瑠璃(るり)は目を覚ました。たっぷり眠ったあとのような、すっきりと気持ちのいい朝だ。

「……ん?」

 頭の中はすっきりしているのに、状況が理解できない。きょろきょろと見渡すも、そこは自分のベッドでも自分の部屋でもなかった。

「ここ……どこ?」

 さすがに「わたしは誰……?」とはならない。瑠璃は社会人三年目の立派な大人の男だ。見た目的に立派と言われたことはないけど、自分で稼いだお金で生活しているので立派な大人だと自認している。
 身体が成人男性のなかで比較的小柄なのは、遺伝とかもあるし仕方のないことだ。なにより瑠璃の持つ二次性が『オメガ』――つまり妊娠や出産ができる性――だから、男と女のあいだくらいの体型になりやすいらしい。

 自分の二次性のことを考えて……ビクッと身体が震えた。もしかして――ヒート事故を起こした? あるいは――ニュースでよく見るオメガの拉致監禁事件?
 慌ててうなじに手で触れるも、そこにはネックガードがちゃんとついている。その下も、まっさらな皮膚のままだ。――セーフっぽい?

 瑠璃は発情期中の記憶がかなり曖昧になるタイプだ。必死に記憶を手繰り寄せていくと、そういえば、仕事帰りに突然ヒートが来たような気がする。
 常に持っているはずの緊急抑制剤がなかなか見つけられなくて、道端でうずくまっていたら誰かが声を掛けてきて……

「あっ、おっ、起きましたか!?」
「うわぁ!」

 急にガチャッと部屋のドアが開いて、知らない男の人が話しかけてきた。瑠璃はビクゥッとベッドの上で飛び上がり、自分を守るように手元にあった毛布を手繰り寄せる。

 そこにいたのは長身でスタイルのいいイケメン――などではなく。背こそ高いが、なんか猫背でオタクっぽい男子だった。長めの前髪と眼鏡で目元が暗く、陰気に見える。喋り方も挙動不審だ。

「あっああああの! もう、大丈夫ですか……?」
「う。え……やっぱりおれ、発情期だった?」
「まさか、記憶が……?」
「ございません」

 瑠璃も、ドア付近にいるオタク男子も青褪めた。なんということでしょう。やはり瑠璃は発情期をここで過ごしてしまったらしい。

 そこでようやく自分の身体を確認し、見たことのないパステルピンクのパジャマを着ていることに気づく。もぞもぞと毛布の下で身体を動かすと、尻に違和感が……

「まじか。おれの初めてが……」
「すみません……しんどいですか? 病院行きます?」

 大事に守ってきたというほどではないけど、それなりに思い入れはあった。いつか好きな人と……なんて夢はガラガラと崩れていく。

 ――唐種(からくさ)瑠璃、二十五歳。ヒート事故で処女を失いました。
 
「そこのお前!」
「っひゃい!」

 瑠璃はキレた。キレてないとやってられなかった。オタク男子が逆上したり拉致監禁するタイプには見えなかったから、思い切って尋ねる。念には念を入れましょう。

「ヤッたの……?」
「……はい。ヤりました……」

 なんということでしょう。瑠璃はやっぱり天を仰いだ。
 知らない天井が瑠璃を見下ろし、虚無感を嫌味なほど与えてくる。なんだここは、広いくせにベッドしかないし、寝室か?

「ここ……どこ」
「僕の家……ですね」
「一人暮らし? 一軒家?」
「一人暮らしです。アパートで、ここは寝室です」

(なんかおれの家とスケールが違う……)

 瑠璃が住んでいるのはワンルームのアパートだ。寝室なんてない。
 金持ちかな、なんか若そうだし、見えんけど……と失礼なことを考えつつ瑠璃はベッドを下りた。

 ぺた、とフローリングに足をついたところで、オタク男子が声を掛けてきた。ドアのそばで膝をつき、三つ指をつく。え、いきなり怖いんですけど。

「あっ、あの……責任取らせてください!」
「は……? まさかあんた、アルファ?」
「……はい、すみません」
「えーまじか」

 失礼ながら見た目から想像がつかず、意外だった。うっすらと思い出した記憶では、この地味で冴えない男ならオメガである瑠璃を襲ったりはしないだろうと思い、差し伸べられた手を取ったのだ。
 
 結局思い違いだったというわけ。でもまぁ、アルファがヒート中のオメガを前にして我慢できるはずないのも分かっている。
 運が悪かったと思うしかない。あのときすぐに薬を見つけられず、ふらふらとアルファについていってしまった自分のせいだ。

 (つがい)にされなかっただけマシだろう。身体も痛かったり衰弱したりもしてないし、発情期のあいだちゃんと人として扱われていたことがわかる。

「気にしなくていーよ。割り切るから」
「えっ……でも……」
「お互い忘れよーぜ。じゃ、帰るわ仕事あるし」

 ありがとうというのもおかしい気がして、瑠璃はあっさりなかったことにしようと決めた。記憶もないし、おそらく健康だし、ここでサヨナラすればなかったことになる。

 オタク男子は納得しているようには見えなかったものの、瑠璃がパジャマを脱ぎながら「服、ある?」と訊けば、赤面しながら綺麗に畳まれた瑠璃の服を差し出した。
 なにを今さら照れるんだ、と突っ込みたくなったけど、なかったことにするならこれでいいかもしれない。全部忘れてくれ。
 渡された服は皺もなく、一度洗濯してくれたらしい。ありがたく着直して、瑠璃は玄関へと足を向ける。

「ああああの! 瑠璃さん! たぶん、僕達、運め……」
「世話んなったな。あと……ごめん」

 追いかけてきたオタク男子がなにか言おうとしているのは分かったものの、無視して玄関を出た。
 結局謝ってしまった。瑠璃がヒートなんて起こさなければ彼だって襲わなかっただろうし、家に他人を入れて何日も潰さなくて済んだのだから。

 玄関を出てすぐのところにあったエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。

「最上階かよ……」

 しかも一階には立派なエントランスがあり、コンシェルジュらしき女性がいて「行ってらっしゃいませ」と丁寧にお辞儀された。日本人らしい神経反射で思わずぺこりと会釈する。

「マンションじゃねーか! それもセレブなやつ!」

 めちゃくちゃ金持ちじゃん! と突っ込みながら建物を出て、スマホを出して日時と現在地を確認する。発情期が始まって終わるまでなので、がっつり五日間は経っている。
 慌てて職場へ連絡しようとするも、上司へ発情期休暇申請をしっかり出していたことに気づきホッと息をついた。覚えていないけど立派な社会人として最低限のラインはクリアしていたらしい。

 現在地は職場からそう離れていない場所だった。一等地だ。

「何者やねん……」

 瑠璃のなかのエセ関西人が出てくるほど、オタク男子は謎スペックだ。しかしもう会うことのない人物だし、忘れよう。
 もう一度自分に言い聞かせて、瑠璃は家路を急いだ。