「このドブ女!」
西条家の屋敷に、今日もドスの効いた怒鳴り声が響く。
「ったく、何度言ったらわかるのかしら」
「も……申し訳ございません」
怯えながら深く頭を下げる少女を、まるで親の仇のごとく睨みつけている女性は佳代子。
この家の当主、秀徳の妻だ。
佳代子の後ろでほくそ笑んでいるのは、娘の璃々子。
流行りのウェーブのかかったロングヘアに、一点物の豪華な着物に身を包み、高価な装飾品で着飾っている。
「ママ。ドブ女なんかほっといて、早く朝食にしましょうよ」
ふたりから〝ドブ女〟と呼ばれている少女の名は絃。
手入れされていないボサボサの長い髪に、着物の袖口や裾からは痩せこけた手足が見え隠れしている。
華やかな見た目の璃々子とは正反対のみすぼらしい姿をしているが、絃は璃々子のふたつ上の姉だ。
とはいっても、実の姉妹ではない。
絃は、璃々子の父・秀徳の姉の娘で、実際は従姉妹に当たる。
ここ西条家は、優秀な異能の血を色濃く受け継ぐ名高き家系。
そこへ今から約十二年前、六歳の絃は、実の母と共にやってきた。
絃の母は若いとき、政略結婚から逃れるため将来を誓い合っていた男と駆け落ちし、ふたりで田舎の小さな村で慎ましくも幸せに暮らしていた。
そして、後に絃を授かる。
ところが幸せは長くは続かず、男は流行り病にかかり早逝し、さらに絃には生まれながらにしてある秘密を抱えていることも判明する。
それは、墨を垂らしこんだような黒い血〝呪血〟の持ち主だったのだ。
その邪悪な色の見た目から〝呪いの血〟の名がつけられた〝呪血〟の人間は、古来より災いをもたらすといわれ、差別の対象とされてきた。
実は絃の父も呪血で、ひどい扱いを受けてきた過去があった。
呪血は本来突然変異によるもので、遺伝しないとされている。だが、絃はたまたま父と同じ血を持って生まれてきたのだった。
その秘密が住んでいた村の者たちに知られ、ふたりは村を追い出されてしまう。
その後も行く先々の村で拒絶され、さらには過激な思想の者たちにより絃の身の危険をも感じた母は、仕方なく実家の西条家に戻るしかなかったのだ。
その当時は、秀徳と絃の母の父親である前当主が健在だったため、ふたりは情けをかけられ屋敷に置いてもらえることになった。
ところが、それをよく思わなかったのが秀徳と佳代子だ。
力ある異能者の絃の母が、次期西条家当主の座を奪いにきたのではないかと思い込み、その存在を脅威に感じていた。
「ちょっとあなた。まさか、このままでいいだなんて思ってないでしょうね!?」
「言われなくてもわかっている。なんのために、長年親父の下で我慢してきたと思ってるんだ」
どうにかしてふたりを追い出せないかと画策する秀徳と佳代子だったが、思いがけず絃の秘密を知ることとなる。
それは絃が庭で転んだ際、膝から黒い血が滲んでいるのを目撃したのだ。
「あなた、今の……!」
「ああ、しかと見たぞ。まさか、この家に疫病神が棲みついていたとはな」
絃が呪血という事実は、この家から追い出すには十分な理由だった。
もちろん、すぐに秀徳と佳代子により前当主の耳にも入った。しかし、前当主はせっかく戻ってきた絃の母を手放すのは惜しく、西条家発展のため、その異能力を見込んで新たに政略結婚の話を持ちかけたのだ。
その縁談において絃は不要で、且つ呪血であることから、西条家から追い出されるのは絃のみと告げられる。
「父上、お待ちください! そうおっしゃるのでしたら、私も出ていきます!」
「ならん。この家に戻ってきたのならば、ワシの命令には従ってもらうぞ」
「ですが、絃だけなんてあんまりです……!」
当然、六歳の幼子がひとりで生きていけるわけなどない。
絃の母は、絃と共に再び西条家を出るつもりでいたが、前当主の強力な結界の異能により屋敷に閉じ込められてしまう。
「お母様、会いたいです……。ほんの少しだけでいいので、顔をお見せください」
絶対に開くことのない襖の前で、絃は母を呼び続けた。
――そうして、絃が西条家を出る日。
最後の別れの挨拶に顔を合わす許可を与えられた絃は、はやる気持ちをなんとか抑えながら母の部屋を訪ねる。
「お母様!」
久しぶりに見る母の優しげな顔を思い浮かべながら襖を開けた絃だったが、目に飛び込んできた光景に一瞬にして言葉を失った。
そこには、口元から血を流し息絶えた母の姿があった。
部屋の文机の上には、自分の代わりに絃が嫁に行くまでこの家に置いてほしいと綴られた遺書が置かれていた。
さらには、もしその誓約が破られるようであれば、呪いが発動するとも記してあり、絃の母は命と引き換えに禁術の異能を遺書に封じ込めたのだった。
この一件で前当主は、仕方なく絃を養女として秀徳の娘にし、西条家に留まらせることにした。
前当主の命令は絶対で、遺書に込められた呪いの件もあり、秀徳と佳代子もそれに従うしかなかった。
絃の母は我が身を犠牲にして娘を守ったが、絃は母の死を目の当たりにしたショックから、それ以来、母との思い出のほとんどを失くしてしまった。
前当主没後、秀徳が跡を引き継ぎ、表向きは西条家当主の長女ではあるが、屋敷での絃の扱いはひどいものだった。
絃の母がいたときも肩身は狭かったが、亡くなって以降はさらに風当たりが強くなった。
叔父の秀徳は、前当主が勝手に決めたことだからと絃には無関心。
佳代子は、余計な荷物を押しつけられるかたちとなり絃が目障りで仕方がない。
璃々子は、ひとりっ子で育ってきたはずが、突然見ず知らずの呪血の姉ができ、そもそも絃の存在が受けつけられない。
佳代子と璃々子は、その溜まりに溜まったストレスを絃に対する暴言と暴力で発散させるようになった。
そのうちそれが日常化し、絃がなにかしたわけでなくとも、憂さ晴らしとして怒りをぶつけるのを日々の快感にしていた。
食べ終わった皿を下げる絃の様子を、佳代子は眉をひそめながら見ている。
「いつ見てもみすぼらしい格好だけれど、ドブ女なりにもう少しどうにかならないものかしら。仮にも西条家の長女なのだから」
「でもママ。そんなこと言ったって、ドブ女になに着せても同じじゃない? むしろ、着物がかわいそうよ」
ふたりは絃を『ドブネズミのように家に上がり込んできた女』だとして〝ドブ女〟と呼んで蔑む。
「ちょっと、お茶はまだ?」
「はい、ただいま」
急かされた絃はお茶が淹れた湯呑みを持ってやってくるが、佳代子の手前で絨毯につまずいてしまった。
「いやっ、熱い!」
湯呑みからこぼれたお茶が佳代子の膝の上にかかり、絃は慌てて頭を下げる。
「た、大変申し訳ございません……!」
必死になって謝る絃だが、佳代子は殺気だった顔を向ける。
「わざとね?」
「……違います! わたしは――」
「黙りなさい!」
佳代子はそばに置いていた扇子にすばやく手を伸ばすと、それで絃の頬を思いきり打った。
扇子の角が当たって切れたのか、絃の口の端からは真っ黒な血が流れる。
「うわっ……、臭い! 気持ち悪い!」
「ほんと、いつ見ても同じ人間とは思えないわ」
璃々子は鼻をつまんで顔をしかめ、佳代子は目を細めて絃を見下ろす。
呪血は、色こそ違うものの成分は通常の血液となんら変わりはないことが証明されている。
もちろん異臭がするわけでもないが、それを理解しようとしない者たちは未だに多い。
佳代子や璃々子はとくに『呪血は臭い』『ドブの汚水のようだ』という考えが強く、ドブネズミの由来にも結びつけ、それが絃を〝ドブ女〟と呼ぶ所以だ。
この家において、呪血の絃はたとえ長女であっても璃々子との扱いは天と地。璃々子の身の回りの世話係と使用人として、日々こき使われていた。
他の使用人も絃を忌み嫌い、声をかける者すらいなかった。
絃は出ていこうと何度も考えたが、この家で暮らせるようにと命を懸けてくれた母を思い出し、ぐっと堪えるのだった。
そんな孤独な絃だが、唯一の話し相手がいる。
その相手は、絃の一日の仕事が終わったあとの部屋に現れる。
「……はぁ。今日はいつも以上に忙しい日だったな」
絃は、肩をもみながら自室のドアを開けた。四畳半しかない、元は物置きだったスペースが、絃に当てられた部屋だ。
ベッドに腰をかけひと息つくと、すぐそばで、ポンッと突然なにかが出現した。
それは、ふわふわの紅い毛並みが特徴的なずんぐりむっくりした小鳥。
「ピピー!」
絃の肩にとまると、労るように顔を擦り寄せてきた。
「いつもありがとう、ピーちゃん」
絃はピーちゃんを手のひらに乗せ、にっこりと微笑む。
〝ピーちゃん〟と名付けられたこの丸々としたフォルムの小鳥は、絃の神使。
神使とは、異能の〝口寄せ〟により具現化した生き物のことを指し、この国にはびこる影鬼という悪しき魔物の討伐に不可欠な存在だ。
異能者が口寄せによって神使の力を借りるためには、血の契約を結ぶ必要がある。
契約は五体が限度で、利き手の指それぞれに神使を封印して、必要なときにその指の腹を噛み切り、流れ出た血で呪式を書くことで神使を呼び出せる。
これが正式な口寄せの方法だが、なぜかピーちゃんは、絃がこの手順を踏まずとも、自分の意思で好きなときに姿を現すことができるのだ。
しかしピーちゃんは、ふたりきりのときでないと出てこない。絃は、母との思い出をほとんどなくしていたが、「ピーちゃんの存在を知られてはいけない」と、強く言われていたことだけは覚えていた。
物心がついたときからピーちゃんは絃のそばにいて、蔑まれてきた絃にとってはピーちゃんが唯一の友達だった。
数日続いた雨が嘘のように、清々しい青空が広がる五月の上旬――。
商いもしている西条家に、取引先の長楽家当主とその息子の和久が来訪した。和久に跡を継がせることになったため、その挨拶にだ。
「ママ! あの端正なお顔立ちの方はどなた?」
部屋の窓から見えた長身で男前の和久に、面食いの璃々子はさっそく目を輝かせる。
「あの方は、長楽家の次期当主の和久さんよ。来年当主になられるそうよ」
「長楽家って、貿易商で有名な!? すごい方じゃない!」
「そうね。跡継ぎの息子さんがいらっしゃるとは聞いていたけど、あんなご立派な方だとは。それに長楽家は優秀な異能家系でもあるのよ」
「それならお近づきになっておこうかしら。もし、他にアタシにふさわしい方がいなければ、将来、あの方が旦那様でも構わないわよ」
「璃々子ったら気が早いわね。でも長楽家なら、西条家とも釣り合うものね」
璃々子と佳代子は、顔を見合わせながらいやらしい微笑みを浮かべた。
和久と接点を持つにはどうしたらいいかと考えた璃々子は、今まさに応接室のドアをノックしようとする使用人に目をつけた。
「アタシがお出しするわ! あんたは下がっていいわよ」
そう言って、お茶の湯呑みがのったお盆を横から取り上げた。
「しかし、璃々子お嬢様のお手を煩わせるわけには――」
「聞こえなかった!? アタシがいいって言ってるの! 口ごたえするんじゃないわよ、クビにするわよ!」
「も……申し訳ございません」
萎縮し、顔を引きつらせて下がっていく使用人の後ろ姿に向かって、璃々子はチッと舌打ちをする。
これまで一切お茶出しなどしたことのなかった璃々子だが、このときばかりは張り切っていた。
「お話し中、失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
応接室に入ってきた美しい璃々子の姿に、長楽家のふたりは思わず頬を緩ませた。
「これはなんとも、噂通りの美しい娘さんですな」
「ふふふ、自慢の娘です」
「もう、パパったら〜!」
璃々子は、紅潮させた頬を手で隠して恥ずかしがる。
「それに、璃々子は異能の才にも恵まれておりまして、四体の神使を扱えるのです」
「ほう、その若さで優秀ですな」
まだ十六歳で、四体もの神使と契約を交わしていることは鼻高々に自慢できる話で、璃々子自身も誇らしく思っていた。
だが、長楽家のふたりを前にした今は謙遜し、驕り高ぶるような態度は隠している。
「璃々子さんがいるだけで、場が華やかになりますな。もしよろしければ、同席していただけますか」
「まあ! よろしいのですか!」
思った通りに事が運び、璃々子は着物の袖で口元を隠しながらニンマリと微笑む。
その頃、絃はというと、廊下に四つん這いになって拭き掃除をしていた。
なかなか落ちない汚れをあの手この手を使ってなんとか落とし、ふと時計に目を向けると、璃々子が応接室に入ってから一時間ほどが経っていた。
『そろそろお茶を交換した方がよいのでは』
そう思った絃は、忙しそうに屋敷の掃除をする使用人に代わり、お茶の用意をすると応接室へと向かった。
話が弾んでいるのか、中からは璃々子の楽しそうな笑い声が聞こえる。
「失礼いたします。新しいお茶をお持ちいたしました」
絃がノックして応接室に入ると、秀徳はあからさまに機嫌を悪くした。『よりにもよって、どうしてお前が来たんだ』と言いたそうな顔をしている。
璃々子も和久との会話を邪魔され、一瞬顔をしかめた。
「こちらの方は?」
使用人用の着物姿ではない絃を見て、長楽家当主は不思議そうに首を傾げる。
「ああ、まあ……長女の絃です。姉の子で、事情があってうちで養女として迎えたのです」
「そうでしたか。それなら、絃さんも今からどうですかな」
長楽家当主に尋ねられ、絃は困ったようにぎこちなく微笑む。
「近くにバラ園があると聞きまして、今から和久と璃々子さんが向かうところだったのです。なので、よかったら絃さんもご一緒に」
思ってもみなかった突然の誘いに、絃は目を見開く。
それと同時に、痛いくらいの視線を璃々子から感じた。『どうしてドブ女が』とでも言いたげな表情で睨みつけている。
「い、いえ……! わたしは……」
すぐに断ろうとしたが、今度は別方向からの視線が突き刺さる。それは、璃々子の隣に座る秀徳だ。
『得意先である長楽家当主からの誘いを断るつもりか』
絃には秀徳がそう言っているように感じた。
断っても断らなくても、絃にはよくない未来しか想像できなかった。
「父もこう言っていることですし、せっかくですから絃さんも」
和久もそう言うものだから、ますます断れなくなった絃は、仕方なくこくんと頷くしかなかった。
和久、璃々子、絃の三人は、屋敷近くのバラ園にやってきた。
ちょうど見頃で、さまざまな品種のバラが競うように咲き誇っていた。
普段は市民が散歩でやってくるような場所であるが、バラの見頃だというのに今日はいつもより人が少ない。それに、軍服姿の軍人もところどころにいて、物々しい雰囲気が漂っていた。
そのわけは、数日前に影鬼がこのバラ園周辺に複数現れる事件が発生したからだ。
影鬼は、暗闇から生まれる魔物で、原因は未だに不明だが稀に大量に出現する事案がある。その討伐の際には、軍の國防隊から優秀な異能家系が協力を要請される。
世間のイメージアップにも繋がるため、秀徳たち西条家も討伐には進んで参加し、今回のバラ園の件も秀徳が大いに活躍した。
それにより影鬼は消滅したとされてはいるが、念のため軍がパトロールをしているのだった。
影鬼は自然発生するだけでなく、影鬼からの攻撃を万が一にでも受けた場合、傷口から病原菌に感染し、その人間が新たな影鬼になることも確認されている。
國民の過半数は、影鬼を倒すすべのない異能を持たない者たちであるため、影鬼の再出現や感染者の鬼化による二次被害が出ないようにこのような徹底した調査が必要なのだ。
「璃々子さん、安心してください。万が一影鬼が出
ても、ぼくが守りますから。なかなかいい神使がいるんですよ」
「まあ! 頼もしいですわ、和久さん」
異能者としても実力があり、容姿も好みな和久に璃々子はうっとりとする。
この場だって、本来ならふたりきりになるはずだったが、長楽家当主の空気の読めない発言により、よりにもよってドブ女の絃までも来ることになった。
どうにかして絃を追い払えないかと、璃々子は屋敷を出たときらずっと考えていた。
「おふたりとも見てください。こちらのバラなら持ち帰ってもいいそうですよ」
和久が見つけたのは、来園者がハサミでバラを切って、自由に持ち帰ることができる特別に整備された花壇だった。
「わー、素敵! この赤いバラがかわいらしいわ!」
普段から花になど一切興味のない璃々子だが、和久の前では花好きの可憐な乙女の猫を被る。
「璃々子さんは赤ですね。美しい指がバラのトゲで傷ついてはいけないので、ぼくが切りますね」
「ありがとうございます、和久様」
和久のちょっとした気遣いに、璃々子は頬を赤く染める。
「絃さんも、よろしければお手伝いしましょうか?」
一応当たり障りなく、和久が絃も気にかける素振りを見せるものだから、璃々子はさらにいらついていた。
「ありがとうございます。ですが、わたしは結構です……」
璃々子に向けられる敵意がわかるからこそ、絃は早くこの場から帰りたいために和久の申し出を断った。
すると、璃々子がパチンと手を叩く。
「それなら、絃お姉様にこのバラを差し上げますわ! きっとお似合いよ」
不敵な笑みを浮かべた璃々子がやってきたと思ったら、絃の手を取り、持っていたバラを無理やり握らせた。
「……っ!」
手のひらにトゲが食い込み、絃は苦痛に顔を歪ませる。
「まあ、大変! わたくしったらうっかりしていたとはいえ、なんてことを!」
璃々子はとぼけながら大げさに声を出すものだから、和久も心配して絃に手を伸ばす。
「絃さん、大丈夫ですか。ちょっと見せてください」
「いえっ、大したことはないので――」
絃は拒んだが、和久が絃の手を強引に開ける。
ところが、そこに滲んだ黒い血を見た和久は、一瞬にして表情が固まった。
「ひっ……!」
和久は小さな悲鳴をあげて、腰を抜かす。
「……なんだこれは!! キモチワルイ!」
しかも、自分の指にわずかに絃の血が付着しているのに気づくなり、血相を変えて何度もスーツのジャケットに手をこすりつけた。
「初めて見たが、なんて汚らわしいんだっ」
和久は慌ててジャケットを脱ぐと、荒々しく地面に叩きつけた。
その騒ぎに、周囲にいた人々も一斉に目を向ける。
「か、和久様、申し訳ございません……! わたしが早く言っておけば――」
「やめろ! ぼくに近づくな! ……この、バケモノが!!」
顔を引きつらせた和久は、
歩み寄ろうとした絃をバラが咲き乱れる花壇の中へと突き飛ばした。
倒れ込んだ際に無数のトゲが容赦なく襲い、絃の頬や着物から覗く白い手足からは黒い血が流れる。
「……見て! あの娘、本当に呪血よ」
「もしかして、西条家の? あそこの長女は呪血だと、前に噂で聞いたけど……」
周囲の人々も汚いものを見るような目で絃を見下し、怪我をしている絃が起き上がれるよう手を貸そうとする者は誰ひとりいなかった。
「和久さん、不快な姉で申し訳ございません……。わたくしが代わりに心よりお詫び申し上げますわ」
「どうして璃々子さんが謝るんだ。彼女は、秀徳さんのお姉さんの子なんだろう? 西条家も呪血の娘を押しつけられて大変だったね」
「……お察しいただけますか? 蔑まれているせいか、その鬱憤を晴らすために度々父と母のいないところではわたくしを……」
涙声でうつむく璃々子を和久はそっと抱き寄せる。
「可哀想に……。憎むべきは自身の血であるはずなのに、璃々子さんに当たるなんて性根が腐っている」
「……違います! わたしは――」
「口を開くな、バケモノ。実に汚らわしい」
和久は冷たい視線を絃に向けた。その和久の胸で嘘泣きをしていた璃々子は、密かにニンマリと笑っていた。
――そのとき。
「なんの騒ぎだ」
遠くの方から人が向かってきた。
「……誰か来る。璃々子さん、面倒にならないように屋敷へ戻ろう」
璃々子はしおらしく頷くと、ふたりは絃をその場に残して去っていった。
絃は花壇の中でもがいていたが、着物がバラの枝に引っかかってなかなか抜け出せない。その間もトゲが肌に食い込むが、周囲は見て見ぬふりだ。
「……大丈夫か!」
身動きが取れない絃のもとへ駆け寄ってきたのは、長身の軍服の男だった。
黒髪の短髪に鼻筋の通った顔には、まるで碧色の宝石が埋め込まれたかのような瞳が光っている。
男は、茨の中でもがき苦しむ絃に迷うことなく手を差し伸べた。
「軍人さん、やめた方がいいですよ!」
「そうですよ。だって、その子は呪血ですから」
傍観していた人々が軍服の男に声をかけたが、彼らの冷ややかな視線を一掃するように男は睨みつけた。
「いつまでそんな古い考えを持っているつもりだ。呪血だろうとなんだろうと、色が違うだけで流れる血は同じだ」
男は絃を支え起こすと、そっと自分の胸へと抱き寄せた。
「一体どうしたというんだ。誰かにやられたのか」
「……い、いえ。自分で転んだだけです」
絃はぽつりと言葉を漏らしたが、我に返って瞬時に男から離れた。
「大事な軍服がわたしの血で汚れてしまいま……きゃっ!」
「危ない!」
足がもつれた絃は後ろのめり体が傾き、それに気づいた男が慌てて絃に手を伸ばした。
鈍い音と背中に衝撃が走った絃は、恐る恐る目を開けると芝生の上に仰向けになって倒れていた。
しかし、目の前にはこちらを見下ろす男の顔が間近にあり、絃はとっさに頬を赤くした。
吸い込まれそうな碧色の瞳に息を呑む。
「あ、あの……!」
「無事か? 頭は打っていないか」
そう言われて絃はようやく気づいたが、男は絃が頭を打たないようにと後頭部に手を添えていた。
だが、それだけではない。
起き上がろうとした際に左手に違和感を感じた絃が目を向けると、なんと男の右手と重なっていたのだった。
「申し訳ございません……!すぐに――」
振りほどこうとした絃だったが、男はまるでなにかを確かめるように手をぎゅっと握った。
手のひらには黒い血が滲んでいるのに、どうして。
絃は、驚きと困惑で声が出ない。
するとそんな絃に、男が言葉を落とす。
「驚いた。まさか、こんなところで出会えるとは」
そう言って、それまであまり表情に変化のなかった男が静かに口角を上げた。
目元を緩ませ、温もりを帯びた微笑みに絃は思わず見惚れてしまった。
絃は男に手を引かれて立ち上がったが、なぜか心臓がうるさいくらいに暴れていた。
「顔を見せてくれないか?」
恥ずかしくてその場でうつむいていた絃に、男が声をかける。
絃がゆっくりと顔を上げると、頬の傷にハンカチを優しく押し当てられた。
真っ白なハンカチに黒いシミが浮かび、絃はぎょっとして目を見開く。
「いけません! このようなもので、わたしの血を拭うなんて……!」
「なにを言っている。さっきも伝えた通り、流れる血は同じだ」
「ですが――」
きめ細かいシルクのハンカチが自分の黒い血で染まっていくことに、絃は申し訳なさを感じた。
「それよりも、名前を聞いてもいいだろうか」
「……は、はい。わたしは、西条絃と申します」
「そうか、あの西条家か」
影鬼討伐にも参加している西条の名前は、軍人の間でも有名なようだ。
そのとき、後ろからもうひとりの軍人が駆け寄ってきた。
「隊長、新たに影鬼一体を発見しました!」
「そうか。わかった、すぐに行く」
男は再び表情を硬くして返事をすると、軍帽を深く被り直した。
「俺は行かねばならないが、ひとりで大丈夫か」
「はい、助けていただきありがとうございました」
絃が深々とお辞儀をして顔を上げると、男は絃の肩に手を置いた。
「また会おう、絃」
男はにっこりと微笑み、足早に立ち去った。
絃は白いハンカチを握り締めたまま、小さくなっていく男の背中を見つめていた。
この出会いが、それまでの運命を大きく変えることになるとは、今の絃はまだ知らない――。
西条家の屋敷に、今日もドスの効いた怒鳴り声が響く。
「ったく、何度言ったらわかるのかしら」
「も……申し訳ございません」
怯えながら深く頭を下げる少女を、まるで親の仇のごとく睨みつけている女性は佳代子。
この家の当主、秀徳の妻だ。
佳代子の後ろでほくそ笑んでいるのは、娘の璃々子。
流行りのウェーブのかかったロングヘアに、一点物の豪華な着物に身を包み、高価な装飾品で着飾っている。
「ママ。ドブ女なんかほっといて、早く朝食にしましょうよ」
ふたりから〝ドブ女〟と呼ばれている少女の名は絃。
手入れされていないボサボサの長い髪に、着物の袖口や裾からは痩せこけた手足が見え隠れしている。
華やかな見た目の璃々子とは正反対のみすぼらしい姿をしているが、絃は璃々子のふたつ上の姉だ。
とはいっても、実の姉妹ではない。
絃は、璃々子の父・秀徳の姉の娘で、実際は従姉妹に当たる。
ここ西条家は、優秀な異能の血を色濃く受け継ぐ名高き家系。
そこへ今から約十二年前、六歳の絃は、実の母と共にやってきた。
絃の母は若いとき、政略結婚から逃れるため将来を誓い合っていた男と駆け落ちし、ふたりで田舎の小さな村で慎ましくも幸せに暮らしていた。
そして、後に絃を授かる。
ところが幸せは長くは続かず、男は流行り病にかかり早逝し、さらに絃には生まれながらにしてある秘密を抱えていることも判明する。
それは、墨を垂らしこんだような黒い血〝呪血〟の持ち主だったのだ。
その邪悪な色の見た目から〝呪いの血〟の名がつけられた〝呪血〟の人間は、古来より災いをもたらすといわれ、差別の対象とされてきた。
実は絃の父も呪血で、ひどい扱いを受けてきた過去があった。
呪血は本来突然変異によるもので、遺伝しないとされている。だが、絃はたまたま父と同じ血を持って生まれてきたのだった。
その秘密が住んでいた村の者たちに知られ、ふたりは村を追い出されてしまう。
その後も行く先々の村で拒絶され、さらには過激な思想の者たちにより絃の身の危険をも感じた母は、仕方なく実家の西条家に戻るしかなかったのだ。
その当時は、秀徳と絃の母の父親である前当主が健在だったため、ふたりは情けをかけられ屋敷に置いてもらえることになった。
ところが、それをよく思わなかったのが秀徳と佳代子だ。
力ある異能者の絃の母が、次期西条家当主の座を奪いにきたのではないかと思い込み、その存在を脅威に感じていた。
「ちょっとあなた。まさか、このままでいいだなんて思ってないでしょうね!?」
「言われなくてもわかっている。なんのために、長年親父の下で我慢してきたと思ってるんだ」
どうにかしてふたりを追い出せないかと画策する秀徳と佳代子だったが、思いがけず絃の秘密を知ることとなる。
それは絃が庭で転んだ際、膝から黒い血が滲んでいるのを目撃したのだ。
「あなた、今の……!」
「ああ、しかと見たぞ。まさか、この家に疫病神が棲みついていたとはな」
絃が呪血という事実は、この家から追い出すには十分な理由だった。
もちろん、すぐに秀徳と佳代子により前当主の耳にも入った。しかし、前当主はせっかく戻ってきた絃の母を手放すのは惜しく、西条家発展のため、その異能力を見込んで新たに政略結婚の話を持ちかけたのだ。
その縁談において絃は不要で、且つ呪血であることから、西条家から追い出されるのは絃のみと告げられる。
「父上、お待ちください! そうおっしゃるのでしたら、私も出ていきます!」
「ならん。この家に戻ってきたのならば、ワシの命令には従ってもらうぞ」
「ですが、絃だけなんてあんまりです……!」
当然、六歳の幼子がひとりで生きていけるわけなどない。
絃の母は、絃と共に再び西条家を出るつもりでいたが、前当主の強力な結界の異能により屋敷に閉じ込められてしまう。
「お母様、会いたいです……。ほんの少しだけでいいので、顔をお見せください」
絶対に開くことのない襖の前で、絃は母を呼び続けた。
――そうして、絃が西条家を出る日。
最後の別れの挨拶に顔を合わす許可を与えられた絃は、はやる気持ちをなんとか抑えながら母の部屋を訪ねる。
「お母様!」
久しぶりに見る母の優しげな顔を思い浮かべながら襖を開けた絃だったが、目に飛び込んできた光景に一瞬にして言葉を失った。
そこには、口元から血を流し息絶えた母の姿があった。
部屋の文机の上には、自分の代わりに絃が嫁に行くまでこの家に置いてほしいと綴られた遺書が置かれていた。
さらには、もしその誓約が破られるようであれば、呪いが発動するとも記してあり、絃の母は命と引き換えに禁術の異能を遺書に封じ込めたのだった。
この一件で前当主は、仕方なく絃を養女として秀徳の娘にし、西条家に留まらせることにした。
前当主の命令は絶対で、遺書に込められた呪いの件もあり、秀徳と佳代子もそれに従うしかなかった。
絃の母は我が身を犠牲にして娘を守ったが、絃は母の死を目の当たりにしたショックから、それ以来、母との思い出のほとんどを失くしてしまった。
前当主没後、秀徳が跡を引き継ぎ、表向きは西条家当主の長女ではあるが、屋敷での絃の扱いはひどいものだった。
絃の母がいたときも肩身は狭かったが、亡くなって以降はさらに風当たりが強くなった。
叔父の秀徳は、前当主が勝手に決めたことだからと絃には無関心。
佳代子は、余計な荷物を押しつけられるかたちとなり絃が目障りで仕方がない。
璃々子は、ひとりっ子で育ってきたはずが、突然見ず知らずの呪血の姉ができ、そもそも絃の存在が受けつけられない。
佳代子と璃々子は、その溜まりに溜まったストレスを絃に対する暴言と暴力で発散させるようになった。
そのうちそれが日常化し、絃がなにかしたわけでなくとも、憂さ晴らしとして怒りをぶつけるのを日々の快感にしていた。
食べ終わった皿を下げる絃の様子を、佳代子は眉をひそめながら見ている。
「いつ見てもみすぼらしい格好だけれど、ドブ女なりにもう少しどうにかならないものかしら。仮にも西条家の長女なのだから」
「でもママ。そんなこと言ったって、ドブ女になに着せても同じじゃない? むしろ、着物がかわいそうよ」
ふたりは絃を『ドブネズミのように家に上がり込んできた女』だとして〝ドブ女〟と呼んで蔑む。
「ちょっと、お茶はまだ?」
「はい、ただいま」
急かされた絃はお茶が淹れた湯呑みを持ってやってくるが、佳代子の手前で絨毯につまずいてしまった。
「いやっ、熱い!」
湯呑みからこぼれたお茶が佳代子の膝の上にかかり、絃は慌てて頭を下げる。
「た、大変申し訳ございません……!」
必死になって謝る絃だが、佳代子は殺気だった顔を向ける。
「わざとね?」
「……違います! わたしは――」
「黙りなさい!」
佳代子はそばに置いていた扇子にすばやく手を伸ばすと、それで絃の頬を思いきり打った。
扇子の角が当たって切れたのか、絃の口の端からは真っ黒な血が流れる。
「うわっ……、臭い! 気持ち悪い!」
「ほんと、いつ見ても同じ人間とは思えないわ」
璃々子は鼻をつまんで顔をしかめ、佳代子は目を細めて絃を見下ろす。
呪血は、色こそ違うものの成分は通常の血液となんら変わりはないことが証明されている。
もちろん異臭がするわけでもないが、それを理解しようとしない者たちは未だに多い。
佳代子や璃々子はとくに『呪血は臭い』『ドブの汚水のようだ』という考えが強く、ドブネズミの由来にも結びつけ、それが絃を〝ドブ女〟と呼ぶ所以だ。
この家において、呪血の絃はたとえ長女であっても璃々子との扱いは天と地。璃々子の身の回りの世話係と使用人として、日々こき使われていた。
他の使用人も絃を忌み嫌い、声をかける者すらいなかった。
絃は出ていこうと何度も考えたが、この家で暮らせるようにと命を懸けてくれた母を思い出し、ぐっと堪えるのだった。
そんな孤独な絃だが、唯一の話し相手がいる。
その相手は、絃の一日の仕事が終わったあとの部屋に現れる。
「……はぁ。今日はいつも以上に忙しい日だったな」
絃は、肩をもみながら自室のドアを開けた。四畳半しかない、元は物置きだったスペースが、絃に当てられた部屋だ。
ベッドに腰をかけひと息つくと、すぐそばで、ポンッと突然なにかが出現した。
それは、ふわふわの紅い毛並みが特徴的なずんぐりむっくりした小鳥。
「ピピー!」
絃の肩にとまると、労るように顔を擦り寄せてきた。
「いつもありがとう、ピーちゃん」
絃はピーちゃんを手のひらに乗せ、にっこりと微笑む。
〝ピーちゃん〟と名付けられたこの丸々としたフォルムの小鳥は、絃の神使。
神使とは、異能の〝口寄せ〟により具現化した生き物のことを指し、この国にはびこる影鬼という悪しき魔物の討伐に不可欠な存在だ。
異能者が口寄せによって神使の力を借りるためには、血の契約を結ぶ必要がある。
契約は五体が限度で、利き手の指それぞれに神使を封印して、必要なときにその指の腹を噛み切り、流れ出た血で呪式を書くことで神使を呼び出せる。
これが正式な口寄せの方法だが、なぜかピーちゃんは、絃がこの手順を踏まずとも、自分の意思で好きなときに姿を現すことができるのだ。
しかしピーちゃんは、ふたりきりのときでないと出てこない。絃は、母との思い出をほとんどなくしていたが、「ピーちゃんの存在を知られてはいけない」と、強く言われていたことだけは覚えていた。
物心がついたときからピーちゃんは絃のそばにいて、蔑まれてきた絃にとってはピーちゃんが唯一の友達だった。
数日続いた雨が嘘のように、清々しい青空が広がる五月の上旬――。
商いもしている西条家に、取引先の長楽家当主とその息子の和久が来訪した。和久に跡を継がせることになったため、その挨拶にだ。
「ママ! あの端正なお顔立ちの方はどなた?」
部屋の窓から見えた長身で男前の和久に、面食いの璃々子はさっそく目を輝かせる。
「あの方は、長楽家の次期当主の和久さんよ。来年当主になられるそうよ」
「長楽家って、貿易商で有名な!? すごい方じゃない!」
「そうね。跡継ぎの息子さんがいらっしゃるとは聞いていたけど、あんなご立派な方だとは。それに長楽家は優秀な異能家系でもあるのよ」
「それならお近づきになっておこうかしら。もし、他にアタシにふさわしい方がいなければ、将来、あの方が旦那様でも構わないわよ」
「璃々子ったら気が早いわね。でも長楽家なら、西条家とも釣り合うものね」
璃々子と佳代子は、顔を見合わせながらいやらしい微笑みを浮かべた。
和久と接点を持つにはどうしたらいいかと考えた璃々子は、今まさに応接室のドアをノックしようとする使用人に目をつけた。
「アタシがお出しするわ! あんたは下がっていいわよ」
そう言って、お茶の湯呑みがのったお盆を横から取り上げた。
「しかし、璃々子お嬢様のお手を煩わせるわけには――」
「聞こえなかった!? アタシがいいって言ってるの! 口ごたえするんじゃないわよ、クビにするわよ!」
「も……申し訳ございません」
萎縮し、顔を引きつらせて下がっていく使用人の後ろ姿に向かって、璃々子はチッと舌打ちをする。
これまで一切お茶出しなどしたことのなかった璃々子だが、このときばかりは張り切っていた。
「お話し中、失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
応接室に入ってきた美しい璃々子の姿に、長楽家のふたりは思わず頬を緩ませた。
「これはなんとも、噂通りの美しい娘さんですな」
「ふふふ、自慢の娘です」
「もう、パパったら〜!」
璃々子は、紅潮させた頬を手で隠して恥ずかしがる。
「それに、璃々子は異能の才にも恵まれておりまして、四体の神使を扱えるのです」
「ほう、その若さで優秀ですな」
まだ十六歳で、四体もの神使と契約を交わしていることは鼻高々に自慢できる話で、璃々子自身も誇らしく思っていた。
だが、長楽家のふたりを前にした今は謙遜し、驕り高ぶるような態度は隠している。
「璃々子さんがいるだけで、場が華やかになりますな。もしよろしければ、同席していただけますか」
「まあ! よろしいのですか!」
思った通りに事が運び、璃々子は着物の袖で口元を隠しながらニンマリと微笑む。
その頃、絃はというと、廊下に四つん這いになって拭き掃除をしていた。
なかなか落ちない汚れをあの手この手を使ってなんとか落とし、ふと時計に目を向けると、璃々子が応接室に入ってから一時間ほどが経っていた。
『そろそろお茶を交換した方がよいのでは』
そう思った絃は、忙しそうに屋敷の掃除をする使用人に代わり、お茶の用意をすると応接室へと向かった。
話が弾んでいるのか、中からは璃々子の楽しそうな笑い声が聞こえる。
「失礼いたします。新しいお茶をお持ちいたしました」
絃がノックして応接室に入ると、秀徳はあからさまに機嫌を悪くした。『よりにもよって、どうしてお前が来たんだ』と言いたそうな顔をしている。
璃々子も和久との会話を邪魔され、一瞬顔をしかめた。
「こちらの方は?」
使用人用の着物姿ではない絃を見て、長楽家当主は不思議そうに首を傾げる。
「ああ、まあ……長女の絃です。姉の子で、事情があってうちで養女として迎えたのです」
「そうでしたか。それなら、絃さんも今からどうですかな」
長楽家当主に尋ねられ、絃は困ったようにぎこちなく微笑む。
「近くにバラ園があると聞きまして、今から和久と璃々子さんが向かうところだったのです。なので、よかったら絃さんもご一緒に」
思ってもみなかった突然の誘いに、絃は目を見開く。
それと同時に、痛いくらいの視線を璃々子から感じた。『どうしてドブ女が』とでも言いたげな表情で睨みつけている。
「い、いえ……! わたしは……」
すぐに断ろうとしたが、今度は別方向からの視線が突き刺さる。それは、璃々子の隣に座る秀徳だ。
『得意先である長楽家当主からの誘いを断るつもりか』
絃には秀徳がそう言っているように感じた。
断っても断らなくても、絃にはよくない未来しか想像できなかった。
「父もこう言っていることですし、せっかくですから絃さんも」
和久もそう言うものだから、ますます断れなくなった絃は、仕方なくこくんと頷くしかなかった。
和久、璃々子、絃の三人は、屋敷近くのバラ園にやってきた。
ちょうど見頃で、さまざまな品種のバラが競うように咲き誇っていた。
普段は市民が散歩でやってくるような場所であるが、バラの見頃だというのに今日はいつもより人が少ない。それに、軍服姿の軍人もところどころにいて、物々しい雰囲気が漂っていた。
そのわけは、数日前に影鬼がこのバラ園周辺に複数現れる事件が発生したからだ。
影鬼は、暗闇から生まれる魔物で、原因は未だに不明だが稀に大量に出現する事案がある。その討伐の際には、軍の國防隊から優秀な異能家系が協力を要請される。
世間のイメージアップにも繋がるため、秀徳たち西条家も討伐には進んで参加し、今回のバラ園の件も秀徳が大いに活躍した。
それにより影鬼は消滅したとされてはいるが、念のため軍がパトロールをしているのだった。
影鬼は自然発生するだけでなく、影鬼からの攻撃を万が一にでも受けた場合、傷口から病原菌に感染し、その人間が新たな影鬼になることも確認されている。
國民の過半数は、影鬼を倒すすべのない異能を持たない者たちであるため、影鬼の再出現や感染者の鬼化による二次被害が出ないようにこのような徹底した調査が必要なのだ。
「璃々子さん、安心してください。万が一影鬼が出
ても、ぼくが守りますから。なかなかいい神使がいるんですよ」
「まあ! 頼もしいですわ、和久さん」
異能者としても実力があり、容姿も好みな和久に璃々子はうっとりとする。
この場だって、本来ならふたりきりになるはずだったが、長楽家当主の空気の読めない発言により、よりにもよってドブ女の絃までも来ることになった。
どうにかして絃を追い払えないかと、璃々子は屋敷を出たときらずっと考えていた。
「おふたりとも見てください。こちらのバラなら持ち帰ってもいいそうですよ」
和久が見つけたのは、来園者がハサミでバラを切って、自由に持ち帰ることができる特別に整備された花壇だった。
「わー、素敵! この赤いバラがかわいらしいわ!」
普段から花になど一切興味のない璃々子だが、和久の前では花好きの可憐な乙女の猫を被る。
「璃々子さんは赤ですね。美しい指がバラのトゲで傷ついてはいけないので、ぼくが切りますね」
「ありがとうございます、和久様」
和久のちょっとした気遣いに、璃々子は頬を赤く染める。
「絃さんも、よろしければお手伝いしましょうか?」
一応当たり障りなく、和久が絃も気にかける素振りを見せるものだから、璃々子はさらにいらついていた。
「ありがとうございます。ですが、わたしは結構です……」
璃々子に向けられる敵意がわかるからこそ、絃は早くこの場から帰りたいために和久の申し出を断った。
すると、璃々子がパチンと手を叩く。
「それなら、絃お姉様にこのバラを差し上げますわ! きっとお似合いよ」
不敵な笑みを浮かべた璃々子がやってきたと思ったら、絃の手を取り、持っていたバラを無理やり握らせた。
「……っ!」
手のひらにトゲが食い込み、絃は苦痛に顔を歪ませる。
「まあ、大変! わたくしったらうっかりしていたとはいえ、なんてことを!」
璃々子はとぼけながら大げさに声を出すものだから、和久も心配して絃に手を伸ばす。
「絃さん、大丈夫ですか。ちょっと見せてください」
「いえっ、大したことはないので――」
絃は拒んだが、和久が絃の手を強引に開ける。
ところが、そこに滲んだ黒い血を見た和久は、一瞬にして表情が固まった。
「ひっ……!」
和久は小さな悲鳴をあげて、腰を抜かす。
「……なんだこれは!! キモチワルイ!」
しかも、自分の指にわずかに絃の血が付着しているのに気づくなり、血相を変えて何度もスーツのジャケットに手をこすりつけた。
「初めて見たが、なんて汚らわしいんだっ」
和久は慌ててジャケットを脱ぐと、荒々しく地面に叩きつけた。
その騒ぎに、周囲にいた人々も一斉に目を向ける。
「か、和久様、申し訳ございません……! わたしが早く言っておけば――」
「やめろ! ぼくに近づくな! ……この、バケモノが!!」
顔を引きつらせた和久は、
歩み寄ろうとした絃をバラが咲き乱れる花壇の中へと突き飛ばした。
倒れ込んだ際に無数のトゲが容赦なく襲い、絃の頬や着物から覗く白い手足からは黒い血が流れる。
「……見て! あの娘、本当に呪血よ」
「もしかして、西条家の? あそこの長女は呪血だと、前に噂で聞いたけど……」
周囲の人々も汚いものを見るような目で絃を見下し、怪我をしている絃が起き上がれるよう手を貸そうとする者は誰ひとりいなかった。
「和久さん、不快な姉で申し訳ございません……。わたくしが代わりに心よりお詫び申し上げますわ」
「どうして璃々子さんが謝るんだ。彼女は、秀徳さんのお姉さんの子なんだろう? 西条家も呪血の娘を押しつけられて大変だったね」
「……お察しいただけますか? 蔑まれているせいか、その鬱憤を晴らすために度々父と母のいないところではわたくしを……」
涙声でうつむく璃々子を和久はそっと抱き寄せる。
「可哀想に……。憎むべきは自身の血であるはずなのに、璃々子さんに当たるなんて性根が腐っている」
「……違います! わたしは――」
「口を開くな、バケモノ。実に汚らわしい」
和久は冷たい視線を絃に向けた。その和久の胸で嘘泣きをしていた璃々子は、密かにニンマリと笑っていた。
――そのとき。
「なんの騒ぎだ」
遠くの方から人が向かってきた。
「……誰か来る。璃々子さん、面倒にならないように屋敷へ戻ろう」
璃々子はしおらしく頷くと、ふたりは絃をその場に残して去っていった。
絃は花壇の中でもがいていたが、着物がバラの枝に引っかかってなかなか抜け出せない。その間もトゲが肌に食い込むが、周囲は見て見ぬふりだ。
「……大丈夫か!」
身動きが取れない絃のもとへ駆け寄ってきたのは、長身の軍服の男だった。
黒髪の短髪に鼻筋の通った顔には、まるで碧色の宝石が埋め込まれたかのような瞳が光っている。
男は、茨の中でもがき苦しむ絃に迷うことなく手を差し伸べた。
「軍人さん、やめた方がいいですよ!」
「そうですよ。だって、その子は呪血ですから」
傍観していた人々が軍服の男に声をかけたが、彼らの冷ややかな視線を一掃するように男は睨みつけた。
「いつまでそんな古い考えを持っているつもりだ。呪血だろうとなんだろうと、色が違うだけで流れる血は同じだ」
男は絃を支え起こすと、そっと自分の胸へと抱き寄せた。
「一体どうしたというんだ。誰かにやられたのか」
「……い、いえ。自分で転んだだけです」
絃はぽつりと言葉を漏らしたが、我に返って瞬時に男から離れた。
「大事な軍服がわたしの血で汚れてしまいま……きゃっ!」
「危ない!」
足がもつれた絃は後ろのめり体が傾き、それに気づいた男が慌てて絃に手を伸ばした。
鈍い音と背中に衝撃が走った絃は、恐る恐る目を開けると芝生の上に仰向けになって倒れていた。
しかし、目の前にはこちらを見下ろす男の顔が間近にあり、絃はとっさに頬を赤くした。
吸い込まれそうな碧色の瞳に息を呑む。
「あ、あの……!」
「無事か? 頭は打っていないか」
そう言われて絃はようやく気づいたが、男は絃が頭を打たないようにと後頭部に手を添えていた。
だが、それだけではない。
起き上がろうとした際に左手に違和感を感じた絃が目を向けると、なんと男の右手と重なっていたのだった。
「申し訳ございません……!すぐに――」
振りほどこうとした絃だったが、男はまるでなにかを確かめるように手をぎゅっと握った。
手のひらには黒い血が滲んでいるのに、どうして。
絃は、驚きと困惑で声が出ない。
するとそんな絃に、男が言葉を落とす。
「驚いた。まさか、こんなところで出会えるとは」
そう言って、それまであまり表情に変化のなかった男が静かに口角を上げた。
目元を緩ませ、温もりを帯びた微笑みに絃は思わず見惚れてしまった。
絃は男に手を引かれて立ち上がったが、なぜか心臓がうるさいくらいに暴れていた。
「顔を見せてくれないか?」
恥ずかしくてその場でうつむいていた絃に、男が声をかける。
絃がゆっくりと顔を上げると、頬の傷にハンカチを優しく押し当てられた。
真っ白なハンカチに黒いシミが浮かび、絃はぎょっとして目を見開く。
「いけません! このようなもので、わたしの血を拭うなんて……!」
「なにを言っている。さっきも伝えた通り、流れる血は同じだ」
「ですが――」
きめ細かいシルクのハンカチが自分の黒い血で染まっていくことに、絃は申し訳なさを感じた。
「それよりも、名前を聞いてもいいだろうか」
「……は、はい。わたしは、西条絃と申します」
「そうか、あの西条家か」
影鬼討伐にも参加している西条の名前は、軍人の間でも有名なようだ。
そのとき、後ろからもうひとりの軍人が駆け寄ってきた。
「隊長、新たに影鬼一体を発見しました!」
「そうか。わかった、すぐに行く」
男は再び表情を硬くして返事をすると、軍帽を深く被り直した。
「俺は行かねばならないが、ひとりで大丈夫か」
「はい、助けていただきありがとうございました」
絃が深々とお辞儀をして顔を上げると、男は絃の肩に手を置いた。
「また会おう、絃」
男はにっこりと微笑み、足早に立ち去った。
絃は白いハンカチを握り締めたまま、小さくなっていく男の背中を見つめていた。
この出会いが、それまでの運命を大きく変えることになるとは、今の絃はまだ知らない――。



