「ええ、でもあの長女は養女らしいわよ。それにさっき聞こえた話だと、次女は朝比奈様の花嫁候補だとか」
「なるほどね。だから、妹が疎ましかったのかしら。そうだったとしても、突き飛ばすなんてひどい姉ね」
璃々子の企みにより、一瞬にして〝可哀想な妹と悪者の姉〟という構図にされてしまった。
騒ぎを聞きつけた秀徳と佳代子も、璃々子のもとへ駆けつける。
「璃々子!」
「……パパ〜! ママ〜!」
璃々子は泣きじゃくりながら、ふたりに助けを求める。
愛娘を抱きしめた佳代子は、すぐにその腕に傷があることに気づいた。
「あなた、大変! 璃々子が怪我をしているわ……!」
怪我といっても、わずかに血が滲むくらいの軽い擦り傷だ。
それよりも、絃の着物に隠れた蜂の刺し傷の方が重傷だ。
「どうしたんだ」
そこに天馬も駆けつけ、璃々子たちと絃に交互に目を向けた。
「天馬様、聞いてください! 姉がわたくしを突き飛ばして……!」
誰が見ても、絃が璃々子に危害を加えたと思い込みかねない状況。
これまでにも璃々子に陥れられた記憶が何度もある絃は、弁解したところで自分の話を信じてもらえた試しなどなく、初めから言い訳するつもりもなかった。
今回だって、姉にいじめられた哀れな妹の璃々子の主張が通る。
そう思って、ただ黙ってうつむいていると――。
「すぐに手当てをしよう」
璃々子には目もくれず、素通りして天馬が向かったのは絃のもとだった。
「えっ、……わたし?」
顔を上げると、絃の手をそっとすくい上げる天馬と目が合った。
見つめ合うふたりを目の当たりにした見た璃々子は、一瞬にして頭に血が上る。
「どうして姉を!? わたくしの方が怪我をしているというのに……!」
璃々子は着物の袖をめくり、擦り傷をこれでもかというほどに見せつける。
それを見た天馬は、フッと笑ってみせたのち、気だるげにため息をついた。
「そんな怪我、唾でもつけていろ」
無機質な表情で冷たい視線を落とされた璃々子は、湧き上がる怒りで握り拳をぷるぷると震わせる。
「おかしいではありませんか! 花嫁候補のわたくしよりも、小汚い姉を優先するなんて!」
絃に突きつけられた璃々子の指先は、まるで鋭い刃物の切っ先のようだ。
思わず怯えて顔を強張らせる絃だったが、庇うようにすかさず天馬が間に入った。
「さっきからおっしゃっている意味がわからないのですが。花嫁候補とは、一体誰のことを言っているのだろうか」
「誰って……。もちろん、このわたくしでしょう? だから、招待状もうちにわざわざ手渡しにきてくださって――」
「ええ、そうです。しかし、あなたに当てたわけではない」
思いもよらない天馬の言葉に、璃々子は目を大きく見開く。
天馬はそばにいた絃の肩に手を添えると、優しく自分の胸へと抱き寄せた。
「俺が花嫁として選んだのは、ここにいる絃です」
突然の天馬の結婚宣言に周囲はどよめく。
絃も驚いて目を丸くしたが、それ以上に驚愕してその場で固まってしまっていたのは西条家の三人だった。
それを見た招待客たちは、口元に手を当てて口々に話す。
「西条家の次女が花嫁候補じゃなかったの?」
「本人が自慢げに言ってたからそうだと思ってたけど、もしかしてただの勘違い?」
「やだ、恥ずかしい。私だったらこんな状況、すぐにでも穴があったら入りたいわ」
公衆の面前で恥をかかされた璃々子は、顔を真っ赤にさせる。しかし、引き下がらない。
「天馬様、どうされたのですか! 先ほど、わたくしにお話してくださったではありませんか。その件については、あとでゆっくり時間がほしいと!」
さらに詰め寄るが、天馬は冷たくあしらう。
「たしかに言ったが、それは絃に向けてだ。キミと話すことなどなにもない」
そう言い放つと、天馬は絃の体に手を添えると軽々と抱きかかえた。
「おっ、下ろしてください……!」
「無理をするな。今から手当てをしに行くから」
恥ずかしがる絃を見て、天馬は余裕の笑みを浮かべる。
「お待ちください、朝比奈殿!」
絃を抱きかかえる天馬の前に、秀徳が立ち塞がる。
「正気ですか、絃を花嫁になんて! 朝比奈家の嫁であれば、強い異能力を持つ女性が選ばれるのではないのですか!?」
「おっしゃる通りですが、それがなにか?」
「でしたら、うちの璃々子こそがまさしくその器でしょうに! 異能力も美貌も、ここにいる女性たちの中で最も優れているはずです!」
その発言で、周囲にいる人々を敵に回すことになるなど気にも留めない。
秀徳の後押しに、璃々子は真剣な顔付きに変え、隣にいる佳代子はうんうんと何度も頷く。
ところが、当の天馬には響くどころか、気だるげにため息をつかれた。
「あなたたちは、普段から絃といっしょにいてなにも感じなかったのですか? それがわからないのであれば、お話するだけ時間の無駄です。失礼」
天馬は冷たく吐き捨てると、絃を抱きかかえてその場を去った。
握り締めたまま、あの場で返すのをすっかり忘れていて持ち帰ってきてしまった。
洗濯したところで、こんな黒い血で汚れたハンカチを返されても迷惑に思われるかもしれない。
そう自分に言い聞かせてはみるが、男が別れ際に告げたあの言葉が忘れられなかった。
『また会おう、絃』
どういう意味で言ったのかはわからない。
それにこちらから訪ねようにも、相手の名前さえ知らない。
どうやら軍の隊長のようだが、身分が違いすぎて本来であれば二度と顔を合わすこともないはず。
ただ絃は、どうしてもあの言葉が引っかかっていた。
もしなにかの偶然で再会できたら、直接本人にお返しできますように。
絃はそんな願いも込めて、白いシルクのハンカチを丁寧に丁寧に手洗いするのだった。
それから一ヶ月ほどがたった頃、西条家はとある場所へと招かれていた。
そこは、この國で五本の指に入るほどの力を持つ異能家系、朝比奈家の屋敷だ。
「パパ、ママ、見て! すごいお屋敷!」
高い塀で囲われた広大な敷地内に佇む異国風のモダンなデザインの豪邸が車の窓から見え、璃々子は声を弾ませる。
先日、朝比奈家当主が急な病で亡くなり、急遽、息子の天馬へと当主の座が引き継がれた。今日はその襲名式で、各地域から有名な異能家系の当主が呼ばれていた。
招待状などの軽い文は異能により各家へ届けるのが一般的だが、なぜか西条家だけは朝比奈家の使いの者が直接やってきた。
噂によれば、襲名式後のパーティーは、天馬の配偶者探しのための見合いも兼ねているとの情報もあった。
直々に招待状を手渡されるという特別感に、もしや璃々子が花嫁候補ではと秀徳たちはほくそ笑んでいた。
新たに朝比奈家の当主となった天馬は、二十三歳という若さでありながら、影鬼の討伐に不可欠な軍の國防隊隊長を務め、この國の中枢を担う重要な異能者だ。
名の知れた朝比奈家の当主で、軍隊長。
さらに、女性ならば思わず振り返るほどの申し分ない容姿まで持ち合わせているため、招かれた異能家系の令嬢たちは天馬の妻の座を狙うため、静かな火花を散らしていた。
西条家は、絃と璃々子それぞれが招待されていたが、もちろん秀徳たちは絃の出席は認めなかった。
そのため留守番の予定だったはずが、なぜか行きの車の中には絃の姿もあった。
璃々子が、ああでもないこうでもない、と世話係の絃に文句をつけ、身支度が大幅に遅れてしまった。そのせいで、仕方なく絃も迎えの車に乗り込み、到着直前まで璃々子に化粧を施していたのだった。
「これだから、グズのドブ女はっ。今日の主役はアタシなんだから、ちゃんとしてよね」
なんとか間に合わせた絃に向かって、璃々子は容赦なく吐き捨てる。
「本当にこのドブ女、もう少し要領よくできないものかしら」
佳代子も絃に舌打ちをするが、すぐに表情を緩めて璃々子を見つめる。
「それにしても璃々子、とっても綺麗よ」
「ああ。朝比奈殿も璃々子のあまりの美しさに釘付けになること間違いなしだな」
佳代子と秀徳の褒め言葉に、璃々子は満足げに微笑む。
「天馬様って國防隊の隊長ということは、和久様より格上よね? どうしましょ〜! そんな方に見初められてしまうなんてっ」
ついこの間までは、和久とのやり取りを絃に自慢していた璃々子だったが、天馬の花嫁候補かもしれないと秀徳たちに言われてからは、そのことで頭の中がいっぱいだった。
浮かれる璃々子を微笑んで見ていた秀徳は、表情を一変して冷たい視線を絃に向ける。
「いいな、絃。パーティーが終わるまで、お前は外で待っているんだぞ」
「……はい、お父様」
車から降りる際、秀徳は絃にきつく言って聞かせた。
出席者たちを横目に見ながら、地味な普段着姿の絃は、そそくさと屋敷の敷地外へと出た。
三時間後にパーティーが終わり、そのときにまた迎えの車が来る。それまで絃は、外でひとり待ちぼうけだ。
朝比奈家の当主が軍の隊長だと聞いて、絃は着物の懐にあの白いハンカチを忍ばせてきた。
だが、軍にもいくつかの部隊があり、朝比奈天馬という人物が、あのハンカチの持ち主かはわからない。
別人の可能性は十分にあるし、もし同一人物だったとしても、秀徳から中に入ることを許されていない以上、顔を合わせることはできない。
「せめて、お名前だけでもお聞きしておけばよかった……」
絃はため息をついて、あのときの颯爽と駆けつけてきた男の姿を思い浮かべながら、ハンカチを挟んでいる着物の懐にそっと手を当てた。
そのとき、なにか違和感を覚えた。懐にハンカチ以外の硬い感触があった。
それを慌てて引き抜くと、蝶と花がデザインされた璃々子の一番お気に入りの簪が出てきた。
そういえば、車内で髪もやり直しさせられ、璃々子の頭についていた髪飾りもひとつずつ外していくハメになった。
そしてこの簪の置き場に困り、絃はやむを得ず、一旦、自分の着物の懐に挿し込んだのだった。
璃々子に「早くしろ」と急かされていたこともあり、挿し直すのをすっかり忘れていた。
「どうしよう……」
簪を握った絃の手が震え、額からは汗が流れ落ちる。
もしかしたら、このまま気づかれずに済むかもしれない。だが、万が一、このお気に入りの簪がないとわかったら――。
秀徳たちが中に入ってから、一時間近くが経過していた。
襲名式の最中は入れないが、そのあとに懇親会として立食パーティーが予定されている。そのときに璃々子に訳を話して簪をつけるのが、一番、被害を最小限に抑えられるはずだ。
そう考えた絃は、ごくりと唾を飲み込んだ。
屋敷の門をくぐり正面扉に向かうと、すかさず警備の者たちが行く手を阻むようにして立ち塞がった。
「どなた様でしょうか」
とても招待客とは思えない質素な格好の絃を見て、彼らは怪訝な表情を浮かべる。
「あ、あの……、わたしは……」
『忘れ物を届けに来ただけ』と言ったところで、簡単には通してくれなそうだ。
本当は抵抗があったが、今は早く璃々子に届けるべきだと考え、絃は仕方なくこう口にした。
「わたしは、西条家長女の絃です」
それを聞くと、警備の者たちはすぐさま頭を下げた。
「これは、西条家のご令嬢に対して大変失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
西条家からは長女として認めてもらえていないというのに、自分で名乗るのは精神が削がれる思いだった。
絃は複雑な心境のまま会釈をして、屋敷の中へと入っていった。
襲名式が行われていた会場は、ダンスホールのように広く、天井からはシャンデリアが吊り下げられ、そのきらびやかな光景に絃は思わず目を見張った。
絃の予想通り、少し前に襲名式が終わったようで、会場から開け放たれたフレンチドアの先にある広々とした庭も含めての立食パーティーが開かれていた。
大勢の招待客がドリンク片手に談笑しており、この中から璃々子を探し出すのは苦労しそうだった。
なるべく人目に触れず、そっと璃々子を探したかったが、この場に似つかわしくない身なりの絃は逆に目立ってしまっていた。
「……ちょっと見て、あれ」
「あの娘、もう少しマシな格好はできなかったのか」
「間違って、使用人が迷い込んだんじゃない?」
人々は絃を冷ややかな目で見つめる。
絃はうつむきながら人と人の間を縫うようにして璃々子を探した。
すると、会場の中央付近に若い娘たちが団子のように密集している場があった。
「噂で聞いていたよりも、実物のほうがなんて素敵なの〜」
「どうしましょう! お手が触れてしまったわ」
そこに集まった娘たちが皆、目を輝かせているので、人だかりの中心に主役の朝比奈天馬がいるのだろうと察することができる。しかし、あまりに人が多すぎて、その姿を確認することはできない。
その代わりに、人だかりから一歩引いた位置で、他の令嬢よりも一際、派手な着物を着て、人一倍めかし込んでいる璃々子を見つけた。
璃々子は、天馬に集る娘たちを刺し殺すような勢いで睨んでいる。
「なんなの、あいつらっ。適当に招待されただけの脇役の分際で、本命のアタシを差し置いて天馬様に近づくだなんて」
舌打ちを繰り返す璃々子のそばには、ご機嫌を取ろうと秀徳と佳代子も揃っていた。
「気にすることないわよ、璃々子。あんなふうに、しつこい女はモテないものよ」
「ママの言う通りだ。それに、うちは朝比奈家から直々に招待されたんだ。落ち着いたら、朝比奈殿自ら璃々子のところへきてくれるだろう」
秀徳の言葉に、璃々子は目を輝かせる。
「ほんと!? じゃあ、それまでお食事を楽しもうかしら」
「そうしようとするか。パパとママが料理を取ってくるから、璃々子は庭のベンチで休んでいるといい」
秀徳にそう言われ、璃々子はひとり庭へと移動する。見失わないようにと、絃はあとを追う。
ところが、設けられたテーブル付きのベンチにはすでに人がいっぱいだった。
「……チッ。西条家より下の凡人どものくせに、占領してんじゃないわよ」
会場内にはオードブル、庭にはスイーツが並べられていた。
苛立っていた璃々子は、ひと口サイズのショートケーキに荒々しくフォークを突き刺すと、そのまま口へと運んだ。
「あら、意外とおいしいじゃない」
璃々子はペロリと口の端についたクリームを舐め取る。
「璃々子……」
そこへ、身を低くして近づいた絃が声をかける。
振り返った璃々子は、絃の姿を見て驚いて目を丸くした。
「……は? なんでドブ女がここに?」
「璃々子、ごめんなさい。実は――」
絃がそう言いかけたときだった。
眉間にシワを寄せた璃々子の険しい表情が一瞬にして緩み、大きく目を見開いて絃の後ろを見た。
何事かと絃がゆっくりと背後を振り返ると、そこには軍の儀礼服に身を包んだ長身の男が立っていた。
「お話し中、失礼する。もしかして、キミは……」
透き通るような碧色の瞳に絃ははっとした。
「あなたは……!」
絃が呟いた途端、思いきり着物が引っ張られた。そうして、絃の前に出しゃばるようにして進み出たのは璃々子だった。
「天馬様! わたくしに会いに来てくださったのですね!」
璃々子は猫撫で声で天馬を見つめる。
絃はその璃々子の言葉に、この男が朝比奈家当主で國防隊隊長――そして、あのときハンカチを渡してくれた男だと知った。
秀徳の言ったように、自らやってきた天馬を見て、璃々子はうれしさのあまり、その場で弾んでいる。
「天馬様、お待ちしておりましたわ! なかなか来てくださらなかったので、わたくし寂しくて――」
「すまない。そこのキミは、少し静かにしていてくれないか」
思い描いていた態度とは違う天馬に、璃々子は状況が飲み込めずぽかんと突っ立っている。
声をかけられたのが自分だと気づいた絃は我に返った。
「あのっ。先日は助けていただき、ありがとうございました……!」
「絃、やはりキミだったか。さっき、似ている女性を見かけたような気がして、とっさに追いかけてきてしまった」
深く頭を下げる絃を見て、天馬は優しく微笑む。
そんなふたりのやり取りを見て、璃々子は口をあんぐりと開ける。
「……はっ!? 追いかけた!? なんで天馬様がドブ女をっ。それに〝絃〟って……、ふたりはどうして顔見知りなの」
周囲のざわめきにかき消されたが、璃々子は心の中で呟いたつもりだった声が漏れていた。
「もう傷は大丈夫か」
「はい、たいしたことはございません。お気遣いいただきありがとうございます」
「それならよかった」
天馬は安心したように目を細め、表情を緩ませる。
「……あっ。それで、実は今日――」
絃は一旦、ハンカチを忍ばせている着物の懐に手をやった。しかし、そこで表情を曇らせ、その手をゆっくりと下ろした。
もし、次に会うことがあったらと思って、洗濯したハンカチをいつも持ち歩いていたが、いざ本人を目の前にすると躊躇してしまった。
一度は呪血で汚れたハンカチを返されたところで、誰が喜ぶだろうか。
「……すみません、なんでもございません」
急に元気のなくなった声に気づき、天馬は首を傾げる。
「それにしても、今日は本当によく来てくれた。並んでいる料理は、この日のために代々朝比奈家に仕える料理人たちが腕によりをかけて作ったものばかりだ。存分に楽しんでいってほしい」
そう言って優しげな表情で語りかけてくる天馬に、絃はぎこちなく微笑む。
自分はこの場に招待されたわけではなく紛れ込んだだけ、とは言えなかった。
そこへ璃々子が割って入る。
「天馬様。姉への挨拶はもう十分ですので、そろそろふたりきりでお話したいですわ!」
璃々子は天馬の腕に抱きつこうと手を伸ばしたが、天馬は易々とかわした。
そして、訝しげな表情を浮かべながら首を傾げる。
「さっきから、ところどころ視界の端に入って気にはなっていたが、キミは一体誰だろうか」
想像もしていなかった一言に、璃々子は思わず顔を引きつらせた。
「……まあ、天馬様ったらご冗談を〜。わたくしですよ、わ・た・く・し! 西条璃々子です!」
「ああ、そうか。キミも西条家のご令嬢だったか」
キミ〝も〟という言葉に反応し、微笑みながらも璃々子の目尻がピクリと動く。
「西条家は優秀な異能者が多いから、影鬼討伐時には我々國防隊もつい頼ってしまう」
「そうですよね! ですから、花嫁候補は西条家を選んでくださったのですよね」
すると、それを聞いた天馬はわずかに目を見開く。
「そうとわかっているのなら、話が早い。その件については、あとでゆっくり時間がほしい」
わずかに白い歯を見せて微笑む天馬に、璃々子はうっとりとした表情を見せていた。
「すまない。呼ばれているから一旦失礼する」
天馬はふたりに断りを入れると、会場内へと戻っていった。璃々子は、そんな天馬の後ろ姿に目を奪われていた。
そして、天馬の姿が見えなくなると、夢から覚めたように我に返り、侮蔑のこもった眼差しをそばにいた絃に向けた。
「なんでドブ女が、軽々しく天馬様と口を利いてるわけ? 自分の身分わかってる?」
「ち……違うの。バラ園でお会いしたことがあったから、つい……」
「は? バラ園? それに、そもそもこの場にドブ女がいるのがおかしいんじゃないの?」
「そう……なんだけど……」
息つく暇もない質問攻めに絃は言いよどむ。
「実は、璃々子に簪を挿し忘れたのに気がついて、それで……」
「簪?」
絃が恐る恐る着物の懐から簪を取り出すと、それを見た璃々子は鬼の形相になった。
「返して!! どうしてドブ女が持ってるのよ!」
「だ、だから、車で璃々子の髪を整えるときに外して――」
「まさか盗んだの!?」
璃々子の金切り声が庭に響き、驚いた他の招待客たちは一斉に目を向けた。
「璃々子、一体、何事だ」
「どうしたの、璃々子」
そこへ、料理を盛った皿を両手に抱えた秀徳と佳代子が戻ってきた。
そして、璃々子のそばにいた絃を見て顔をしかめる。
「……絃!? どうしてここに……!」
ここに本来いるはずのない絃の姿に、佳代子は小さく悲鳴に近い叫び声を上げ、秀徳は荒々しく絃の手首を掴んだ。
「絃、こい! ひとまず、お前たちも」
西条家は人目を避けるようにして、庭の隅へと場を移した。
「絃、なぜ言いつけのひとつも守れない!?」
秀徳の怒号を受けながら、絃はただひたすら頭を下げる。
「……申し訳ございません。でも、璃々子に――」
「ドブ女の分際で言い訳するつもり!? なんて見苦しい!」
佳代子は右手を大きく振り上げると、思いきり絃の頬を引っ叩いた。
「やめんか、佳代子。誰が見ているともわからないというのに。帰ってからでもいいだろう」
「だけど、あなた……!」
「それに、こんなみすぼらしい格好の絃を見られるだけで西条家の恥だ。今は一刻も早く、絃をここから追い出すことが先決だ」
秀徳は、顎を使って絃の後方を指し示す。
「絃、その茂みを越えて塀を伝うようにして行けば、門まで辿り着くはずだ。さっさと行きなさい。間違っても、屋敷の中へ入ろうなどと考えるな」
「は……、はい」
絃は声を震わせながら、きゅっと唇を噛んで頷いた。
「それよりも聞いて!さっき、天馬様がアタシのところへ来てくださったの」
「よかったじゃない、璃々子! 花嫁候補なのだから当然よね」
「そのことについても、あとでゆっくり時間がほしいですって!」
「そうか、そうか。花嫁は璃々子で決まりだというのに、朝比奈殿に必死に集る他の娘たちが滑稽に見えて仕方ないな」
「ええ、本当に」
秀徳と佳代子は、顔を見合わせながら冷笑を浮かべる。
「ひとまず、璃々子はお腹が空いただろう。パパたちは他の方々に挨拶してくるから、璃々子はひとりで食べていてくれるか?」
「平気よ、パパ」
「璃々子はえらいわね。待つことすらできないドブ女とは大違いだわ」
ふたりからなじられる絃を見て、璃々子はうれしそうに微笑む。
しかし、璃々子の溜まったうっぷんはそれくらいでは晴れない。
秀徳と佳代子が行ったのを横目で確認すると、おぼつかない足取りで茂みの中へと分け入っていく絃を見て、唇を噛んだ。
親しげに天馬と話す、さっきの絃の幸せそうな表情が目に焼きついて離れなかったのだ。
「なんで、あのドブ女なんかがっ」
舌打ちをした璃々子は、右手の小指の腹を噛み切ると、その血で、左の手のひらに呪式を書いた。
すると、そこから無数の蜂が現れた。
「ドブ女にちょっとイタズラしちゃって」
璃々子の口寄せによって出現した神使の蜂たちは、一斉に絃の背後から攻撃を仕掛けた。
「痛っ! なに……?」
突然の痛みに顔をしかめると、絃を取り囲むようにして蜂の大群が羽音を立てている。その状況に、絃は顔が真っ青になった。
すぐに璃々子の口寄せだとわかったが、声を上げる間もなく、無防備な絃を容赦なく蜂たちが襲う。
「見えるところはだめよ〜? 髪や着物で隠れているところを狙うのよ」
璃々子の命令に蜂たちは従う。
「や、やめて……璃々子!」
「フフフ、いい気味。目障りなあんたが悪いんだから」
しつこく追いかけてくる蜂に慌てる絃を見て、璃々子は笑いが堪えられなかった。
絃はパニックに陥り、必死に振り払ううちに、いつの間にか招待客たちの方へ向かって逃げてしまっていた。
「あらら〜、そっちに行っちゃだめじゃない」
仕方なく璃々子が口寄せを解くと、一瞬にして大量の蜂たちは煙のように姿を消した。
しかし、冷静さを失っていた絃は、未だに蜂に追いかけられていると思い込み逃げ惑う。
「なに……この子!?」
突然、奇妙な動きをして飛び込んできた絃に、周囲の人々は騒然となった。
「いいの? こっちに来たらまたパパとママに叱られるわよ〜?」
足がもつれて転倒した絃に、クスクスと笑いながら璃々子が顔を近づけてくる。
絃は、蜂に襲われた恐怖のあまり目に涙を浮かべていて、その顔に璃々子は最高の快感を覚える。
すると、そんな璃々子の頬をなにかが突ついた。
「痛っ!」
璃々子が振り払うと、手の甲に当たったものがボールのようにして弾んだ。
なにかと思い顔をしかめる璃々子を、つぶらな瞳で睨みつける丸いものがいた。
絃の神使のピーちゃんだった。
「は? なにこの団子?」
「ピー!」
怒ったピーちゃんが、璃々子のスネを突つく。
「だめ! ピーちゃん!」
人前には姿を見せてはいけない約束のため、絃は慌ててピーちゃんを抱きかかえる。
だが、ピーちゃんは絃を傷つけられて我慢できなかったようだ。
「もしかして、あんたの神使? 口寄せが使えたの?」
璃々子は驚いて瞬きを繰り返しながら、半信半疑で絃の腕の中にいるピーちゃんを覗き込んだ。
「てっきり無能とばかり思ってたけど。まあ、血筋的には異能が使えても不思議じゃないものね」
突然のピーちゃんの出現に、璃々子は顎に手を添えながら独り言を漏らす。
「それにしても、ドブ女にふさわしいみっともない鳥ね! こんな団子みたいなブサイクな鳥、見たことないわ!」
上から目線で不気味な笑みを見せると、璃々子は絃からピーちゃんを奪い取り、仕返しに何度も指で弾いて弄ぶ。
「やめて! ピーちゃんを返して!」
絃が必死に手を伸ばし、なんとか無事にピーちゃんを奪還できたが、そのとき、絃の視界にふらりとよろける璃々子の姿が映った。
次の瞬間、なぜか璃々子は食事が並ぶテーブルに思いきり体を打ちつけた。
ガッシャーン!!
取り分け用に積まれていた皿が地面に落ち、けたたましい音が庭に響き渡る。
その音に驚いた招待客たちは一斉に目を向けた。
璃々子は一瞬、絃にニヤリと微笑んだあと、すぐに顔を引きつらせた。
「……誰か、助けて! お姉ちゃんに突き飛ばされたの!」
周囲に訴えかけるように泣き叫ぶ璃々子を見ながら、絃は呆然と立ち尽くしていた。
ピーちゃんを取り返す際、璃々子には少し触れはしたが、突き飛ばすようなことは一切していない。
それに璃々子が自らテーブルに倒れ込んだのは、さっきの微笑みからでも明らかだった。
近くにいた招待客たちは、口元に手を添え小声で話し合う。
「あれって、西条家の娘さんよね?」
「ええ、でもあの長女は養女らしいわよ。それにさっき聞こえた話だと、次女は朝比奈様の花嫁候補だとか」
「なるほどね。だから、妹が疎ましかったのかしら。そうだったとしても、突き飛ばすなんてひどい姉ね」
璃々子の企みにより、一瞬にして〝可哀想な妹と悪者の姉〟という構図にされてしまった。
騒ぎを聞きつけた秀徳と佳代子も、璃々子のもとへ駆けつける。
「璃々子!」
「……パパ〜! ママ〜!」
璃々子は泣きじゃくりながら、ふたりに助けを求める。
愛娘を抱きしめた佳代子は、すぐにその腕に傷があることに気づいた。
「あなた、大変! 璃々子が怪我をしているわ……!」
怪我といっても、わずかに血が滲むくらいの軽い擦り傷だ。
それよりも、絃の着物に隠れた蜂の刺し傷の方が重傷だ。
「どうしたんだ」
そこに天馬も駆けつけ、璃々子たちと絃に交互に目を向けた。
「天馬様、聞いてください! 姉がわたくしを突き飛ばして……!」
誰が見ても、絃が璃々子に危害を加えたと思い込みかねない状況。
これまでにも璃々子に陥れられた記憶が何度もある絃は、弁解したところで自分の話を信じてもらえた試しなどなく、初めから言い訳するつもりもなかった。
今回だって、姉にいじめられた哀れな妹の璃々子の主張が通る。
そう思って、ただ黙ってうつむいていると――。
「すぐに手当てをしよう」
璃々子には目もくれず、素通りして天馬が向かったのは絃のもとだった。
「えっ、……わたし?」
顔を上げると、絃の手をそっとすくい上げる天馬と目が合った。
見つめ合うふたりを目の当たりにした見た璃々子は、一瞬にして頭に血が上る。
「どうして姉を!? わたくしの方が怪我をしているというのに……!」
璃々子は着物の袖をめくり、擦り傷をこれでもかというほどに見せつける。
それを見た天馬は、フッと笑ってみせたのち、気だるげにため息をついた。
「そんな怪我、唾でもつけていろ」
無機質な表情で冷たい視線を落とされた璃々子は、湧き上がる怒りで握り拳をぷるぷると震わせる。
「おかしいではありませんか! 花嫁候補のわたくしよりも、小汚い姉を優先するなんて!」
絃に突きつけられた璃々子の指先は、まるで鋭い刃物の切っ先のようだ。
思わず怯えて顔を強張らせる絃だったが、庇うようにすかさず天馬が間に入った。
「さっきからおっしゃっている意味がわからないのですが。花嫁候補とは、一体誰のことを言っているのだろうか」
「誰って……。もちろん、このわたくしでしょう? だから、招待状もうちにわざわざ手渡しにきてくださって――」
「ええ、そうです。しかし、あなたに当てたわけではない」
思いもよらない天馬の言葉に、璃々子は目を大きく見開く。
天馬はそばにいた絃の肩に手を添えると、優しく自分の胸へと抱き寄せた。
「俺が花嫁として選んだのは、ここにいる絃です」
突然の天馬の結婚宣言に周囲はどよめく。
絃も驚いて目を丸くしたが、それ以上に驚愕してその場で固まってしまっていたのは西条家の三人だった。
それを見た招待客たちは、口元に手を当てて口々に話す。
「西条家の次女が花嫁候補じゃなかったの?」
「本人が自慢げに言ってたからそうだと思ってたけど、もしかしてただの勘違い?」
「やだ、恥ずかしい。私だったらこんな状況、すぐにでも穴があったら入りたいわ」
公衆の面前で恥をかかされた璃々子は、顔を真っ赤にさせる。しかし、引き下がらない。
「天馬様、どうされたのですか! 先ほど、わたくしにお話してくださったではありませんか。その件については、あとでゆっくり時間がほしいと!」
さらに詰め寄るが、天馬は冷たくあしらう。
「たしかに言ったが、それは絃に向けてだ。キミと話すことなどなにもない」
そう言い放つと、天馬は絃の体に手を添えると軽々と抱きかかえた。
「おっ、下ろしてください……!」
「無理をするな。今から手当てをしに行くから」
恥ずかしがる絃を見て、天馬は余裕の笑みを浮かべる。
「お待ちください、朝比奈殿!」
絃を抱きかかえる天馬の前に、秀徳が立ち塞がる。
「正気ですか、絃を花嫁になんて! 朝比奈家の嫁であれば、強い異能力を持つ女性が選ばれるのではないのですか!?」
「おっしゃる通りですが、それがなにか?」
「でしたら、うちの璃々子こそがまさしくその器でしょうに! 異能力も美貌も、ここにいる女性たちの中で最も優れているはずです!」
その発言で、周囲にいる人々を敵に回すことになるなど気にも留めない。
秀徳の後押しに、璃々子は真剣な顔付きに変え、隣にいる佳代子はうんうんと何度も頷く。
ところが、当の天馬には響くどころか、気だるげにため息をつかれた。
「あなたたちは、普段から絃といっしょにいてなにも感じなかったのですか? それがわからないのであれば、お話するだけ時間の無駄です。失礼」
天馬は冷たく吐き捨てると、絃を抱きかかえてその場を去った。



