学校。
 正門の前。
 制服を着た学生たち。
 たくさんの生徒が門をくぐり抜けていく。
 紺色のブレザー。真っ白なシャツのうえに、みんなが一様に羽織るアウター。
 掃除機に吸い込まれるホコリのように、濃藍が門の内側へと吸い込まれていく。飲み込まれるように正門を通り抜け、スタスタと校舎に足を踏み入れるネイビー。
 オレは門の手前に立った。
 制服姿の学生たちが通学するようすを、後ろのほうからボンヤリと眺める。楽しげに談笑する一組の女子グループが、オレの横を通り過ぎて門をくぐっていった。
「……」
 気づいたときには、学校に着いていた。
 オレが通う高校。ほぼ毎日のように通っている学校。
 なんだか懐かしい。昨日も来たばっかりなのに、なぜかノスタルジーを覚える。思い出のアルバムを開くような懐かしさを感じる。のすたるじあ。
 見慣れた風景に安心する。
 今朝、朋花の声を聞いたときも思った。「よく知ってるものがある」って、安心するっていうか気持ちが和らぐ。見知らぬ土地で見つけたチェーン店みたいに、フシギと心が落ち着きを取りもどす感じある。「あ、いつもの!」ってなるアレね。
 いつもの景色。
 ふだん通りの風景。
 見慣れた景色に、見慣れた建造物。
 通い慣れた学校の景色が、不安な気持ちを和らげる。ゆらゆらと船のように揺れる心を落ち着けてくれる。
 知ってるものがあるって、すっごい安心するんだなぁ。
 海外に旅行した先で自分とおなじ国の人を見つけたみたいな安心感。海外留学したときのホームステイ先で、日本人と同室になったみたいな安心感だね。
 まぁ、そんな経験ないけどね。
 オレ、ホームステイしたことないんだけど。留学目的でジャポンから出たことないんだけど。ぜんぶ想像で言ってるだけですけどね。想像力は無限大、可能性も無限大。いんふぃにてぃー。
 正直、不安だった。
 途中で麻衣と出くわすまで、心の奥底に不安を抱えてた。
 外に出たら、オレは一人。家には家族がいるけど、外には見知らぬ人ばかり。
 いちど外に出てしまえば、頼れるものは自分の記憶だけ。自分が通う学校へと向かう道筋は、過去の記憶を頼りにするしかない。どうしたって心許ない。
 だって、そうじゃん。
 自分の性別、朝起きたら変わってたんだよ?
 そりゃ、ちょくちょく見知った顔も途中で見かけたけどさ。
 家から学校に向かう道すがら、知ってる人ともすれ違ったけど。オレ別にコミュ障ってわけじゃないから、声かけるのもやぶさかではございませんが。
 不安だよ。
 すっごい不安。ハードル高すぎ案件だよ。
 不安な気持ち抱えながら他人に話しかけるとか、そんなんRPGに出てくる勇者がやることでしょ。ハリウッド映画に出てくる向こう見ずなスーパーヒーローの主人公がやるヤツ。さすがに、オレには無理。
 まぁ、それはいいとして。
 こう今になってみれば、われながら勇気あるよな。
 よく今の状況で「あ、ガッコー行かなきゃ」って思えたな。『休む』って選択肢が浮かばなかったことに驚き。
 学校、好きなのかな。
 自分が思ってる以上に、オレ学校が好きなのかも。意外な一面。新しい発見。
「……」
 オレは心のなかで一人つぶやいた。心の独り言。
 正門の手前でボーッと突っ立ていると、やがて麻衣が「葵?」と声をかけてきた。
「どうかした?」
 怪訝そうな表情を浮かべる麻衣が、ようすを伺うようにコチラを見ている。陽の光を受けて輝く二つのガラス玉が、オレを訝しげにジーッと見つめている。
「あ、い、いや……」
 しどろもどろ。
 麻衣には曖昧に返事しながら、オレは目を逸らして校舎を見た。いつもの見慣れた景色に視線を向けると、フシギと気持ちが落ち着くような気がした。
 愛着ある校舎を見ながら、オレはしみじみと言った。
「その……なんか、安心するなーって」
「あんしん?」と麻衣が返した。「『学校に来るのが』ってこと?」
「う、うん……」
「あは、なにそれぇ。昨日も来たでしょ?」
 からからと明るく笑う麻衣。羽みたいに軽やかな笑い声が辺りに響いた。
「ま、まぁ、そうなんだけど……」
「やっぱ今日の葵、いつもと少し違うね?」と麻衣が言った。「ふだんの調子と違うっていうか、昼夜逆転したミニチュアダックスみたいかも」
「みにちゅあ、だっくす……?」
「起き抜けのシーズーみたいだよね」
「そ、そうかな……?」
 え、どっち?
 ダックスなの、シーズーなの?
「うん、だと思うなぁ」
 満足げな笑みを浮かべながら、麻衣は納得したように頷いた。
 そんなわけあるかいっ。
 自分で言ってて違和感あるだろ。心の中で「な、なにそれ?」って思ってるじゃん。麻衣の独創的な比喩表現、まったく理解できてないじゃん。
 アーティストだなぁ。
 麻衣、芸術肌だなぁ。あいかわらずのセンス。
 いちど見ただけじゃ絶対に理解できない現代アートみたいな比喩のセンスだよね。
 ピカソが切り拓いたキュビズム以降の鑑賞者に事前知識を要求してくる現代美術よろしくな独特の比喩ですよね。全然わかんなくて逆に笑える。
「あは、は……」
 オレの口から乾いた笑いがもれる。お弁当に入ってる付け合わせの人造バランみたいな愛想笑い。え、意味わかんない?
「んふふ〜」
 笑いの余韻にひたるかのように、くすくすと控えめに微笑む麻衣。口元に手を当てて笑う仕草は、どことなく上品さを感じさせる。
 まぁ、お上品ですこと。
 麻衣の家、お金持ちだから。資産家階級に生まれた上級国民だからね。
 いまどき、お琴とか生け花とか習ってるくらいだし。芸事の立ち居振る舞いっていうか、所作が身体に染み付いてるのかもね。『芸道』って身のこなしもキレイじゃなきゃダメみたいだから。
 麻衣の一挙手一投足に気位を感じる。
 イマドキの高校生らしからぬ気品を感じる。じっさいに話してみると、すっごい気さくなんだけどね。『分け隔てない』っていうか、さっぱりしてるっていうかさ。
 鶏ガラスープみたいな。
 さっぱりして親しみやすい麻衣の雰囲気、後味すっきりの鶏ガラスープみたいだよね。鶏ガラおいしい。
 ありがとう、ニワトリさん。
 ニワトリさんのお身体、いつも美味しく頂いてます。とっても感謝です。こないだの晩ごはん、油で揚げたニワト——
「ね、はやく教室いこ?」
 オレの心の独り言をさえぎって、催促するかのように麻衣が言った。に、ニワトリさん……。
「う、うん……」
 先を行く麻衣の後に続くように、オレもまた校内に足を踏み入れた。
 トンネルを抜けるように門をくぐる。正門を通り抜けた直後、花々が顔をのぞかせた。両サイドにある花壇に植えられたライラックが、校舎へと向かって歩くオレたちを出迎えてくれた。
 花壇にはバラやアヤメも咲いていて、奥のほうにはオレの好きなツツジもある。校内に吹き込む風が、ゆらゆらと花弁を揺らす。空に向かってスーッと茎を伸ばす花々がニコニコと咲う。
 花、好き。
 バラも、アヤメも。
 ツツジも、ライラックも。
 もちろん、春に咲くウメもサクラも好き。
 いまでも覚えてる。小さい頃、麻衣と一緒にシロツメクサの花冠を作ったことを。
 お姫さまみたいな花の冠をかぶる麻衣が、すごく『女の子』してて羨ましかったこと。うらやましいほど可愛く思えたこと、いまでもシッカリ脳裏に焼き付いてる。
 それから、ほんの少し嫉妬したことも。『かわいい』を身にまとう麻衣が羨ましくて、ちょっとだけヤキモチ焼いちゃったことも。いまでも、鮮明に覚えてる。ごめんな、麻衣。
 シロツメクサ。
『幸福』と『約束』を宿す白い花。
 ふだん口にしたりはしないけど、ぼんやりと花を眺めるの割と好き。「男っぽくない」って言われるから隠してるけど、わた……オレは小さい頃からずっと花が好きだった。
 花を見ると、気分が上向く。
 きれいな花を眺めてると、フシギと元気が湧いてくる。「今日も一日がんばろう」って思えてくる。
 心の栄養剤。
 周りの景色を彩る色とりどりの花は、オレにとって心の栄養剤みたいなもの。心のスポドリ。心の元気ドリンク。