ほかの女子は二人組になり、それぞれストレッチを始めた。
 オレと麻衣もペアになって、お互いの身体を伸ばし合った。ひょいっと相手を背負って、ぐぐーっと背中を伸ばしたり。お互いの肩に両手を乗せて、下に押し込むようにしたり。
 気だるそうに腕を組む先生を横目に、せっせとストレッチを進めるオレたち。運動前の準備体操。
 先生、ひどいな。
 思ったよりヒドいな。ぜんぜん監督してないじゃないですか。
 いよいよ、教員免許剥奪の予感。本格的に職を失う可能性あり。先生、いまのうちから就活スタートさせといたほうがいいかもね。生徒からの密告に注意ですからねー?
 ストレッチで身体を伸ばしていると、オレの心のPTAが顔を出してきた。風紀委員とPTAの二足草鞋で忙しい。
「あっ」
 思いがけず、オレは授業中の教師にあるまじき過失を目撃した。みすていく。うぃっとねす。
 先生、あくびしてる。
 めっちゃ眠そうな感じで欠伸してる。
 あわてて手で隠して誤魔化してるけど、口を大きく開けてるとこ確認しました。四六時中ずっと人々の行動をチェックしてる監視カメラばりに確認しましたよー?
 平和だなぁ。
 今日も日本は平和。いいことです。
「んんぅ〜っ」
 淡々とストレッチを進めている途中、麻衣が気持ちよさそうな声をあげた。
 麻衣の声に誘われるように、オレはすぐ隣に目を向けた。
 視界に入り込んできたのは、ぎゅっと目をつぶる麻衣の姿。ゆるゆると口元をほころばせながら、気持ちよさそうにする横顔が映り込んだ。
「ふはぁ〜っ」
 やがて身体の緊張を解いた麻衣は、弛緩するかのような吐息をもらした。すぐ隣で聞いているコチラのまで、気が抜けそうになるような声だった。
「か、からだ伸ばすの、きもちいいよ、ね……っ?」
 ストレッチをしながら話しかけたせいか、自分の発した声は途切れ途切れになった。
「ねー、わっかるぅ〜」と麻衣が言った。「朝起きたときとかも、身体ぐーってするの気持ちいいよねぇ」
 こくこく、と何度もうなずくオレ。肯定を示すジェスチャー。
「だ、だよねっ」
「あたし最近ね、お風呂あがりに身体のばすようにしてるんだぁ」
「へ、へぇ〜……」
「あったまってるときに身体ほぐすと、次の日スッキリ起きれる気がするの。案外、ストレッチって大切かもだね?」
 ひかえめに白い歯を覗かせて、にぱーっと朗らかに笑う麻衣。
 満面の笑み。日差しを受けて輝くヒマワリさながらの屈託のない笑顔に、オレは糸で縫いつけられたかのように視線を釘付けにされた。
 あ、かわいい。
 麻衣の笑った顔かわいい。
 今朝と同じ。今日の朝、部屋で鏡を見たときの感覚。姿見に映る自分の容姿を確かめたときと同じ恍惚。
 麻衣の笑った顔を見たとき、今朝の感覚が呼び起こされた。
「……」
 麻衣の顔をジッと見ながら、その場に釘付けになるオレ。
 朗らかな笑みが、恍惚を呼び起こす。夏の日差しに照らされて咲う向日葵のような明るい笑みが、今朝の『かわいい』に当てられたときの恍惚を呼び起こす。
 うっとりする。
 目を奪われる。思わず、言葉をなくす。
 桜を眺めるときと似てる。満開の桜からこぼれる花びらを眺めるときと同じような感覚。
 無音の衝撃。
 音のない衝撃が胸にひびいて、波打つように心に振動が広がる。水がスポンジに染み込むように、そっと沁み込んでいく静かな衝撃。
 あどけないのに、どこか凛々しい。
 子どものようなのに、どこか大人びている。
 まだ年端もいかない生な少女のようでいて、だけど成熟した一人の女性のようにも思える。
 熟れと未熟の交差点。カカオとミルクが溶け合うように、未熟と成熟が交差して混ざり合う。熟れきっていない青さの残る果実に、熟れきった果実のような熟れが宿る。
 水たまりを蹴とばすような無邪気さ。
 雨上がりにお気に入りの長靴を履いて、路傍の水たまりを足で弾くような無邪気さ。
 青咲き、花咲む。青空のように晴れやかで、だけど花のように煌びやか。澄んでいて、どこか華やか。
 麻衣を見てて、思うことがある。
 愛嬌とか、気遣いとか。明るさとか、朗らかさとか。思いやりとか、人懐っこさとか。まあるい感じとか、やわらかい感じとか。
 そういう、人の魅力みたいなもの。
 麻衣が身に纏ってるもの、すごく「いいな」って思う。桜の木を見上げるときみたいに、ただ純粋に「いいなぁ」って思う。こぼれ桜さながらに、すなおな感想が溢れる。
 今日みたいに思うこと、これまでにあったかな。初めてのような気がする。
 なんか、視界が広くなった感じ。とつぜん世界が広くなったような、視界がひらけたような感じがする。
 自分の性別が変わったことで、見える世界も変わったのかな。男だったときには見えなかったものが、今のオレには見えるようになったのかな。
 好き。
 すごく好き。いまの景色も、いまの世界も。
 麻衣の優しい声に心安らぐことも、麻衣の笑った顔に目を奪われることも。
 あまい声も、あまい視線も。まあるい髪も、まあるい瞳も。やわらかい笑顔も、やわらかい空気も。
 なにより、麻衣の『かわいい』を言葉にできることが。ずっと心の奥にしまい込んでた『かわいい』を、ちゃんと自分の色でキャンバスに描けることが。それが、なにより嬉しい。いちばん嬉しい。
 麻衣、かわいい。
 笑った顔、かわいい。


 麻衣って、かわいいんだ。


「かわいい……」
 思いがけない呟きが口から溢れ出た。
 囁きのような声を聞いてか、麻衣がコチラを振り向いた。不思議なものを見るかのように、いぶかしげな目でオレをジッと見た。
「ん、なぁに?」
 ちょこんと首を傾げたあと、麻衣がコチラに訊ねてきた。
「えっ⁉︎」
「え?」
 麻衣はキョトンとしたまま、戸惑いめいた声をもらした。
 とつぜん、オレたち二人のあいだで繰り広げられる「えっ?」の聞き返し合戦。不毛な争い過ぎる。
「どうかした?」
 うかがうような麻衣の言葉に、おろおろ狼狽えながら返すオレ。
「い、いや……そ、その……」
 いや、待て。
 待てマテ、待って。冷静になれ。
 落ち着け、オレ。もしかしたら、聞こえてなかったのかも。
 ただ本当に聞こえてなくて「なぁに?」って聞き返してきた可能性ある。可能性は無限大。
 もう一度、麻衣がコチラに訊ねてきた。
「『かわいい』って、なにが?」

 ダメだったーーーっ。

 さっきの発言、ふっつーに聞かれちゃってたーーーっ。あぁ〜〜〜っ。
 どどっ、どどどど、どーしよぉ〜っ?
 あぁ、頭まっしろ。突然のことに頭の中はパニック状態。な、なんて答えるのが正解かなぁー?
「あ、葵?」
 名前を呼ばれて、意識を取り戻す。彼方にすっと飛んでいた意識が、オレのもとへと舞い戻ってきた。
「はひっ?」
 ハッとして我にかえると、目の前には幼なじみの姿。不思議そうな表情を浮かべる麻衣の姿が視界に映り込んできた。
「えっと、だいじょぶ?」と麻衣が言った。「また今朝みたく、意識どっか行っちゃってたよ?」
 心配そうな顔を浮かべながら麻衣が言う。
「う、うん。ごめん、ね……?」
 オレの言葉を受けて、麻衣が首を横に振る。
「んーん、ぜんぜん。やっぱり体調わるいの?」
「う、うぅん。体調は大丈夫、かな……」
「そ?」と麻衣が返した。
「う、うん……」
 心配するような表情から一転して、麻衣は不満そうに唇をとがらせた。むいっと。
「もぉー。今朝の葵もずっとボーッとしたまんまで、ぜんぜんマトモに返事してくれなかったからなぁ」
 不満げな表情を見せながら麻衣が言う。
 そ、そうだったんだ。
 なんか悪いことしちゃったね。麻衣に寂しい思いさせちゃったかも。
「ご、ごめんね。今朝は少し頭ぼんやりしてたっていうか……」
 まぁ、今もだけど。
 再び、麻衣は首を横に振った。否定を示す仕草。
「うぅん、気にしないで。ほんとに大丈夫?」
「う、うん。もう大丈夫……」とオレは言った。「あ、ありがとね。心配してくれて……」
 オレの言葉を聞いて安心したのか、ふにゃりと顔をほころばせる麻衣。
 やわらかな笑みが目を刺す。まあるくてフンワリとした麻衣の笑顔が、シッカリ研がれた槍のように両目を突き刺した。ぐさぐさ、ぶすり。
「よかったぁ。今日の葵、少しボンヤリさんだから」
「そ、そう、だね〜……」
 安堵したように笑う麻衣とは対照的に、あいかわらず狼狽えながら返事するオレ。
 やがて、核心をつくように麻衣が言った。
「それで、どしたの?」
「えっ⁉︎」とオレは返した。
「や、さっき『かわいい』って。なにか見っけた?」
「い、いや……その、えっと……」
 おもわず、戸惑いの声がもれる。
 おろおろするオレとは対照的に、きょろきょろと辺りを見回す麻衣。なにかを探すかのような動き。索敵中のハムスターのような動き。戸惑いと索敵が交錯する。しません。
 やがて、麻衣がコチラに顔を向け直した。
 さもフシギそうな表情を浮かべながら、オレの顔をジイっと見つめる幼なじみ。返事を期待するかのような麻衣の眼差しに、戸惑いに揺れる心が言葉の糸を紡ぎ始めた。
 ごくり、と生唾をのんだ。
「ま、麻衣の、笑った顔……」
 オレはひと呼吸を置いてから、頭に浮かんだことを口にした。


「すっ、すごく、かわいいなって……」


 心の霧が晴れていく気がした。