「あ、研究室の鍵は僕が閉めておきますんで」

社会人でもあり、大学院生でもある佐野春馬(さの はるま)は指導教員の山本教授に返事をした。

「あぁ、ありがとう。もう20時だし、早めに切り上げて帰るんだよ」

「はい、もうしばらく頑張ったら帰るようにします」

僕は研究室の窓から見える暗い空を見ながら答えた。

28歳になっても大学院生をしていると、色々と悩みは尽きない。

思うような成果が出ない研究や不安定な収入……と、学生でも社会人でもない中途半端な感覚になる。

こうして夜遅くまで研究室に残っていると、その感覚はどんどん大きくなって僕を襲う。

 だけど僕が遅くまで研究室に残っているのには理由がある。

それは大学の近くにある弁当屋に20時30分頃に行きたいからだ。

毎週金曜日の20時30分頃に弁当屋に行くと、いつも会う男の人がいる。

168cmの僕よりもおそらく10cm以上背が高くて、日焼けをしていて、筋肉質な人。

弁当屋の店員にはいつも「いただきますっ」とニコッと笑って礼を言うジャージ姿の彼。

ついでに、僕にも「お先っす」とか「お疲れ様です」と八重歯が見える人懐っこそうな笑顔で挨拶をしてくれる。

僕はよく知らない彼の笑顔と一言だけで、1週間分の仕事と研究の疲れが吹っ飛んでいく気がするのだ。

 今日も会えるかな、と時計が20時20分になるのを確認してから研究室の電気を消して鍵を閉める。

ぼんやりと暗いキャンパス内を歩き、大学の外に出る。

すっきりと丸い満月を見上げると、秋の涼しい夜風がふわりと頬を撫でた。



 「え……店閉まってる?」

いつも明るい光を放っている店が、今日は暗い。

まさかなと思い、弁当屋まで歩いて行くと、店には『誠に勝手ながら本日は臨時休業とさせていただきます』と張り紙が貼ってあった。

いつもの彼に会えるのを楽しみにしていた分、臨時休業は痛い。

1週間分の疲れどころか、来週の疲れも前借りした気分だ。

「うわぁ〜、やっぱ今日、休みかあ」

心の中で大きなため息をついていると、背後から誰かの声がした。

慌てて振り返ってみると、口元から八重歯を覗かせた彼が頭を掻きながら立っていた。

「……あ、そう、みたいですね」

僕は独り言のような彼の言葉に返事をした。

「あ、お兄さん今日もお疲れ様っす」

彼は僕を見て、いつもの人懐こい笑顔を見せて挨拶をした。

彼の笑顔を見た瞬間、胸の辺りがほわっと温かくなった。

なんだか疲れがちょっとだけ取れた気がする。

「……お兄さん、晩飯どうするんすか?」

「えっと、どうしようかな。弁当の予定だったんだけどな」

弁当を買ってから家に帰るつもりだったから、答えに詰まってしまった。

「あの、もし良ければ一緒に食いません?どっか探して」

予想もしてなかった提案に、僕は勢いよく彼を見上げた。

「い、行きます!」

「へへっ、行きましょ、行きましょ」

彼は嬉しそうに笑った。

「俺、翔太っていいます。お兄さんは?」

「僕は佐野です。佐野春馬です」

「春馬さん。何食べたいっすか?」

翔太くんは、ポケットからスマホを取り出して、片手で操作をし始めた。

大きな手に包まれたスマホは、僕が持つスマホより一回り小さく見える。

「なんでも大丈夫。翔太くんの食べたいもので」

「んー。なんだろ、俺、唐揚げ食べたかったんだよなあ」

「じゃあ、焼き鳥とか……?」

「え、いいんすか?俺、腹ペコですよ?」

「ははっ、いいですよ。せっかくですし」

「じゃっ、焼き鳥で。いっぱい食べましょ。俺、近くに焼き鳥ないか探しますね」
そう言って翔太くんはスマホの画面に目を向けた。

翔太くんは「どこにしようかな〜」と楽しそうにスマホを操作している。

それだけなのに、何故かすごく格好が良い。

元の骨格なのだろうか。

僕も男なのに、かっこいいなあと、つい見惚れてしまう。

きっと人生ずっとモテてきたんだろう。

「うん?」

ぼーっと翔太くんを観察していたら、スマホ越しに翔太くんと目が合った。

「あ、いやっ。お店、僕も探します」

僕は慌ててスマホを取り出して、焼き鳥屋を探すフリをした。