「――俺、早く大人になりたい!!」

 虎太郎が目をカッと大きく開けて、そう放ったのは、雪でも振ってきそうな曇り空の下だった。
 寒さで赤くなった鼻の一番高い部分を見つめて、ただ言葉を失ったのを大河はよく、覚えていた――。

***

穏やかな春の風が頬を撫でる。
 新学期が到来し、晴れて高校三年生へと進級した大河は、今日から新一年生として同じ高校へ通うこととなった皐月虎太郎の準備を玄関先で待っていた。

「虎太郎! 早くしなさい、大河くんが待ってるでしょう!」

 朝からよく通る大きな声が響き、バタバタと階段を下りてくる虎太郎と目が合った。
 まん丸で、大きな目。デカイ図体のわりには、若干幼い顔立ちをしている。
 ぴょんぴょんと跳ねた髪は子供の頃から変わらず、本人曰く、何度直しても直らない部分とのことだった。

「お待たせしました! 大河さん!」
「待たされました。……じゃあ、行くか」
「はい!」

 母親から受け取ったパンをかじりながら、元気に返事をした虎太郎を見て、まるっきり大型犬のそれだなと思いながら、学校を目指して歩みを進める。
 虎太郎は早々にパンを食べ終えて、両手を振って登校へのワクワク感を表していた。

「今日から大河さんと同じ学校かぁ~! 楽しみ過ぎます!」
「同じって言っても学年違うだろ」
「そうですけど! でも、同じ場所に変わりはありませんから!」
「……変な奴」

 大河と虎太郎は所謂幼馴染という仲で、歳は違えど、昔からよく行動を共にしていた。
 呼び捨てで良いと何度言っても、頑なに敬語を止めない虎太郎を少し不思議に思う時期もあったが、今ではすっかりと慣れてしまった。

「そういえば、大河さんはもう大学とか決めたんですか?」
「いや、まだ詳しくは決めてないな」
「そっかぁ~、決まったら言ってくださいね。俺、そこ目指して頑張るんで」
「前から思ってたけど……なんでそんなに俺と一緒がいいんだ?」
「そりゃぁ好きだからに決まってるじゃないですか」
「好きって……お前、昔からそればっかだな」
「はい。俺、昔から好きな人は大河さんだけって決めてるんで」
「へいへい、ありがとよ」

 適当な返事をする大河を虎太郎は満面の笑みで見つめながら歩を進めた。
 あの曇り空の下で見せた表情が嘘のように、今の虎太郎は年齢相応に見える。
 最近まで義務教育だったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、なんだか落ち着かない気持ちが大河の胸をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。

「そろそろ着くぞ。あの桜並木の先だ」
「わ~! やっぱり春に来ると凄いんですね! 受験の時は気づかなかったけど」
「まあ、一応うちの学校の名物みたいなものだしな」
「そうなんですね」

 目を輝かせて桜並木を歩く虎太郎を尻目に、大河はふと、あの日のことを思い出した。
 大人になりたいと、真剣な眼差しで言ってきた虎太郎のあの真っすぐな、突き刺すような視線はいったいなんだったのか。
 どうして自分に、そんなことを打ち明けてきたのか。結局のところ分からずじまいで今日まできてしまった。

「大河さーん! 早く早く~!」

 ブンブンと手を振って、桜の木の下を走り回る虎太郎の姿は、さながら大型犬のようだ。
 これが手ではなく、尻尾であったのならば本当に犬のそれだったのだろうと思う。

「今行く」

 そう答えて、歩を進めると、突然強い風が吹き荒れ、辺り一面が桜の花でいっぱいになった。

「大河さん!!」

 風が止むまで暫く立ち尽くしていた大河の腕を、急に虎太郎が掴んで引っ張り上げる。

「……おわっ!」
「大河さん! 大丈夫ですか!?」
「なにが……」
「だって……桜で見えなくなっちゃったから、心配になって」
「はっ?」

 シュンとしながら答えた虎太郎に、大河は飽きれたように声を漏らした。
 たかだか桜吹雪に見舞われたくらいで、なにを心配する必要があるのか。
 だが、虎太郎にとっては重要な事柄だったようで、大河の腕を強く握りつつも、僅かに震えているようだった。

「大丈夫だから、そんな顔すんなよ」
「だってぇ~! 大河さんが居なくなっちゃったら、俺……っ」
「こんなので消えるわけないだろ?」
「なら……いいんですけど」

 怯えたようなか細い声で言い、虎太郎は大河から手を離すと、寂しそうに俯いた。
 そんな虎太郎の頭をわしゃわしゃと撫で、大河は笑って見せると昔よく言った言葉を口にする。

「虎太郎は偉いな、よしよし」
「うぅ……子供の頃みたいなこと言わないでくださいよぉ」
「だって、俺が居なくなるのが怖くて、必死に腕掴んだんだろ? 偉いじゃないか」
「偉い……ですか、俺」
「ああ。虎太郎は偉いぞ」
「……大河さんっ!」
「わわっ!? ちょっ、デカイ図体で抱きつくなっ!」

 先程までしょげていたのが嘘のように、大河に抱きついて全身で喜びを伝えてくる虎太郎をなんとか引きはがし、若干の照れ隠しをするように速足で学校へと向かう。

「急がないと遅刻すんぞ」
「それはマズイです! ダッシュしましょう!」

 桜並木の中を全力で走り、ギリギリでチャイムの音より先に校内へ入ることに成功すると、大河は荒い息を整えながら虎太郎のクラスを指さした。

「一年は一階だから、ここで解散な」
「はい。でも、帰りは一緒に帰りましょうね!」
「分かってるって。じゃあな」
「はい、いってらっしゃい」

 大河が階段を上っていくのを見送り、虎太郎も教室に入ると、ザワつく中を歩いて自分の席へ腰かける。
 辺りはまだ見知った顔ぶれではないけれど、そこまで心地が悪いものではなかったことに安心した。

「大河さん……やっぱり俺の気持ちには気づいてないのかな……」

 幼い頃から秘かに恋心を向けていた大河を想い、虎太郎は深く溜息を吐く。
 年上と言う名の壁が、ここまで高いとは思ってもみなかった。
 同じ高校に入学できたことは嬉しいが、一年と三年ではバッタリと廊下で出会うことも望み薄い。一日の大半を大河と過ごせないのは、虎太郎にとって死活問題だ。

「……早く、大人になりたい」

 ぽつりと呟く。大人になれば、何が変わるかは分からないが、少なくとも一緒に居られる時間は増えるはずだ。
 一緒の大学へ進学して、一緒の会社に就職して、一緒に暮らすこともできたら――そう妄想すると、胸が高鳴って勝手に口元が緩んでしまった。
 そんな様子をクラスメイトに気づかれないようにしながら、虎太郎の高校生活はスタートを切ったのだった。

***

「虎太郎! 悪い、待たせた」
「いいえ、俺もいま来たところです」

 本当は、一年生は早く終わったのだが虎太郎はそんなことは一言も言わずに、そう返して笑った。

「それじゃあ、帰りましょうか」
「だな。あっ、そうだ!」
「どうしたんですか? 大河さん」
「今日、両親帰って来ねぇから、夕飯自分で用意しないといけなかったんだ」

 忘れてた~!っと大袈裟に頭を抱える大河に、虎太郎は一瞬だけ悩んだ素振りを見せて、声をかけた。

「良かったら……なんですけど」
「ん?」
「俺、夕飯作りましょうか? 大河さん、料理苦手だし」
「マジか。それめちゃくちゃ助かるわ!」
「そんな大層な物作れませんけどね」
「十分だって! 母さんから出来合いの物禁止! 自炊しろっ! って言われたからさ」
「大河さんのお母さんらしいですね」

 厳しく優しい大河の母らしい言葉にほっこりとした気持ちを抱きながら、帰りついでにスーパーに寄って行くことを提案して通学路へと歩みを進めた。
 朝見た桜は、夕方でも美しく、それでいてどこか恐ろしくも見えて……虎太郎はそっと目を逸らして歩いた。
 そんな虎太郎を不思議そうに見つめ、大河は夕飯のメニューを思い浮かべて、ウキウキとした態度を見せる。

「大河さん、期待し過ぎですって」
「だって虎太郎って料理上手いじゃん? 楽しみでさ」
「そう言ってくれるのは有り難いですけど……あんまり期待はしないでくださいね」
「おう! めちゃくちゃ期待してるぞ!」
「話聞いてました?」

 ツッコミを入れつつ、最寄りのスーパーにやって来ると、テキパキと品物をカゴに入れ、レジへと持っていく。
 ひき肉や玉ねぎ等のハンバーグの材料が詰められたカゴを店員に渡し、素早く会計を済ませると、それらを入れたビニール袋を引っさげて大河の家と向かった。
 スーパーから徒歩3分程度の場所にある大河の家へ上り、買ってきた物を冷蔵庫へとしまう。

「夕飯にはまだ早いんで、とりあえず冷蔵庫にしまっておきますね」
「おう! そうだ、ついでにジュース出してくれ」
「はい、どうぞ」
「サンキュー」

 虎太郎から渡されたオレンジジュースを受け取り、二人分のコップへと注ぐ。
 鮮やかなオレンジ色が並々まで注がれていくのを尻目に、虎太郎はふと、キッチンにある柱に刻まれた跡をジッと見つめた。

「これって……」
「ああ、それな。俺の成長記録」
「身長の……」
「そうそう。お前ほどじゃないけど、結構伸びた方だろ?」

 オレンジジュース片手にニカッと笑って言う大河に、虎太郎は昔の出来事を思い出した。
 初めて大河を意識した日のこと――。

 幼い頃、所謂ガキ大将的な子供に、よくチビと罵られていた。
 罵られ、言い返せば鋭い拳が飛んできて、虎太郎はただ耐えることしかできない自分が嫌で仕方がなかった。
 そんな自分を変えたいと思っても、小さな子供ができることには限りがあり、虎太郎は泣きながら時が過ぎるのを待っては、情けなさに打ちひしがれていた。
 そんな虎太郎の前に颯爽と現れ、そのガキ大将をたったの一撃で負かしたのが大河だ。
 虎太郎が覚えているのは、泣きながら頬を包んで逃げて行くガキ大将の姿と、何かを言っている大河の姿だった。

「立てるか、虎太郎」
「は、はい……!」
「あんな奴のこと気にすんな。虎太郎だってすぐにデカくなるって」
「そう……ですね。あははっ……」

 多少の不安を胸に返した言葉だったが、実際に大河の言った言葉が本当になるとは思ってもみなかった。
 あれから、グングンと伸びた身長に驚くと同時に、大河のことを意識しだした自分に気づいたのはそれからだった――。

「大河さんは成長期早かったですしね」
「そうか? 平均くらいじゃねぇか?」
「俺が遅かったから、余計とそう思うのかな……」
「虎太郎は中学終わりくらいから一気に伸びたもんな」
「はい。俺もビックリしましたよ、まさかこんなにデカくなるだなんて」
「そうだぞ~、俺より先に大人になりやがって!」
「大人……?」

 背が高いと大人と言えるのだろうか。
 否、そんなわけがない。そんなことで大人になれたのなら苦労なんてしていない。
 なんとなしに呟かれた大河の言葉に、虎太郎はギリギリと奥歯を噛みしめて、気がつくと大河のことを無理矢理壁に押しつけていた。

「……虎太郎?」
「俺の……俺のどこが大人だって言うんだよっ!」

 叫ぶと、大河の肩がビクンと揺れた。
 それに怯える様子を見せた虎太郎だったが、今張りつめている気持ちの方が優先されたらしく、そのまま言葉を続けてくる。

「アンタに良いとこ一つも見せられてない……助けられてばっかりの、こんな俺の……どこがっ」
「虎太郎? どうしたんだよ……なんか変だぞ、お前」
「変? そうですよね。アンタからしたら、そうだ……」

 真っすぐに大河を見つめ、今にも泣き出しそうな顔で囁く虎太郎。
 そんな虎太郎を見上げて、大河は一滴の汗を滴らせると普段と違う姿に僅かな恐怖を覚えた。

「でも、これが俺の本音……気持ち、だから……」
「どういうい――んんっ!?」

 言葉を遮るように近づいてきた唇が有無を言わさず重なって、深く交わる。
 歯のつるりとした表面を舌で撫でられ、くすぐったさに身をよじるとすかさず肉厚な舌を絡められ、どちらのものかも分からない唾液が喉を伝っていく。

「ちゅくっ……んんっ、ちゅぱ、ちゅっ……」
「ちゅくんっ! ……はぁっ、大河さん」

 名残惜しむような銀糸を伝わせながら、虎太郎が囁くと、大河はゼェゼェと荒い息をしながら虎太郎を見上げた。
 普段は見慣れない、雄の顔をした幼馴染の顔にカッと顔面が熱くなる。

「……ごめんなさい、大河さん。でも、俺はずっと……こんなふうにアンタを見てた」
「虎太郎……どうして」
「理由は……たくさん有ります。だけど、ただ……好きってだけじゃダメですか?」

 震える声で言う虎太郎に、大河は首を横に振って答える。
 ずっとデカくてかわいい弟のような存在だと思っていた。そんな存在からの突然の告白に驚いていないわけではない。けれど、嫌な気持ちが湧いてくるわけでもなかった。
 満更でもない。と言うのが正しいのかもしれない。
 そう思うと、大河は無性に虎太郎が愛おしく思い、そっと伸ばした両手で虎太郎の頬を包んでいた。

「ダメなんかじゃない。てか、お前俺に嘘吐いただろ」
「嘘……? 俺、なにか変なこと言っちゃいましたか?」
「俺のどこが大人なんだって」
「だって、それは……」
「こんなドストレートに告白できてて、大人じゃないとか……無理ありすぎだろ」
「そう、なんですか……?」

 急に普段の大型犬のような表情に戻った虎太郎んみ笑いかけながら、大河は頷くと虎太郎の頬をムニッと摘まんだ。

「いひゃいれしゅうぅ」
「待てができなかったお仕置きだ! 嫌だったら、今度からはちゃんと言ってからしろよ?」
「ひゃいっ!」
「よし! それじゃあ、虎太郎……続き、シてみるか?」
「……えっ!?」

 頬から手を離し、そう言ってきた大河に虎太郎は慌ててキョロキョロと周りを見渡す。
 そんな虎太郎の様子を笑いながら見つめ、大河はバシバシと虎太郎の肩を叩いた。

「じょーだんだよ! 安心しろ」
「よか……いや、良くはないの……か?」
「なんだよ、俺ともっと親密になりたいのかぁ~?」
「それは……はい」
「マジか」
「でも……まだ、心の準備がっ……!」

 顔を真っ赤に染めて言った虎太郎に、大河はわざと舌をチラつかせてそう言うと、ピンッと立てた人差し指で虎太郎の胸を突いた。

「大人の階段はゆっくり上ってこうな。今度は俺も一緒に」
「大河さん……はいっ! ゆっくり、頑張ります!!」
「おう! じゃあ手始めに晩飯からだな。頼んだぞ、虎太郎!」
「はい! ……って、あれ?」

 突然すり替わった会話に疑問を持ちつつも、虎太郎はハンバーグの準備を始めると、大河はその姿を後ろから見つめて、微笑ましく笑った。
 大人になりたいと叫んでいた弟分は、十分なほど大人で、まだまだ子供だったことが嬉しくてたまらなかった。
 そんな幸せを感じながら、大河は漂ってくる夕飯の香りにうっとりと目を細めるのだった。