朝。
 歩道。
 道沿いの街路樹。
 歩き慣れた道。見慣れた通学路。
 自分の学校へと向かう道すがら、オレは記憶の糸を手繰り寄せた。
 ずっと不思議だった。幼い頃から違和感を覚えていた。押入れの奥にアルバムをしまい込むように、誰にも言えない悩みを心の奥底に抱えていた。
 オレの心をジワリと蝕む、もやもやした灰色の感情を。

 どうして女じゃないんだろう。

 なんでオレは女に生まれなかったんだろう。

 疑問。
 ちいさい頃から抱いていた心の葛藤。
 ぬいぐるみ好きで、可愛いものが大好き。よく女子に混じって、おままごとを楽しんだ。お人形遊びも、着せ替え遊びも。みんな大好きだった。
 妹の朋花ともよく一緒に遊んだ。お医者さんごっこが大のお気に入り。
 ごっこ遊びのときオレは医者よりも看護師さんをやりたかったけど、朋花が「あたし看護婦さんがいい!」って言うから譲ってあげてた。
 いつもそうだった。下の子に譲ってあげなきゃいけない年長者のサガ。聞き分けのない子どもを諌めるみたいな声のトーンで、親から「もうお兄ちゃんなんだから」って言われるアレ。兄はツラいよ。男はツラいよ。
 オレを構成するカラーは桜色。その次にクリーム色。
 ブルーやブラックは好みじゃない。オレには男っぽすぎるような気がするから。
 深海のように深い青も、墨汁を浸したような黒も。どちらも好きじゃない。キライじゃないけど、かといって好きでもない。
 真夜中のような濃藍も、烏の羽みたいな漆黒も。どちらも色味が強すぎる気がするから。オレには似合わないような気がするから。
 でも、空色は好き。
 さわやかで、知的な感じで。だけど、やわらかな印象もある色。
 とくに、アクアマリンのように透き通った色が好き。どこまでも澄みわたる夏の空みたいに澄んだ色。
 透明感のある色をジッと眺めていると、やさしい気持ちになれるような気がする。だから、好き。すごく好き。
 昔から、ずっとそうだった。
 幼い頃から、興味の対象が周りと違っていた。オレが関心を示すものは、ほかの男子が興味を持たないもの。
 車も、野球も。
 戦車も、バスケも。
 いろんな乗り物も、いろんなスポーツも。
 プラレールも、ロボットアニメも。男の子向けのオモチャも、男の子向けの遊びも全部。全部そう。
 小さい男の子が興味を示すようなものに、たった一人オレだけが関心を持てなかった。男の子みんなが憧れるものに、オレだけが羨望を持てなかった。『かっこいい』を好きになれなかった。
 新幹線に興奮することもないし、飛行機を見てギャーギャーさわぐこともない。戦隊モノのアニメを見るよりも、少女マンガの世界に浸るほうが好きだった。『かわいい』のほうが好きだった。
 当然、周りからは「気持ち悪い」って言われた。「お前、男のクセに女みたいだな!」って。
 だけど、どうでもよかった。
 オレにとって、周りの声はノイズ。気にしなくていいもの。どうでもいいもの。スルーしたって構わない。
 だって、好きだから。
 オレは『かわいい』が好きだったから。
 どんなふうに周りから評価されるかよりも、オレは自分の好きなものを追求したかった。オレだけの『かわいい』を追い求めたかった。
 けど一方で、違う考えが頭に浮かぶことも。
 どうして、女じゃないんだろう。どうしてオレは、女に生まれなかったんだろう。


『かわいい』のこと、こんなにも好きなのに。


 侮蔑。
 嘲笑。
 嫌悪。
 罵倒。
 どれだけバカにされたことか。
 いままで、何度『気持ち悪い』と罵られただろう。
 これまで、何度『男のクセに』と嗤われただろう。
 オレの心を傷つける鋭利な刃物。混じり気のない純粋な白で塗装された刃。無邪気な言葉のナイフが、幼いオレの心を切りつけた。
 周りから『気持ちわるい』と言われるほど、どんどんオレの心は疲れていった。みんなから『男らしくない』と言われるほど、しだいにオレの心は疲弊していった。心が擦り切れていくのを感じた。
 妹の朋花と幼なじみの麻衣は、いつもオレを味方してくれた。
 でも、二人だけ。オレの味方は、朋花と麻衣だけ。それ以外の子は、みんなオレを遠ざけた。なじり、ののしり、誹謗中傷をくり返した。
 汚れのない純粋さで。
 子どもらしい無邪気な残酷さで。
 オレのことを見下すように嗤った。あざけり、ののしった。
 ほかの大人たちと同じように、父さんも「もっと男らしくしなさい」と言った。父さんがオレに『男らしさ』を期待する一方で、母さんは「葵は女の子っぼいものが好きなんだから」と言ってくれた。厳しい父さんと優しい母さん。
 もちろん、父さんは悪くない。
 自分の息子に『男らしさ』を期待するのは普通だ。親として "普通" で "当たり前" のことだ。そんなの分かってる。
 だけど、心は蝕む。
 たった一度でも放たれた言葉の毒矢は、オレの心にジワリと沁みて広がっていく。一滴の墨汁が半紙に滲んでいくように、遅効性の毒が身体を蝕んでいくように。
「……っ」
 歯を食いしばる。
 通学道を歩きながら、オレは手を固く握った。幼い頃のことを思い出すと、しぜんと身体が強張ってしまう。
 歯ぎしりをした拍子に、ほっぺに鈍い痛みが走る。握りこぶしを作った拍子に爪が食い込んで、手のひらに針で刺すような鋭い痛みが走る。痛たたたた。頬も手も痛たたたた。
 まぁ、それはいいとして。
 ひょっとしたら、オレの名前も問題だったのかも。
 この『葵』という名前もまた、嘲笑を拍車がけたかもしれない。とくに小学生くらいの子どもって、名前をネタに他人を揶揄いたがるから。
 中性的な名前——葵。
 それこそ小学生くらいの頃、クラスの男子に「お前って名前まで女みたいだよなー!」と言われたことがあった。女の子みたいな言動とオレの名前を揶揄いのネタにして、面と向かって『オカマ』とか『ホモ』なんて言われたことも。
 さすがに頭にきたので、そいつをブン殴ってやった。
 いま振り返ってみると、暴力よくないなって思うけど。「なにも殴ることなかったんじゃね?」とも思うけど。
 でも、ダメだった。
 自分の名前をバカにされた当時のオレは、どうしても男子の戯言を受け流せなかった。どうしてもスルーできなかった。
 だって、父さんと母さんが付けてくれた名前じゃん。
 あーでもないこーでもない言いながら親がイロイロ考えて、これから生まれてくるオレに向けてくれた愛情そのものじゃんか。
 そりゃ、バカにされたら「ふざけんな」って思うだろ。「不届者め、天誅をくだす!」って思うだろ。月に代わってお仕置きするに決まってんだろ。天誅?
 オレの好きなものなら、まだいい。
 ピンク色とか、おままごととか。ぬいぐるみとか、着せ替え遊びとか。
 バカにされるのがオレの好きなものなら、まだギリギリ踏みとどまれる……気がする。オレの中ではギリギリ許容範囲というか、まだ仏陀さながらの広い心で許してやれる……ような気がする。多分ね、たぶん。
 まぁ、ムカつくけど。
 いちおう、ムカつきはするけどな。「許せてないじゃん」ってツッコミはナシの方向でお願いします。
 先生が間に入ってケンカは仲裁されたけど、それ以来ソイツと話すことは一切なくなった。米ソ冷戦の時代に突入。
 さきに手を出したのはオレだけど、先生にうながされるまで謝らなかった。さきにちょっかい出してきたアイツが悪い。オレ悪くないもん。
 別に主犯格の男子と「仲直りしたい」とも思わなかったしな。
 無自覚に他人を傷つけるようなヤツと、あらためて話すことなんて無いっての。ぷんすこっ。
 それに、疲れる。
 正直、戦うのは疲れる。だれかと争うのは、エネルギーが要るから。
 オレが自分の『好き』を口にすると、こぞって男子がバカにしてきたりする。その度に敵が増えて争うことになる。
 敵が多くなれば、争いも多くなる。
 結果として、疲れるだけ。なんの生産性もないのに、バカバカしいくらい疲れる。
 いつからか、オレは自分の『好き』を隠すようになった。気づけば『カワイイもの』や『女の子らしいもの』を遠ざけるようになっていた。
 好きなものを「好き」と言えない。
 かわいいものを見ても「かわいい」と言えない。黙って眺めるしかない。
 苦しかった。言いたいことを口にできないフラストレーションは確かにあった。オレの心を虫食む、毒のような苦しみが。
 周りと争うよりかは、いくらかマシだったけど。
 同級生とケンカでもしようものなら、どんどんクラスでの居場所が失くなる。村八分さながらの勢いで仲間はずれにされる。
 オレだけの問題ならいいけど、麻衣にまで被害が及ぶからダメ。関係ない人まで巻き込むわけにはいかないから。悲しそうにする麻衣を見るのもイヤだから。
 しだいにオレは、好きな色を遠ざけるようになった。
 桜色や薄桃色を身にまとう代わりに、ブルー系のアイテムで自分を着飾るようになった。
 たまに黒も差し込む。好きじゃない色を身にまとい、心にウソと偽りをまとわせる。塗り重ねた虚構で着飾っていく。青も黒も『男の子が好きな色』らしいから。
 かわいい色は卒業。
 押入れに仕舞うみたいに、そっと心の奥にしまい込む。
 おままごとも着せ替え遊びもやらない。だって、男らしくないから。
 ピンク系の服もアクセサリーも身につけない。だって、男らしくないから。
 しだいに、ごっこ遊びもやらなくなった。「もう、お医者さんごっこは卒業したんだ」と言ったとき、朋花が寂しそうな顔を浮かべたのを今でも鮮明に覚えている。
 妹の寂しそうな表情。
 悲しそうな、苦しそうな。どこか傷ついたような朋花の顔。
 脳の記憶回路に深く刻み込まれたみたいに、いまでも当時の記憶をありありと思い出せる。妹の悲しげな表情を見て、オレは強い罪悪感に駆られた。ごめんな、朋花。
 なんとなく分かってた。
 オレは多分、男に向いてない。自分が自分の性別に向いてないこと、だれに言われなくても薄々わかってた。
 幼心に「性別に嫌われてる」と思ったことがある。産んでくれた親に申し訳ないとは思いながらも、だけど性別の不一致から目を逸らすこともできず。オレの性がオレを拒んだ。
 それでも、普通にしなきゃ。
 みんなと同じように、普通の男の子にならなきゃ。
 普通に。
 普通の。
 普通で。
 普通が、普通を。
 ふつう、フツー。普通の男に。
 みんなが求める、ふつうの男の子に。


 みんなから求められる、みんなと同じ "ふつう" に。


「……」
 見慣れた通学路を歩く。
 てくてくと道を歩きながら、今朝の両親の反応を思い出した。揺れる心とともに迎えられた、今朝の出来事が脳裏に浮かぶ。
 今朝。
 自宅のリビング。
 横並びでイスに座る父さんと母さん。
 ふたり並んでテーブルに向かい、ぱくぱくと朝食をとる両親の姿。
 初めての対面。朋花に連れられてリビングに降りたオレは、いまの姿になってから初めて親と向かい合った。
 いつも通りの二人の姿を見て、ちょっとだけ泣きそうになった。どうしてかは分からないけど。もしかしたら、安心したのかも。よほど不安だったのかもな。
「はやくゴハン食べちゃいなさい、葵」と食事をうながす母さん。
「葵、今朝はゆっくりだな。寝るの遅かったのか?」と訊ねてくる父さん。
 なんて答えたかは、あんまり覚えてない。
 ただ、フシギそうにわた……オレを見る二人の表情だけが、いまもハッキリと記憶に残っている。
 今朝の出来事、きっと数年後も覚えてると思う。さすがにインパクトありすぎて、記憶回路に焼き付いたと思うから。多分ね、たぶん。
 今朝のゴハンの味は、よく分からなかった。『味が分からない』って本当にあるんだな。マンガとかドラマの世界だけの、誇張された表現だと思ってました。疑ってゴメンなさい。
 てくてく、てくてく。
 いつもの道を歩きながら、今朝の出来事を回想する。
 ってか、なんか違和感。ちょっとだけ、普段よりも足が重い気がする。というか、いつもより歩幅が狭いような気がする。
 ふ、不安のせいかな。
 じつは、学校に行くの怖がってたり?
 夏休み明けのお休み気分が抜けない小学生よろしくな感じで、心の奥では密かに「ガッコー行きたくないぃ〜」ってゴネてたりして——
 あ、そっか。
 背、縮んでるんだ。
 さっき鏡で見たときも思ったけど、男だった頃よりも背が縮んでるんだな。
 いつもより歩幅が狭いような気がするのは、背が縮んだぶんだけ足も短くなってるからか。なぁるほどぉ。納得。
「……?」
 ふと視線を感じた。
 心のなかで一人コントを繰り広げていると、こちらをチラチラと見る男性の視線に気づいた。
 な、なんか見られてる……?
 え、見られてるよね。オレ今すっごい見られてるよね?
 とくに、男性サラリーマンから。中年のおっちゃんに至っては、わりとジロジロ見てる気がする。まったく隠そうともせず、胸を凝視してる気がする。舐めるような視線が気持ちわるい。