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 万桜は、灯籠の影に立つ椿をぼうっと見つめていた。
 
「其方の力を貸してはくれないか」
 
彼は万桜に近づくと、手に持った薄い巻紙を差し出し、静かにそう告げた。
 
灯籠の明かりに照らし出されたその巻紙は、神秘的な空気を纏っていた。


「これは……神託ノ書?」


驚いて青年に問う。
 

万桜は巻紙にそっと手を置いた。
 
 
指先に伝わるのは、古い紙のざらつきと、微かに漂う桜の香り。
 

その奥に、確かに――“神”の気配があった。


「あなたは……半神、ですね」

万桜が静かに問うと、青年の青い瞳が夜の明かりを映して揺れる。
 

彼はわずかに頷いた。


「……あぁ、そうだ」


短い答えの中に、途方もない孤独が滲んでいた。
 

風が二人の間を通り抜け、灯籠の光がひとひらの花びらを照らす。
 

――この国では、神と人との交わりは禁忌とされている。

生まれながらに許されぬ存在として、彼はずっと出生を隠して生きてきたのだろう。

万桜の胸の奥で、また鈴が鳴った。
 
誰の耳にも届かない、小さな音。

彼が差し出した巻紙は、ところどころ文字が薄れていて内容が上手く読み取れなくなっていた。

しかし、夢見の異能を使えば神に内容を尋ねることができるだろう。

万桜は背筋をすっと伸ばした。

神託は、いつの時も慎重に扱わねばならない。
 
しかし今夜だけは、胸の鼓動がそれを許してくれそうになかった。
 

夜が更け、風がしっとりと湿り気を帯び始めていた。
 

灯籠の火がゆらりと揺れ、二人の影が重なっては離れる。


「どうして、あなたがこれを……?」


「母の……形見だ」


神託ノ書を見つめながら、彼は力なくそう答えた。

本来、この書は国が厳重に封じているはずのもの。
 
巫女である万桜でさえ、許しなく触れることはできない。

だが、“母の形見”という言葉が、胸の奥の抵抗を静かに溶かしていった。

「頼めるだろうか?」

その声に、万桜はこくりと頷いた。


風に揺れた鈴の音を合図にするように、静かに目を閉じる。

 
風が鈴を揺らすとき、神はいつも近くにいる。


しかし、神に仕える身でありながら、彼のために深淵を自ら覗きたいと強く思った。


 
夢見には、定められた呼吸の拍子がある。

四つ、長く息を吸い、心を鎮める。
二つ、短く息を止める。
八つ、吸った息よりも長く吐きながら、意識を沈めていく。


 
吐息が夜気に溶け、世界の輪郭が緩やかにほどけていった。
 
次の瞬間、視界が白く霞み、夢見が開かれる。

万桜は、光に包まれた夢の中で静かに問う。

 
「神よ、この書に記された理を、我が夢に示したまえ――」

瞼の裏に浮かんだのは、複雑に分岐する道筋と、絡まり合う運命ノ糸。


そのとき万桜は、古い書に記されていた一文を思い出す。
──“半神は運命に干渉し、人々を幸福へ導く”と。


夢は徐々に朧げになってゆく。

目を覚まそうと意識を呼吸に戻した、その瞬間。

「これ以上、近づいてはならぬ」

あの時と同じ、声ではない“何か”が、身体の奥で響いた。


――そうか。これは、神からの警告だ。


目を開けると、青年と目が合った。
 

灯籠の光が、青い瞳をかすかに照らしている。


万桜は視線をわずかにそらし、静かに告げた。
 

「……あなたには、人々の運命を変える力がある」


彼は少し驚いたように目を見開き、低く息を吐いた。

 
「……そうか。そうだったのか。礼を言う。」



「私といれば、あなたはその力を上手く扱えるはずです」

思わずこぼれた言葉に、万桜は自分でも息を呑んだ。

 


運命を“視る”巫女と、運命を“変える”半神。




これがのちに彼を追い詰めていく悲劇の始まりになるとは、このときはまだ誰も知らなかった。