その後病院へ連れて行かれて、身体はなんともなかったのですぐに帰ることができた。といっても瑠璃が今いるのは自分の家ではなく、琥珀の家だ。
 リビングルームの大きな窓からは、都内の煌めく夜景が一望できる。

「やっぱスケールが違うわ」
「そんなことより! 瑠璃さん……心配しました」
「ん。ありがと……ていうか……ほんとごめん」

 琥珀は瑠璃が車に乗り込むのを見て、攫われたと思ったらしい。ま、攫われたようなものだけど。そのまま彼は瑠璃の会社へ駆け込み事情を伝えると、相手の素性はすぐにわかった。
 またタクシーの運転手から乗る人がこないと連絡があって、瑠璃の部署でも騒ぎになっていたようだ。

 警察に連絡するかという話も出たようだが、時間がかかるし場合によっては瑠璃の名誉にも関わる。だから琥珀は、()()()を使った。
 具体的な内容は教えてくれなかったものの、あっちこっちに圧力を掛けて杉名の住処を探し出し、セキュリティもなんなく突破してあの場への登場となったみたいだ。

 ちなみに杉名はかなり大言壮語を吐いていたらしい。確かに親の会社は瑠璃の会社の顧客だが大口でもなんでもなく、息子の杉名自身にはなんの決定権もなかった。瑠璃の会社社長と琥珀の父親の前で、杉名の父親は土下座したという。
 しかしオメガを傷つけようとした事実を誰も甘く見なかった。会社同士の契約は解除、杉名には社会的制裁が与えられ、二度と表舞台に出てくることはないそうだ。下手したら逮捕されるよりきつい。

「結局会社に迷惑かけちゃったな……」
「そんなことありません! 悪いのはあの男で、瑠璃さんは被害者なんですから……。それにうちの親がなんかしてくれたらしくて、瑠璃さんところの社長小躍りしてたらしいですよ」
「え」

 瑠璃はたまに廊下ですれ違う社長を脳裏に思い浮かべた。陽気で丸いおじさんといった感じの人で、どの社員にもにこやかに挨拶してくれる。小躍りが容易に想像できてしまって、瑠璃は頭を抱えた。

「なんか申し訳ない……琥珀の親って、なにやってる人?」
「父がIT関連の会社をいくつか経営してるみたいです。うちは母がオメガなので、オメガを大事にしている瑠璃さんの会社のこと絶賛してましたよ。『経営は下手だけど心意気は最高』だって」
「絶賛か……?」

 琥珀の家について、それ以上訊くのはやめておこう。近いうちにお礼は伝えに行きたいが、相当な権力者だと知ってしまっては腰が引けてしまうと思うのだ。……もう遅いとは思うけど、掘れば掘るだけすごい事実が出てきそうでやっぱり追求しないほうがいい。

 キッチンで温かいお茶を淹れてくれていた琥珀がローテーブルにそれを置いて瑠璃の隣に座った。ソファが広いので隣り合ってもかなり距離がある。二人で通勤したり出かけたりしていたことを思うと、琥珀が気を遣って距離を置いていることがわかる。

 瑠璃はずりずりと尻をずらして距離を縮めた。腕同士が触れそうなほど近くなると、琥珀が肩をびくっとさせる。

「今朝は苛々してて……最低なこといってごめん。琥珀が大学で遊んでるなんて思ってないし、おれとヤるために一緒にいるなんてこと、思ったことないから」
「いいんです。僕が瑠璃さんのこと、怒らせたんですよね……?」
「違う。この前、変な夢見て……っていうか! お前とヤったこと思い出したら恥ずかしくて……すげー意識したせい」
「…………」

 素直にならなければと思って言葉を紡ぐが、どんどん顔に熱が上ってくる。近づくと、瑠璃を安心させる香りが鼻先を掠める。
 琥珀はいつの間にかこちらをまっすぐと見つめていた。眼鏡越しのくせに、突き刺さるような視線だ。

「あいつと一緒にいるあいだ、ずっと心のなかで琥珀に助けを求めてた。あいつに番にされるって言われたとき、どうして琥珀はおれを番にしてくれてないんだとさえ思った。ほんと、自分勝手だよな……」
「るるっ、瑠璃さん」
「おれさ、いつの間にかお前のこと好きになってたみたい。琥珀はただの責任感で一緒にいてくれて、おれのことなんて好きじゃないかもしれないけど……」
「好きです!」

 被せるように琥珀が告げた。瑠璃は目を丸くする。

「ええ? おれ、自分で言うのもなんだけど……琥珀からしたら歳上の、なんの取り柄もないオメガだよ?」
「すごくかわいいじゃないですか! そっそれに、最初は一目惚れだったけど、一緒にいると何気ない会話とか全部楽しくって……僕のしつこいメッセージにも必ず返信くれて、こんな見た目なのにそれを直せとか言われたこともないし、隣を歩かせてくれるし……瑠璃さんの優しいところに心底惚れてます」
「……お前のことダサいと思ってたけど」
「でも服を変えろって言わなかったでしょう。僕の家を見ても態度変えなかったし……初めて他人にあるがままを認められた気がしたんです。これで好きにならずにいられますか?」

 膝の上で布地を掴んでいた手を、そっと掬い上げられる。女のように華奢でもない手を大事そうに包みこまれ、痛いほど真剣な気持ちが伝わってくる。

「それに……気づいてますか? 僕達は運命なんです。僕も抑制剤を飲んでますけど、瑠璃さんのヒート中のフェロモンはしっかりと感じました。そんなの初めてだったので、あ、あんなことを……」
「うん、めい……? え……もしかして、琥珀からいい匂いしてたのって……」
「僕は香水使いませんから、きっとフェロモンなんでしょう。運命の相手同士だと、抑制剤も意味がないと聞きます」

 そんなこと考えもしていなかったから、ぽかんとしてしまった。しかし、言われてみれば思い当たることがいくつもある。
 琥珀といるときにだけ感じる、蠱惑的な香り。人工的な香りとかではなく、身体の芯からなにかを掻き立てるような感覚だった。あれがフェロモンだとすれば、すっと薬を飲んでいるため他のアルファからは感じたことのないものだ。

 運命の相手といると、周期と関係なく発情期が来たり、発情期じゃなくてもフェロモンを出してしまったりするらしい。瑠璃と琥珀はお互いに抑制剤を飲んでいたため気づきにくかったが、身体はちゃんと反応していたようだ。
 今日はいろいろあったため割とギリギリだったが、病院で緊急用の注射を打ってもらったのでもう落ち着いている。

「まじか……」
「嫌、でした?」
「まさか! ……嬉しい。でも、運命じゃなくてもおれ、琥珀のこと好きになってたと思う」
「……っもう! あんまりかわいいこと言わないでくださいよ! 我慢してるのに!」

 ぎゅうっと抱きしめられて、瑠璃も琥珀の背中に腕を回した。やっとここに戻ってこられた気がする。ここが、瑠璃の居場所だ。
 
 顔を上げると琥珀の顔が近づいてきて、静かに唇が重なった。発情期のあいだにキスもしたのかもしれないが、瑠璃にとってはファーストキスだ。とても幸せで、パチパチと喜びが湧き上がり、全身に広がってゆく。

 恥ずかしいけど、嬉しい。離れていった唇を追いかけたくなって、自分の内に隠れていた欲望に驚いた。でもきっと、瑠璃だけじゃない。上目遣いに見上げながら琥珀に尋ねる。

「なぁ……エッチ、する?」
「はわっ……い、い、いいいんですか!?」

 自分のことは置いておくが、童貞みたいな反応だ。焦った喋り方がおもしろくって、抱き締めあったまま肩を震わせてくすくす笑ってしまった。

「もう二度目じゃん。おれは覚えてないけど」
「いっ、いえ……エッチはしてません」
「……は? ヤッたって言ったじゃん」
「その、瑠璃さんの……自慰のお手伝いで、お身体に触れました。それだけですが、でも、秘部にも触れてしまったので……」
「えええ〜〜〜……」

 あのときはっきり言えよ! 言われたら黙れと叫んだに違いないが!

 一気に脱力して、琥珀の方にぐでんと頭を預ける。衝撃的な事実に、いいムードも霧散してしまった。
 とはいえ「ごめんなさい……」と項垂れる琥珀を見ると、怒る気持ちはもう浮かんでこない。

 結果として、良かったんじゃないか? だって、覚えていない初めてなんてつまらない。事故じゃなくて、ちゃんと好きな人と身も心も通じ合いたい。

「……なら、急ぐのもなんかもったいないな」
「え?」

 順番があべこべになってしまったけど、これからずっと一緒にいるのならゆっくり進んでいくほうが楽しそうだ。たぶん、自分たちにはそっちの方が合っている。

「今日は一緒に寝るだけにしよーぜ」
「え……!! ……期待しちゃったんですけど」

 提案すると、琥珀が拗ねたように口を尖らせる。なんか思った反応と違うな……? ま、いいか。
 
 その後交代でシャワーを浴びたあと、琥珀が夢の中のイケメンに大変身して瑠璃は腰を抜かすほど驚いた。ここまでのギャップは心臓に悪い。
 でもなんか、どっちでも好きだなと思ってしまうんだから自分は相当この男に惚れてしまっているらしい。

 その夜はもう一回だけキスをして、手を繋いで眠った。