とたんにオレは冷静さを取り戻した。
 急速に頭が冷えていく。消火器で鎮火されたみたいに、脳みそが落ち着きを取り戻した。
「ねー、葵っ?」
 こちらに同意を求めるように、麻衣が上目遣いに訊ねてくる。
「ウン、ソウダネ。ワタシタチ、トテモナカヨシ」
 仲良しっぷりをひけらかすように、麻衣は鈴木に「ほらぁー」と言った。「ほらぁー」じゃないですが。
 麻衣の後に続くように、オレはぎこちなく言った。
「ナカヨシ」
「んふふ、なかよし〜」
 甘えるような声で、オレの言葉を繰り返す麻衣。
 にこにこと満足げな笑顔を見せる麻衣とは裏腹に、オレと対面する鈴木は引きつった顔を浮かべている。
「い、いや……なんか葵、ぎこちなくね?」
 いぶかしげな表情で鈴木が言う。
「ソンナコトナイヨ。ウン、ソンナコトナイ」
 言葉を被せるように、早口でまくしたてるオレ。
「そ、そうか……」
 あいかわらず、鈴木は引いたような顔をしている。ナンデダロウ。ワタシニハ、ワカラナイ。
 無。
 無だ。無になるんだ。
 悟りをひらいたブッダさながらに、この場を不動の心で乗り切るんだ。
 あるいは、ロボットでもいい。電池切れかけのロボットでもいいから。使えない電池は外ちゃっていいから。
 心を無に。
 こころを、むに——
「そういえば、昨日なんだけど——」
 こちらの葛藤を意にも介さないようすで、むにむにと胸を押し付けながら話す麻衣。
 ち、違うっ。
 そっちの『むに』じゃないっ。
『無に』のほうだってばっ。『むに』違い起きてるってばっ。
 口にしたとたんに周りを白けさせちゃう親父ギャグみたいになってるからぁっ。オレまだ高校生なのにぃっ。
 脂肪。
 これは脂肪のカタマリ。
 オレの腕に押し付けられたモノは、ちょっと柔らかいだけの脂肪の塊。わずかばかりのタンパク質もといアミノ酸とビタミン・ミネラル、そして大部分が脂肪組織で構成されているだけの丸い物体に過ぎない。
 ボール。
 そう、ボール。これはボールなんだ。
 ちょっと人肌ていどに温かいだけのボール。ちょっと柔らかくてむにむにしてぷにぷにしてむぎゅっともぎゅっとむにゅっともにゅっとしてるだけのスライムよろしくな二つの球体に過ぎないんだから。これはボール、麻衣のボール……。
 い、いや、ダメだ。
 かえって逆にいやらしい。『麻衣のボール』とか言うと、なんかの隠語みたいに聞こえちゃう。
 だ、ダメだダメだ。
 幼稚園来の幼なじみのこと、そんな目で見ちゃダメだって。
 いくら麻衣が温厚で大らかで優しくて気配り上手で裏表がなくて常に謙虚な姿勢を崩さなくて眩しいほどの笑顔がステキで誰とでも分け隔てなく接する陰日向ない社交的なスーパー幸せハッピーガールだからって、さすがに限度ってものがあるぞ。ちょっと褒めすぎ?
 おおお、お落ちつけつ、
 つつけっけけけ、おお、おおオレれレレレのレ、
 い、いや、落ち着けってば。『天才バカボン』に出てくるレレレのおじさんみたくなってるから。いまどきの子に伝わんないヤツになってるから。
 落ち着け、オレの脳みそ。
 ヒートアップしすぎだってばば、ばばばばっばばば——
「ういっすぅー」
 オレが理性と格闘していると、そっけない挨拶が飛んできた。
 壊れかけのロボットさながらに、ぎこちなく首を横に向けるオレ。サビついた金属同士が擦れ合う「ギギギ……」という音が聞こえてきそうなほど、ぎこちない振り向き。
 視線に入り込んできたのは、こんがり肌のまるこめ坊主。
 渡り廊下の向こうから、野球部の田中が歩いてくる。上履きのかかとを踏んでいるせいか、歩くたびにパタパタと軽快な音がひびく。リノリウムの床を打ち鳴らす塩化ビニル製の室内履き。
「おっはよー、田中」
 麻衣の言葉の後に、鈴木も「よっすー」と続いた。しぜんな挨拶を交わす三人。
「オハヨ」
 対照的に、機械的な音を発するオレ。
 オレの声だけ、ぎこちないな。なんか、ひと昔まえのPepperくんみたいだ。まぁ、いっか。
「今日からの体育さぁ」と田中が言った。「男子は外でサッカーだけど、女子は陸上だってよ。マラソンやるって」
「え、ほんと?」
 聞き返す麻衣に、頷いて答える田中。
「おう、さっき先生が言ってた」
 え〜、と不満げな声をもらす麻衣。いいから腕を離して。
「あたし、体育館のほうがよかったのにぃ」と麻衣が言った。「この時期、日差し強いから焼けちゃうんだよねぇ〜」
 自分の腕をさすりながら麻衣が言う。いいかげん腕を離して。
 ってか、器用だな。
 けっこう器用なことしてるな。オレに腕を絡ませつつ自分の腕さするとか、サーカス団員ばりに器用なことするじゃん?
「女は大変だなぁ」と田中が言った。「だいたいの女子は日焼けイヤがるよな。男は気にしねーヤツ多いけどさ」
「田中もこんがりだもんねー」
 麻衣の言葉に、こくりと頷く田中。肯定を示す動き。
「まぁ、野球部で色白はないわな」
 田中の後に続いて、鈴木が軽口をたたく。
「そいつ、ちゃんと野球やってんのか疑わしいな」
「あは、たしかに〜」と返す麻衣。「その人、マジメに野球やってない可能性あるかも。誰かさんみたく、万年ベンチみたいな?」
 からからと明るく笑いながら、田中のほうをチラッと見る麻衣。なにかを言外に含ませた薄ら笑いを浮かべている。
「だれが万年ベンチか。スタメンのヒーローだわ」
 麻衣の軽口に、田中がツッコむ。いや、ボケる。
「自分でヒーローって言うか?」
 少し引いたところから、鈴木がツッコミを入れる。
 きゃっきゃと団らんする三人。オレだけが会話に入り込めず、ちょっとだけ疎外感を覚える。ほんの少しだけ仲間はずれにされたかのように感じてしまう。
 というか、話に入り込めない。
 だって、話し方わかんないし。どう話したらいいのか分かんないんだもん。女子としての『葵』って、普段どんなふうに話してるんだろ?
 ジッと黙り込むオレを不審に思ったのか、鈴木が「葵、どうかしたか?」と訊ねてきた。
「えっ」
 思わず、当惑めいた声がもれる。
「なんか今日、随分おとなしくないか?」
 こちらを見ながら鈴木が言う。オレは若干たじろぎながら返した。
「そ、そうかな……」
「話し方も、普段と違うしさ」
「あー、たしかにな」と田中が続く。
 鈴木の言葉に同調するように、こくこくと何度もうなずく田中。
「なんかあったのか?」
 いぶかしげに訊ねてくる鈴木に、心のなかで動揺しつつ答えるオレ。
「う、うぅん……とくに、なにも……」
 ふるふると首を横に振って否定を示すも、あいかわらず疑わしげな目を向けてくる二人。そんな不思議な生き物を見るかのような目でオレを見ないでくれ。
 オロオロしているうちに、やがて予鈴のチャイムが鳴った。
 渡り廊下に響きわたる規則的な音。廊下で話す学生たちを教室のなかへと誘い込む、ウェストミンスターの鐘の音が辺りに鳴りひびく。
「やべ、もう時間じゃん」と田中が言った。「次、オレら移動教室だからさ。そろそろ行くわ」
 きびすを返す田中の後に続くように、スッと片手をあげて別れを告げる鈴木。
「じゃ、またな」
「ほーい、またね〜」
 半身になった二人に向かって、ぶんぶんと手を横に振る麻衣。
 先を行く田中を追うように、鈴木も後をついて歩き出す。だんだんと離れていく二人の姿。
 去りぎわに、鈴木がオレのことをチラッと見た。お互いの視線が交わる。
 今日、何度も向けられた視線。いろんな人に向けられた、不思議がるような目つき。今朝の家族や通学中の麻衣と同じように、オレのことをフシギそうに見る目だった。
 田中と鈴木。
 男子の大きな後ろ姿。だんだんと遠ざかる二つぶんのシルエット。
「……」
 その場にボーッと突っ立ったまま、二人の背中をボンヤリと眺めるオレ。
 つい昨日まで二人と同じだったのに。
 オレも鈴木と田中と同じくらいの背丈だったのに。
 いまは、少しだけ目線が低い。目算で十センチくらいの差があるかな。
 たしか鈴木の身長が170cm後半だったはずだから、この『葵』の背丈は160cm後半くらいってことに。女子にしては大きいほうかもだけど、男子の身長と比べると低く感じられる。
 というか、ちょっと怖い。
 おっきな背丈、威圧感あって怖い。上から見下ろされるのって怖いんだな。
 どちらかというと、今までは『見下ろす側』だったから。鈴木とか田中ほどじゃないけど、それなりにオレも身長あったから。男だったときは、だけど。
 やがて、麻衣が口をひらいた。
「あたしたちも教室いこっか?」
 いつのまにか、腕が離れている。
 今さらながら、オレは麻衣の腕が離れていることに気づいた。解放感と一抹の寂寞。ほんの一瞬だけ寂しさの風が吹いたような気がした。
「う、うん……」
 オレは麻衣の言葉に短く返した。
 重い足をズルズル引きずるように、オレは自分のクラスへと向かった。
 閑散とした渡り廊下。
 辺り一面に広がる静寂のなかを歩く。二人ぶんの足音。二つぶんの軽やかな音。
 オレと麻衣の足音が、二つ重なり一つになる。ゴーストタウンさながらに静まりかえった狭い空間に、上履きがリノリウムの床を打ち鳴らす音が響きわたる。ふたつの音が、ひとつになる。
 途中、横目でチラッと麻衣のほうを見た。
 オレの隣を歩く麻衣が、ひかえめに微笑んでいる。ひそやかな笑みを浮かべている。夏の日差しを受けて、ひまわりが咲うように。

 ひと気のない渡り廊下に、二人ぶんの足音が響いた。