春の宵、霞ヶ関神社は柔らかな風に包まれていた。
 

境内の石畳を滑る花びらが、まるで小さな川のように揺れている。

 
風鈴の音が、遠くで揺れる灯籠の灯火とともに、静かに夜を彩った。


万桜は箒を手に境内を掃きながら、数日前の夢を思い返していた。
 

夢の中で倒れていた、名も知らぬ、額に青い紋様が刻まれた青年。
 

「関われば不幸になる」と神は告げたが、心のどこかで、その言葉に抗うような気持ちが芽生えていた。



やがて、鳥の声に混じって――かすかな足音が、石畳を踏みしめる音が聞こえてくる。




その瞬間、万桜の胸の奥で、鈴がひとりでに鳴った。


万桜は思わず箒を止め、足音のする方を見つめた。
 

石畳の奥、灯籠の影の中に、あの青い紋様を持つ青年が立っていた。


青年の瞳は涼し気に澄んだ青色をしていた。
 

青い紋様、青い瞳。


額の文様は前髪で隠れているが、普通の人間には分からない人ならざる者の気配を万桜は感じ取っていた。
 


「……ここが、神社か」
 
 
低く落ち着いた声。
 

目が合った瞬間、万桜の胸の水面に微かな揺れが拡がっていく。

 
夢で見た彼が、現実に目の前にいる――


その出会いは静かに、だが確かに万桜の運命を大きく変えようとしていた。


「椿……どうして?」

 
そう呟いて、息を飲む。


名を知らぬはずなのに、彼の姿を見た瞬間、はるか昔からそう呼んでいたように椿、と口にしていた。
 

彼はゆっくりと頷き、短く礼をした。
 

「神ノ巫女――霞 万桜だな」

その声に、万桜は心の奥で淡い桜色のような暖かさを感じる。
 

神から「関われば不幸になる」と告げられた彼――なのに、なぜか惹かれてしまう自分に、戸惑いを隠せなかった。


春の風が二人の間を通り抜け、灯籠の光が揺れる。

 
万桜は無意識のうちに長い黒髪に触れていた。

落ち着かない時の万桜の手癖だった。


ひとひらの花びらが、風に乗って舞い上がる。


万桜は心の中で誓う――決して神の教えを破らず、でも彼を知りたいと。


運命の糸は、そっと絡まり始めていた。


 
夢と現実、神託と恋――その境界が、少しずつ揺らぎ始める。