朝。家を出る直前にピロン、とスマホが鳴り、画面に『琥珀』の名が表示される。横目にそれを確認した瑠璃は、はぁ〜〜〜と大きなため息をついた。
あれから早二週間、瑠璃の生活は完全に元通りになった……とは言いがたい。いつの間に連絡先を交換したのか、瑠璃のスマホには琥珀という奴から日々連絡がくるようになったのだ。
『慌てていて名乗るのを忘れていましたが、琥珀といいます。家には無事に帰れましたか? もしなにかあればいつでも連絡ください。電話番号は090-xxxx-……』
『瑠璃さんと出会ってから、モノクロだった世界がカラフルになって見えます。今日も同じ世界の空気を吸っていると考えるだけで幸せです』
『瑠璃さんはかわいいから、変質者に攫われたりしないか心配しています。先日送った防犯ブザーと催涙スプレーは持ち歩いていますか? 僕は大学生なので、瑠璃さんの会社の行き帰りに送迎もできます』
『攫われていないか心配だったので、今日はちょっとだけ瑠璃さんの姿を見に行きました。かわいらしくて昇天しそうでした。ところで、隣にいたスーツ姿の男は誰ですか?』
エトセトラエトセトラ……
「きっっっも」
琥珀は完全にやばい奴だった。ストーカーじゃん。なんでうちの住所知ってんの? 大量の防犯グッズが勝手に送られてきて、瑠璃は震え上がった。
ま、この前みたいなことがあったときに琥珀みたいな奴を追い払うために催涙スプレーは持ち歩くことにしたけど。
自宅を出て十歩くらい。スーツ姿の瑠璃は前触れなく立ち止まり、どこへともなく話しかける。
「いるんだろ? 琥珀。出てこいよ」
「はひっ……」
引きつった息ともつかない返事が聞こえ、電柱の影から猫背が現れる。いまどき電柱って……。見に行ったと言われるまで気づかなかった自分も自分だが。
「おれに会いにきたんなら、声くらいかけろよ。影からコソコソ見てるだけじゃ、そのうち通報されるぞ?」
「そっ、その……迷惑じゃ、ないですか?」
「知り合いが通報される方が迷惑だっての。ほら、行くぞ」
「えっ」
ぽかんと突っ立っている琥珀を置いて歩きだすと、すぐに後ろを追いかけてくる。どんくさい犬みたいだ。
そうして、瑠璃は会社の近くまで琥珀に同行される習慣ができた。満員電車では全身全霊で守ってもらえるので意外と快適だ。
(あと、なんかすっげーいい匂いするんだよな……)
きっと庶民には手の届かないセレブな柔軟剤を使っているに違いない。
「琥珀ってさ、おれのこと心配だからついてきてるんだよな?」
「っ、はい! かわいいので!!!」
「……うるさ。例えばおれが誰かに襲われたとして、助けられんの? なんか武道とかやってた?」
そう訊くと、琥珀は何を想像したのかブルブル震えだした。眼鏡越しに焦点の合ってない目で一点を見つめ、「……ころ、ころしてしまうかもしれない……」などと呟くので焦る。
「は、早まるな! いいか、おれは生まれてこの方誰かに襲われたこともないし、付きまとわれたことも……お前が初めてだ。だからこれはただの世間話だって」
「僕っ、ぼくっ、命に替えても瑠璃さんを守りますっっ」
「だから重いんだよなぁ」
そんな世間話をした翌日から、琥珀は柔道を習い始めた。小学生に混じりながら教えてもらうらしい。
指導員の先生に姿勢の悪さを指摘されたようで、少しだけ猫背が改善した。そうすると背がさらに高く見え、ちょっと格好良く見えてきたので瑠璃は思わず頭をブンブン振った。健気なストーカーオタク男子に騙されてはいけない。


