「お、おぉ〜……」

 あまり見慣れない景色に驚いた。
 クローゼットの内側に置かれたコゲ茶の収納箱。引き出しの中に入ってるものを確かめてみると、色とりどりの女性用下着がズラリと並んでいた。
 白。
 黒。
 薄紫。
 空色。
 ベージュ。
 ワインレッド。
 そして、オレの好きな桜色——の、ブラとパンツ。
 きちんと整理された下着を眺めていると、心臓がドキドキと脈を打つのが分かった。どきどき、どきどき。
 引き出しの中に整然と並べられた下着の数々は、思春期まっただなかの男子高校生の目にオアシス。違う、目に毒。なにがオアシスか。
 いまのオレは女だぞ。
 自分の下着にドキドキするのはおかしい。
 で、でもさ。こんなに沢山の下着が目の前にあったら……ちょっと目に毒っていうか、さすがに目の保養っていうか——やっぱり、目にオアシス?
 いや、そんな言葉ないし。
『目にオアシス』なんて言葉、この世に存在してませんから。
 たしかに目の保養かもしんないけど、勝手に新語を作るんじゃないっての。文科省のお偉いさんたちの仕事を奪っちゃいけません。わが国の行く末を担う為政者たちが、こぞって給料ドロボウになっちゃうぞ。
 まぁ、それはいいとして。
「……」
 オレは引き出しに収納された下着をジッと見た。
 糸で縫い付けられたかのように目を奪われてしまう。ズラリと並んだ色とりどりの下着に、視線を釘付けにされる男子高校生の図。や、いまは女子高生か?
 こ、これ……オレが着るん、だよな……?
 何はともあれ、まずは着替えようと思った。いつまでも寝巻きのままだと、気持ちもシャキッとしてこない。
 なにより、今の自分に落ち着かない。
 ポロシャツから盛り上がった二つの山が心を惑わす。なだらかにも急にも思える勾配に、オレの純粋な心(笑)が乱される。
 ちょっと待て。
 だれだ勝手に『(笑)』を付けたヤツは。
 オレの純真をあざ笑うなっつの。朝起きて胸が急成長してたら、誰だってビックリするだろが。「そりゃそうだろ」って感じだけど。
 この娘、ナイトブラとかはしないのかな。
 いつだったかは覚えてないけど、前に「胸が大きいと形が崩れやすくなる」って聞いたことある。じっさい女性の立場からすると、大き過ぎるのも考えものらしい。
 就寝時にもサポートが必要。ボールみたいにハリのある丸みをキープするために、寝るときもナイトブラ的なもので胸を支えるんだと。胸は年齢を重ねるごとに垂れてくるものだから、若いうちから対策しといたほうがいいんだってさ。女性って大変だね。
 あ、自分で調べたわけじゃないよ?
 いくら好奇心が強いからって、わざわざ調べたりしないからな?
 ぜんぶ妹の朋花からの入れ知恵。オレが「そんな知識を仕入れて、どこで使えばいいんだ?」って言ったら、あいつは「彼女にアドバイスするとき役立つじゃん?」なんて返してきた。オレに彼女がいないの知ってるくせに。嫌味なヤツめぇ。
 オレは心のなかで独りごとを呟きながら、引き出しにある空色のブラを手に取った。
 恐る恐る下着を手にすると、心なしか犯罪の臭いがした。今は見た目が女だから許されるけど、男のままだったら通報ものだろうな。「あれれ、下着ドロボーかな?」っていうね。
 空色の下着を手に持ったまま、オレは小さな声でつぶやいた。
「……でっか」
 で、デカいな、この下着……。
 平均値が分かんないけど、大きめのサイズな気がする。小ぶりのメロンくらいなら丸ごと入っちゃいそうだもんな。知らないけど。
 下着をくるっと裏っ返して、オレはサイズ表記を確認した。タグには『アンダーバスト七〇』との記載が。
「ん、んん……?」
 タグに記されている文字列を見て、オレは思わず頭をひねってしまう。
 下着のサイズ感、全然わかんない。
 結局どのくらいの大きさなんだろ。サイズ表記が意味をなしてませんけど?
 女性物の下着に記載された数値を、どう解釈していいのかが分からない。じっさいに手で持ってみた実感としては、手のひら大のメロンくらいの大きさだけど。
 いよいよ混迷をきわめてきた。
 マンガとかアニメだったら頭の上にハテナが浮かんでそうな勢い。『ぽかーん』って感じ。サブカル的な表現。
 見慣れたアルファベット。
 サイズが記されたタグをまじまじと眺めていると、やがて『F七〇』と記載されているのを見つけた。
 F。えふ。
 Fカップってことかな。だ、だよね?
 だいぶ大きい。さっき鏡で見たときも思ったけど、この子かなりスタイルいいみたい。なにか運動とかしてるのかな?
 この顔でFカップかぁ。
 モデル並みの顔面偏差値に、ハリと丸みのある大きな胸。
 きっと男子の注目の的だろうなぁ。思春期男子どもの目にオアシ……目に毒なはず。「眼福、眼福」みたいな感じで癒されるどころか、ボツリヌストキシンA並みの猛毒だと思われます。知らないけど。
 ひとまず、着替えるべく鏡の前に移動。
 オレは手に持った下着を身につけようと、上に着ていた寝巻きのポロシャツを脱いだ。脱いだ服は一旦ベッドのうえに置いておく。
 ——と、ここでトラブル発生。
 とってもシンプルな問題が浮上した。だいぶ今さら感あるけど、ブラの着方わかんないや。
 ど、どうしよぉ。こ、コレどうやって着るんだろ。バンザイしてから着るものなのかな。するする〜って腕を通せばいいのかな。どなたか教えてくださぁい。へるぷ・みー。
 思わぬトラップにぶち当たり、どうしたものかと立ち尽くす。いまの絵面も相当ヤバい。上裸なうえにブラ持ったままだし。
 下着を持ったまま鏡の前で突っ立ってるの、はたから見たら完全にヤバいヤツだもんな。『変質者』のレッテルを貼られても仕方なし。ご近所さんに通報されたときの言い訳、今のうちに考えといたほうがいいかも?
 鏡の前で悶々としていると、ふいに部屋のドアを叩く音が。短いノック音が辺りに鳴りひびいた。コンコン。
「おねーちゃーん、もう起きてるー?」
 朋花の声。
 とうに聞き慣れた妹の声だった。
 知ってる人がいることに、オレは少しだけ安心した。ほっと息をつく。ふぅー、よかったぁ。
 ともかく、返事しなきゃ。
「お、おぅ。起きてる、ぞょ〜……」
 あ、やっべ。
 やばぁ、やらかしたぁー。「起きてる "ぞ" 」と「起きてる "よ" 」が混じってもーた。結果、ファンタジー系のRPGに出てきそうな齢七十の老賢者みたい喋り方になっちゃったんだけど。なっちゃったぞょ〜。
 オレの老賢者よろしくな声を聞いてか、朋花は「あはっ、何それぇ」と言った。一枚の扉を隔てた向こう側から、軽やかな笑い声が聞こえてくる。
「入っても大丈夫ー?」
 朋花がドア越しに訊ねてきた。
「う、うん……」とオレは言った。「だ、だいじょ……ば、ない」
「え、どっち?」
 扉の向こうにいる朋花が、困惑めいた声をもらした。
 要領を得ない言葉に戸惑う妹にも構わず、オレは追撃するかのように言葉を続けた。獲物が動揺したところを見計らって、すかさず第二の矢を放つ狩人の気分。
「だいじょび、まそん!」
「や、どっちなの?」
 朋花は相変わらず戸惑っているようだった。
 顔は見えずとも、狼狽えてるはず。兄(姉?)のイミフでチンプンカンプンな世迷言に戸惑う妹の姿が目に浮かぶよう。
 だいじょぶなわけあるかい!
 動揺してるのはオレのほうだっつの。こちとら朝起きたら女になってたんだぞっ?
 今こそ女性特有の共感スキル(※個人差あり)を発揮するチャンス。ある朝とつぜん異世界転生モノよろしくな感じで急に性別が変わってたオレの身になって考えてみてくれ。
 むりな相談だろうけどっ。
 オレは急いでベッドの上にあるポロシャツに手を伸ばした。寝坊したせいで会社に遅刻しそうな会社員のごとく勢いで服を着直す。
「ドア、開けていいの?」
 こちらの戸惑いにも構わず、朋花は涼しい声で訊ねてきた。
 ウチの妹つおい。
 あんまり物事を気にしないタイプみたい。
 共感力の代わりに鈍感力を発揮する妹の図。すっごい頑なにオレの部屋に入ってこようとするじゃん?
 だいじょびません。
 今のオレの状態マジ全然だいじょぶくないから。
 もしも今ドアを開けようものなら、これまで築き上げてきた兄妹(姉妹?)の絆が音を立てて崩れ去ること間違いなし。どっ、どどど、どうしよぉ〜……?
 わざわざ部屋に来てくれた妹を、このまま追い返すのも忍びない。
 たぶんオレを起こしに来たてくれたんだろうし。うちの妹ちゃん、母さんに似て世話焼きなとこあるから。
 こうやって狼狽えている間にも、刻一刻と時計の針は進んでいく。時間は止まることなく無情に過ぎ去っていく。時の流れは残酷なのです。
「おねーちゃーん?」
 今にもドアを開けそうな勢いで、向こうにいる朋花が訊ねてきた。
 あわわわわわゎ。
 やっばぁ。どうしよ、どうしよっ。
 ど、どうするのが正解なんだっ。なんて返事したらいいのですーっ?
 とたん頭はパニック状態。女性用の下着を手に持ったまま、オレはオロオロと慌てふためいた。完全に変質者の動き。
 とつぜんのハプニングに弱い未来のネコ型ロボットよろしく、オレは心の四次元ポケットからポイポイと言葉を取り出した。なんかないか、なんかないかっ。
 この場をやり過ごす言い訳、なんか思いつかないのかぁっ!
 妹の侵略に戸惑う思春期男子の図。頭のなかが真っ白なるほど動揺しきったオレは、つい「だ、大丈夫だよぉ〜」と口走ってしまった。
「あ、そ?」
 ドアの向こうにいる朋花が納得したように返事をした。
 や、やばっ。
 うっそでしょ。さすがにテンパりすぎじゃねっ?
 ぜんぜん大丈夫じゃないのに。全然だいじょばないのに。全然だいじょびまそんに。日本語の乱れ。
 朝起きたら『兄→姉』になってたとか、いくらなんでも摩訶不思議すぎるだろ。ハプニング中のハプニング。
 ある朝『お兄ちゃん→お姉ちゃん』に変わってたとか、おじいちゃん・おばあちゃんが卒倒するレベルの衝撃。衝撃的すぎてカメもひっくり返ると思う。知らないけど。
 きっと朋花だって、びっくりするはず。
 驚きに目を丸くすること間違いなし。「え、どちらさまっ⁉︎」ってなること請け合いのハプニング。
「入るよー?」
 オレの心の一人コントを遮るかのように、朋花は扉を隔てた向こう側から訊ねてきた。
 ガチャリ、と扉が開く音。
 ゆっくりと開くドアに、視線を釘付けにされる。
 とたん、世界がスローモーションに映って見えた。危険を感じたときに生じるタキサイキア現象よろしく、あらゆる物体の運動が本来の動きよりも遅く感じられる。
 ひらくドア。
 ドアレバーにかけられた手。
 開けられた扉の隙間から、スーッと伸びる肌色が覗く。
 静止を求めようにも、うまく声が出せない。ドアを開けようとする朋花に声をかけようとして、驚きのあまり言葉を紡げなくなっていることに気づく。自分のノドから「ぁ……」と掠れた声だけがもれた。
 あ、終わった。
 声、出ない。言葉、なにも出てこない。
 頭はギュンギュン回ってるのに。ゾーンに入ったみたいに高速で脳みそ回転してるのに。
 脳の回転の速さに、心が追いついてない。出だしで遅れを取ったせいで、置いてきぼりにされたかのよう。急速に働き出した神経系の挙動に、差を縮められずにいる心がまごつく。
 ひらいたドアの隙間から、ひょこっと顔を出す朋花。
 草陰から控えめに顔を覗かせるウサギを思わせるような動き。とっても可愛らしい動作だけど、いまは正直それどころじゃない。妹の可愛らしい仕草に魅入ってるほどの余裕はない。
 ひぃ、困った。
 この今の状況、どう説明すれば——
 オレは頭のなかで必死に言い訳を考えた。言葉にならない文字列が、桜が散るように宙を舞う。
 朋花が部屋に入ったところで、世界が元の動きを取り戻した。今までスローモーションで動いていた世界が、遅れを取り戻すかのように急速に動き始めた。
 朋花がオレの近くまで歩いてきた。
 妹が疑わしげな目でオレを見ている。こちらを見上げる視線が痛い。痛たたたたっ。
 下着を手に持つオレを不思議そうに見ながら、朋花が「お姉ちゃん、何してんの?」と言った。
「お母さんたち、もう下で待ってるよ?」
「え? い、いや……」とオレは返した。「そ、その……ちょっと着替えを、みたいな……?」
「ふぅん」
 朋花はフイっと顔を背けた。『そっぽを向く』という表現がピッタリな仕草だった。
 われながら返事がおかしい。
「みたいな」って何だよ。「着替中です」でいいだろ。
 朋花の反応も冷たい。妹がぶつけてくる氷の視線が、オレの心にズブリと刺さった。もう冬は終わったのに。もう季節的には初夏なのに。
 妹の興味なさそうな反応を受けて、オレのガラスのような心が傷ついた。「まだ豆腐のほうが硬いんじゃないの」ってくらいに脆いクリスタル硝子のようなオレのハート。こんな弱々のメンタルで、よく今まで生きてこれたな?
 ってか、ちょっと待て。
 すとっぷ、ストップ。朋花、おまえ——


 さっきから、オレのこと「お姉ちゃん」って呼んでない?


 オレの隣に立つ朋花は、さも涼しい顔をしている。
 あたふたと慌てふためく兄とは対照的に、3つも離れた妹のほうが落ち着いている。悟りの境地へと至った修行僧かと錯覚するくらいに落ち着き払っている。
 うちの妹ちゃん、ほんとに中学生……?
 年齢詐称が疑われる朋花に向かって、オレは「なぁ、朋花……」と言った。
「ん、なぁに?」
「え、えっとぉ〜……」
 ひと呼吸おいてから、オレは言葉を続けた。
「オ……わた、し……お姉ちゃん、なの?」
「はぁ?」
 朋花はぶっきらぼうに聞き返してきた。
 う、うぐっ。
 ものすっごい冷たい対応。「なに言ってんの?」みたいな反応なんだけど。
 妹のトゲトゲしい態度がガラスのハートにグサリ。オレの絹ごし豆腐みたいに脆いメンタルに、つっけんどんな先の尖った槍が突き刺さる。ぐさぐさ、ぶすりっ。
 そんな塩対応されると、わりとメンタルに来る。
 自分の妹にトンと突き放すような対応されちゃうと、槍が刺さったみたいな痛みが心にジワっと広がります。じつはオレ豆腐メンタルなんだよ?
 まぁ、そんな経験ないけど。
 槍なんて一度も刺さったことないんだけどね。ただの比喩ですけれども。オレの粋でイナセでナイスでオシャンティーな比喩表げ——
「お姉ちゃん、寝ぼけてんの?」
 オレの心の独り言に被せるかのように、朋花が疑わしげなトーンで訊ねてきた。
 ひとりごとすら許してもらえない悲しみ。ままならない人生なのです。『一切皆苦』を説いた仏教は正しかったもよう。
「あ、いや……そ、その……」
 しどろもどろ。
 うまく舌が回らず、口ごもってしまう。
 とたん、オレの挙動が怪しくなる。クラスの子に急に話しかけられて対応に困ってしまい目を合わせることすらできずにオロオロと狼狽えるコミュ障よろしくな理系オタク男子みたいな挙動になってしまう。