箱入りオメガの受難


 給湯室を出たとき、別部署の同期が廊下の向こうからやってくるのが見えた。隣に社外の人間を連れているのが、首に掛けた来客用カードで見て取れる。

 瑠璃は給湯室に身体を戻し、二人が去るのを待つことにした。のだが……

「まじか、唐種じゃん。オレオレ、同じ中学の。覚えてる?」
「あれっ、お二人知り合いなんですか?」
「…………」

 言葉が出てこなかった。洒落たスーツを着た男が目の前に立った瞬間、フラッシュバックのように過去の記憶が頭の中に浮かんでくる。なんで、今……ここに?
 こいつは、瑠璃をイジメていたグループのリーダーだったのだ。確か名前は、杉名(すぎな)
 
 普段は忘れているけど、今日みたいに嫌なことがあると思い出す。小柄で女顔だからという理由で『オカマ』と呼ばれ、いつも瑠璃をイジって笑いのネタにしていた。
 持ち物を盗まれ隠され、瑠璃が泣くといつも喜んでいた。

「同級生なんですよ。こいつが転校しちゃって、あれからどうしてるのかな〜って……もう十年も経つのか。懐かしいな」
「ええ! すごい偶然ですね!? 唐種くん、彼は取引先の息子さんなんだ。よかったら今夜の懇親会も来てよ」
「……知りません」
「え?」
「人違いじゃないですか? では、失礼します」

 自分を守る方法が知らないふりしかないなんて、情けなさすぎて泣きたい。しかも取引先の人なら、今の態度は絶対にアウトだ。
 でも瑠璃はその場を離れることしか考えられなかった。こいつから一刻も早く離れたい。

 足早に部署へと戻るも、頭に鈍い痛みが鎮座していて、これから仕事に取りかかれる気がしなかった。あと一時間ちょっとで定時だったものの早退を告げると、部署のみんなから一斉に心配される。

「ちょっと、瑠璃ちゃんどうしたの!? 真っ青! 歩ける? タクシー呼ぼうか?」
「緊急連絡先……お兄さんに連絡したほうがいいかも」

 口々に心配され、兄の鴇にまで連絡されかけたがそれだけは止めた。大丈夫、これはほとんど精神的なものだと分かっている。ただの厄日だ。

 結局タクシーだけ呼んでもらい、中途半端になってしまった資料作りは同僚に任せた。みんなの優しさに涙が出そうになる。大丈夫、いまはこんなにも温かい場所にいる。

 会社ビルの外に出ると、雨が降りはじめていた。これではタクシーもなかなか来られないだろう。ビルに出入りするビジネスマンたちの邪魔にならないよう、瑠璃は近くの屋根があるバス停のベンチにぽつんと腰掛けた。
 この前発情期休暇をもらったばかりなのに、また休むなんて。明日は会社に来るつもりだけど、たった数時間の早退でも罪悪感が拭えない。

(……ダメ人間すぎる)

 今日だけでどれだけの人に迷惑を掛けただろうか。それに琥珀。いくら強メンタルのストーカーでも、もう瑠璃に会いに来ようとは思わないだろう。もともと友人とも言えない、知り合い程度の関係だったのだ。
 自分で突き放した。いくらムカついていたからって、推測では言ってはいけない言葉だった。敢えて相手を傷つけるような発言をしてしまったことを後悔してもすでに遅い。

(つまるところ、おれもいじめっ子と一緒じゃん……)

 どんより重い、湿気を含んだ空気に全身を包まれる。体調が悪いせいで気分が落ち込むのか、気分が落ち込んでいるから体調が悪いのかどっちだろう。とにかく今日は早く帰って早く寝るべきだ。

 目の前に車が止まって顔を上げる。タクシーが来たかと思ったのだ。しかしそこに止まっていたのは、行灯のついていないセダンカーだった。

「乗れよ」
「……え?」

 助手席の窓を開けて運転席からこちらを向いているのは、杉名だ。何を言っているのか分からない。
 ノレ? なんで? 瑠璃が関わりたくないと思っているのが分からないのか。いや、分かっているからこそ嫌がらせをしているのだ。

「他人の振りをするお前のせいで恥をかいたんだぞ? 償えよ」
「い……いやだ」

 償うのはそっちだろう。小学校高学年で同じクラスになってから中学で転校するまでの四年間、この男のせいで瑠璃は恥をかきつづけたのだ。
 これでも自分は大人になった。弱々しい声ではあったが、瑠璃は反旗を翻す。
 
 いまの杉名は一人で、取り巻きもいない。杉名が瑠璃を車に引っぱり込まないかぎり、抵抗が可能な位置にいるのも大きかった。
 なにかあったときのため、鞄から催涙スプレーを取りだす。

「お前さぁ、そんな態度が許されると思ってんの? オレの会社、お前の会社の大口顧客だけど」

 え……そうなのか? 瑠璃は恐怖と混乱で、すぐには自分が脅されていることに気づかなかった。そういえば、同期が取引先の息子って言ってたような。つまり……?

「あはは! オメガってやっぱ頭わりーのな。お前がオレに従わなかったら、この会社は終わりってことだよ。お前のせいで」
「え……そんな……!」

 思わずベンチから立ち上がった。カラン……とスプレー缶が転がっていく。
 どうして瑠璃が会社の命運を握ることになるのか、さっぱり理解できない。しかし杉名がそうしようとしていることは分かる。
 彼はなおも喋り続けていた。理解の遅い子に、ゆっくりと言い聞かせるように。
 
 ――瑠璃が従えば。従って、杉名に償えば、会社には何もしない。

 雨が強まる。たまに人が近くを通り過ぎていくが、会話までは聞こえないだろう。
 頭がガンガンと痛むのは、警鐘かもしれなかった。オメガが、悪意を持ったアルファとふたりきりになるなんて正気の沙汰じゃない。
 
 ……でも。瑠璃は車に向かって一歩踏み出す。
 会社は駄目だ。このオメガフレンドリーの会社には、瑠璃と同じようなオメガ性を持つ人たちや、それを理解して一緒に仕事してくれる大切な人たちがたくさんいる。
 彼らを守れるのなら、瑠璃は自分を差し出すほかない。そう思った。

「瑠璃さんっ!」

 助手席のドアハンドルに手をかけたとき、雨音の隙間を縫って信じられない声が聞こえてきた。

「琥珀……?」
「早くしろ!」
「ッ……!」

 姿がどこにあるのかは分からない。けれど琥珀の声で、遠くから名前を呼ばれた。
 思わず身体を起こして探そうとする。だが杉名が運転席から手を伸ばして助手席のドアを開け、呆然としている瑠璃の手を掴み引っ張り込んでしまった。「ドアを閉めろ!」と強い圧で命令されると、無意識に従ってしまう。

 直後に車は走り出した。一瞬ちらりと見えた長身の姿が琥珀だったのかもしれない。

(おれ、ひどいこと言ったのに……迎えに来てくれたのか?)

 ぎゅうっと痛いほど胸が締め付けられた。愛おしくて苦しい。琥珀がただの義務感で瑠璃を守ってくれているのだとしても、なんとか心を通い合わせてみたかった。

「さっきのやつ、お前の男? ――ふぅん、でも、番になってないんだな」
「っやめて!」

 運転しながらハイネックの首元を引っ張って下げられ、ネックガードを確認される。とっさに杉名の手を振り払うも、項の近くを触られただけで生理的嫌悪に鳥肌が止まらない。

「っざけんなよ! お前は生意気になりすぎだ。昔はあんなに従順で、泣いてすがってきたくせに……まぁいい。この歳になっても独り者のオメガなんて可哀想だからな、オレがお前を番にしてやるよ」
「っ……」

 キレた杉名の大声が車内に響き渡った。しかしその直後、嬉しそうに提案された内容は想定しうる中でも最悪のものだ。思わず引きつった悲鳴を上げそうになり、口を両手で押さえる。

 こいつの思い通りになんてなりたくない。強くそう思うのに、瑠璃が逃げれば会社に不利益が生じてしまう。

 スマホが震え、取りだすと琥珀からの着信だった。琥珀に縋りたい。電話に出て、助けを求めたい。……歳下に対し、なんて情けない男なんだろう。

「出るなよ。電源切っとけ」

 従うしかなく、スマホの電源を落とす。唯一の救いの糸が、プツンと切れた気がした。